麻生有里「満月の底」(「狼」22、2013年12月発行)
09日に書いた中尾太一の感想のつづきになるかもしれないが、私は詩を読むとき「音」が聞こえないと、どうも落ち着かない。「キー」があわないのか「リズム」があわないのかよくわからないが、どんな文体にも「音」(音楽)があって、それが聞こえるときと聞こえないときがある。私が古い人間で、昔の「音楽」しか受け付けないということなのかもしれないけれど。
麻生有里「満月の底」は、音楽が聞こえる。
「記憶の桁」という抽象から始まるのだが、そういうものがあると考えたことがないのに、「違和感」がない。まったく新しいものがそこにあって、それが耳にすっと入ってくる。そのとき「視力」も影響しているかもしれない。「桁」という漢字が私には妙に抽象的に感じられる。「桁」という文字を書かないせいかもしれない。「記憶」は書くが「桁」は書かないなあ。いつもつかうものと、まったくつかわないものがぶつかって、いつもつかっている「記憶」から「いつも」を洗い流す。そのために抽象的な印象がさらに強くなる。
つづいて出てくる「同じくらい」は「同じ程度」いう意味だろうけれど、何が「同じ」なのかわからないまま、「桁」と「くらい」がどこかですれ違う。平田俊子なら、ここから「だじゃれ」へ向けてことばを解体するかもしれないが、麻生はそういうことはしない。
2行目まで読んで、「同じくらい」が「同じくらいの数」だとわかる。ふつうなら「無数」(たくさん)という感じですませることばを、麻生は「記憶の桁」という奇妙な抽象でつかんでいる。
で、1行目の「桁」(数)が2行目の「整列」ということばとぶつかるとき、そこには何か数学的というか、「もの」を「もの」そのものではなく、「もの」を整理する何かで把握し直す力が働いているように感じる。私の「感覚の意見(直感)」でいえば、ここには数学の音楽が響いている。抽象--というより、麻生のことばは「数学的」なのだ。数学の論理(音楽)だね。あるいは、「物理」といってもいいかも。だから、なんとなく抽象的と感じる。--抽象は、このとき「理性的」というくらいの意味を持っているかもしれない。
野生のなまなましい肉体の音楽ではなく、そのなかから何かを抽出してととのえた音楽がことばのなかにある。文体のなかにある。
「満月の底」というタイトルから想像すると(連想すると、かってにでっちあげると)、これは満月の日の海の底の様子、金子みすゞの「大漁」(だったっけ?)のような世界を書いているのかもしれないが、その魚の様子が「中間の色」(あとの方には「合間」)「意味(を成さない)」「微細」「粒子」というような、物理(数学の具体的世界)と抽象的概念を貫く音楽(ことばの調子)がとても印象的である。「魚」というより、そこで起きている「運動」そのものが描かれているという感じ。
で、そのあとが、美しいなあ。
あ、そうなんだ。「配列」は名詞だけれど、これは「配列する」という動詞(運動)でもある。麻生は「海底の魚」を「具体」として書くのではなく、そこに起きている「運動」を抽出して、運動のみを書こうとしている。運動というのは数学で再現され、その再現された抽象は絶対に「朽ちない」。数学(物理の原理)は朽ちない。朽ちるものは「物体(存在)」だけである。
麻生は、そういう「運動としての抽象」を「音楽」としてことばの中心に置いている。その音楽が濁らないように工夫しながらことばを動かしている。
で、何が書いてある? それにはどんな意味、どんな価値がある?
あ、私は、そんなことは気にしない。
という1行が後半に出てくるが「意味」なんて、「表面をなぞ」れば、先に書いたように、満月の海底の魚の様子と言ってしまえる。そこにはそれ以上の価値(?)はない。そう言ってしまえる。
でも、それが書いてあるから詩なのではなく、そのことばの書き方が詩なのである。ことばのなかから、どんな「音楽」を引き出してきて、それで一つの「世界(曲?)」をつくるかが詩なのである。
*
洸本ユリナ「王林」は、麻生とはまた別の「音楽」でことばを動かしている。
「facebook」と「いいね」は「意味」といえば「意味」だが、そんな「意味」など考えずにひとは「いいね」ボタンを押す。その「無意味」さのなかにある「音楽」が、この詩の全体の形をととのえるスタイルといい感じで出会っている。
「音楽」が加速する。これを音楽用語では「ドライブする」というのかな? とてもいい感じで「音楽」が濃厚になっていく。
09日に書いた中尾太一の感想のつづきになるかもしれないが、私は詩を読むとき「音」が聞こえないと、どうも落ち着かない。「キー」があわないのか「リズム」があわないのかよくわからないが、どんな文体にも「音」(音楽)があって、それが聞こえるときと聞こえないときがある。私が古い人間で、昔の「音楽」しか受け付けないということなのかもしれないけれど。
麻生有里「満月の底」は、音楽が聞こえる。
記憶の桁と同じくらいの魚たちが
海底に整列している
並んだ列の末尾は 長く漂う尾鰭
「記憶の桁」という抽象から始まるのだが、そういうものがあると考えたことがないのに、「違和感」がない。まったく新しいものがそこにあって、それが耳にすっと入ってくる。そのとき「視力」も影響しているかもしれない。「桁」という漢字が私には妙に抽象的に感じられる。「桁」という文字を書かないせいかもしれない。「記憶」は書くが「桁」は書かないなあ。いつもつかうものと、まったくつかわないものがぶつかって、いつもつかっている「記憶」から「いつも」を洗い流す。そのために抽象的な印象がさらに強くなる。
つづいて出てくる「同じくらい」は「同じ程度」いう意味だろうけれど、何が「同じ」なのかわからないまま、「桁」と「くらい」がどこかですれ違う。平田俊子なら、ここから「だじゃれ」へ向けてことばを解体するかもしれないが、麻生はそういうことはしない。
2行目まで読んで、「同じくらい」が「同じくらいの数」だとわかる。ふつうなら「無数」(たくさん)という感じですませることばを、麻生は「記憶の桁」という奇妙な抽象でつかんでいる。
で、1行目の「桁」(数)が2行目の「整列」ということばとぶつかるとき、そこには何か数学的というか、「もの」を「もの」そのものではなく、「もの」を整理する何かで把握し直す力が働いているように感じる。私の「感覚の意見(直感)」でいえば、ここには数学の音楽が響いている。抽象--というより、麻生のことばは「数学的」なのだ。数学の論理(音楽)だね。あるいは、「物理」といってもいいかも。だから、なんとなく抽象的と感じる。--抽象は、このとき「理性的」というくらいの意味を持っているかもしれない。
野生のなまなましい肉体の音楽ではなく、そのなかから何かを抽出してととのえた音楽がことばのなかにある。文体のなかにある。
黒と白と 黒でも白でもない色と
その中間の色
口にくわえた海藻の枝葉に付着した祈り
海中では 水が意味を成さない
静かに少しずつ列は進み
捧げられた海藻が 積まれていく
海藻と海藻が触れると
そこから微細な粒子が流れる
それぞれの憂いと 多くの営み
一瞬 変わる流れの後に またつづく平穏な海流
その合間に時折 交わされる合図
「満月の底」というタイトルから想像すると(連想すると、かってにでっちあげると)、これは満月の日の海の底の様子、金子みすゞの「大漁」(だったっけ?)のような世界を書いているのかもしれないが、その魚の様子が「中間の色」(あとの方には「合間」)「意味(を成さない)」「微細」「粒子」というような、物理(数学の具体的世界)と抽象的概念を貫く音楽(ことばの調子)がとても印象的である。「魚」というより、そこで起きている「運動」そのものが描かれているという感じ。
で、そのあとが、美しいなあ。
朽ちるのは 物体
朽ちないのは 配列
あ、そうなんだ。「配列」は名詞だけれど、これは「配列する」という動詞(運動)でもある。麻生は「海底の魚」を「具体」として書くのではなく、そこに起きている「運動」を抽出して、運動のみを書こうとしている。運動というのは数学で再現され、その再現された抽象は絶対に「朽ちない」。数学(物理の原理)は朽ちない。朽ちるものは「物体(存在)」だけである。
麻生は、そういう「運動としての抽象」を「音楽」としてことばの中心に置いている。その音楽が濁らないように工夫しながらことばを動かしている。
で、何が書いてある? それにはどんな意味、どんな価値がある?
あ、私は、そんなことは気にしない。
表面をなぞる様な 平らな定型の話ではなく
という1行が後半に出てくるが「意味」なんて、「表面をなぞ」れば、先に書いたように、満月の海底の魚の様子と言ってしまえる。そこにはそれ以上の価値(?)はない。そう言ってしまえる。
でも、それが書いてあるから詩なのではなく、そのことばの書き方が詩なのである。ことばのなかから、どんな「音楽」を引き出してきて、それで一つの「世界(曲?)」をつくるかが詩なのである。
*
洸本ユリナ「王林」は、麻生とはまた別の「音楽」でことばを動かしている。
私は王林という名のりんごです。
私は王林という商品のりんごです。
私はよくある赤いりんごではありません。
私は立派な商品名があります。
私は28日前まで王林の桐箱に入っていました。
私は紅玉とfacebookで友達関係にあります。
私は賞を受賞したロザリオビアンコと同じ写真に写っています。
私が話しかければ、ロザリオビアンコはいつも私と仲良く話してくれます
私は東急ストアにいいねされています。
「facebook」と「いいね」は「意味」といえば「意味」だが、そんな「意味」など考えずにひとは「いいね」ボタンを押す。その「無意味」さのなかにある「音楽」が、この詩の全体の形をととのえるスタイルといい感じで出会っている。
「音楽」が加速する。これを音楽用語では「ドライブする」というのかな? とてもいい感じで「音楽」が濃厚になっていく。
私は知り合いのふじと一緒に待機していました。
私は王林なのでサンふじと同じ棚には並びません。
私はりんごの王様で、肉質緻密で多汁、酸味が少なくて甘味が強いのです。
私は他の王林とは違います。
私は他の王林と違い、袋をかけられて育ちました。
私は王林というシールを貼られて売られていました。
私は王林という商品名でレシートに印刷されました。
私は手にとった男性にこれが王林だと言われたのをRT
私は王林という名のりんごです。
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今、冷蔵庫の奥で窒息しかけています。
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谷内 修三 | |
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