岬多可子『賦香紙』(私家版、2014年01月01日)
岬多可子『賦香紙』はこぢんまりした詩集。その大きさ(軽さ)くらいの、何かが残る。変な感想だけれど。
「冬は柚子」という詩が最後に掲載されている。
冬の午後、柚子の木から柚子をもいでいる。みずから落ちるように、充実した柚子--その充実を、岬は「ひらがな」で確かめようとしている。ゆっくりと。
「ひくい」「いくつも」「うけとる」ということばのゆっくりした動きが「しずまっていく」につながり、「ほとり ほとり」という音になる。
「ほとり ほとり」と、一般に言うのかどうか、私はよくわからない。「ぽとりぽとり」と落ちるという表現は聞く。私もつかうかもしれない。で、その「ぽとりぽとり」から「ほとり ほとり」を実の落ちる音と私は思うのだが、「ぽとり」よりも「ほとり」の方がやわらかく、あたたかい。ぬくみがある。
この感じが「ふくらか」--これも、私はよくわからない。「ふくよか」と「やわらか」がまじった感じを、そのことばは私の「肉体」のなかから引き出すけれど、それでいいのかどうかは、まあ、わからない。詩なのだから、わからなくてもいいのだと思うが。私がかってに「ふくよか」と「やわらか」という感じを思い出し「肉体」のなかでまぜればいいだけである。
で、それが、なんというか、まじってしまうのである。
あ、これはきっと「ひらがな」の力だなあ。
「脹よか+柔らか」から「脹らか」という「表記」をつくりだしたなら、それは、「えっ、これ、なんて読む?」とつまずいてしまう。「ひらがな」にはそういうつまずきがない。で、つまずくことなく、というよりも、音にひっぱられて、そこに書かれていることを納得してしまう。「誤読」かもしれないけれど、私はかってに、柚子を手のひらで受け止めたときの感じを「思い出す」。実際に木から柚子をもいだことはないのだけれど、そういうことをしているような気持ちになる。
こういう「経験」(錯覚?)はなかなか楽しい。
で、そこから「さいわい」というものを実感するのは、よくわかる。
よくわかるのだが。
ここからは、この詩への批判。
「さいわい」というものの「重さ」、それは「重さ」ということばにしてしまった瞬間から、何か「抽象的」になる。それまでの「ひらがな」の肉感的なものが、払いのけられてしまう。これはおもしろくないなあ。
「重さ」ということばを、そしてそこに「漢字」をまじえたことが、この詩の「音楽」を狂わせている。「沁みる」「傷」ということばが、「さいわい」の確かさを傷つける。まあ、小さな傷があっても果実は実る、傷が逆に果実の充実を教えるということかもしれないけれど--うーん、文体(音楽)が違ってしまっている、と私は感じる。
もうひとつ「螢」を引用してみる。
この作品は漢字と「ひらがな」がうまく響きあって「文体(音楽)」になっていると思う。最初の2行は漢詩の対句のようでおもしろい。漢字の文体を響かせている。それを「そういうところから なのね、」という「ひらがな」だけの音楽で破って、その破れ目から「ふあり」という聞き慣れない音を響かせる。「ふわり」よりも子音が少ない分だけことばのエッジがあいまいになり、はかない感じ、けれども少しも暗くない感じがいいなあ。
さらに「魂」という抽象的なことばをまじえたあと、同じように「ひらがな」だけで音を破って、そこに「はらり」を登場させるのもいいなあ、と思う。
岬多可子『賦香紙』はこぢんまりした詩集。その大きさ(軽さ)くらいの、何かが残る。変な感想だけれど。
「冬は柚子」という詩が最後に掲載されている。
ひくい陽のめぐりを惜しみ
いくつも灯った珠を うけとる午後。
心を放ち しずまっていくように
枝々は ほとり ほとり
ふくらかな光の荷を下ろす。
一顆。てのひらにあり
さいわいというものの 重さは これくらい。
そうしているあいだにも
沁みるほどに香るのは
いきいきとした傷もあってのこと。
冬の午後、柚子の木から柚子をもいでいる。みずから落ちるように、充実した柚子--その充実を、岬は「ひらがな」で確かめようとしている。ゆっくりと。
「ひくい」「いくつも」「うけとる」ということばのゆっくりした動きが「しずまっていく」につながり、「ほとり ほとり」という音になる。
「ほとり ほとり」と、一般に言うのかどうか、私はよくわからない。「ぽとりぽとり」と落ちるという表現は聞く。私もつかうかもしれない。で、その「ぽとりぽとり」から「ほとり ほとり」を実の落ちる音と私は思うのだが、「ぽとり」よりも「ほとり」の方がやわらかく、あたたかい。ぬくみがある。
この感じが「ふくらか」--これも、私はよくわからない。「ふくよか」と「やわらか」がまじった感じを、そのことばは私の「肉体」のなかから引き出すけれど、それでいいのかどうかは、まあ、わからない。詩なのだから、わからなくてもいいのだと思うが。私がかってに「ふくよか」と「やわらか」という感じを思い出し「肉体」のなかでまぜればいいだけである。
で、それが、なんというか、まじってしまうのである。
あ、これはきっと「ひらがな」の力だなあ。
「脹よか+柔らか」から「脹らか」という「表記」をつくりだしたなら、それは、「えっ、これ、なんて読む?」とつまずいてしまう。「ひらがな」にはそういうつまずきがない。で、つまずくことなく、というよりも、音にひっぱられて、そこに書かれていることを納得してしまう。「誤読」かもしれないけれど、私はかってに、柚子を手のひらで受け止めたときの感じを「思い出す」。実際に木から柚子をもいだことはないのだけれど、そういうことをしているような気持ちになる。
こういう「経験」(錯覚?)はなかなか楽しい。
で、そこから「さいわい」というものを実感するのは、よくわかる。
よくわかるのだが。
ここからは、この詩への批判。
「さいわい」というものの「重さ」、それは「重さ」ということばにしてしまった瞬間から、何か「抽象的」になる。それまでの「ひらがな」の肉感的なものが、払いのけられてしまう。これはおもしろくないなあ。
「重さ」ということばを、そしてそこに「漢字」をまじえたことが、この詩の「音楽」を狂わせている。「沁みる」「傷」ということばが、「さいわい」の確かさを傷つける。まあ、小さな傷があっても果実は実る、傷が逆に果実の充実を教えるということかもしれないけれど--うーん、文体(音楽)が違ってしまっている、と私は感じる。
もうひとつ「螢」を引用してみる。
水の夜は 草のように香り
草の水は 夜のように香る。
そういうところから なのね、
光が ふあり 浮き上がってくるのは。
黒く濃く、夜と 草と 水と
とけあっている 夏の壷、
古い 珠の魂も ふたつ みつ
沈んでいるでしょう。ふかく。
そういうところから なのね、
光が はらり 飛びたっていくのは。
この作品は漢字と「ひらがな」がうまく響きあって「文体(音楽)」になっていると思う。最初の2行は漢詩の対句のようでおもしろい。漢字の文体を響かせている。それを「そういうところから なのね、」という「ひらがな」だけの音楽で破って、その破れ目から「ふあり」という聞き慣れない音を響かせる。「ふわり」よりも子音が少ない分だけことばのエッジがあいまいになり、はかない感じ、けれども少しも暗くない感じがいいなあ。
さらに「魂」という抽象的なことばをまじえたあと、同じように「ひらがな」だけで音を破って、そこに「はらり」を登場させるのもいいなあ、と思う。
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