詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岬多可子『賦香紙』

2014-01-16 10:27:01 | 詩集
岬多可子『賦香紙』(私家版、2014年01月01日)

 岬多可子『賦香紙』はこぢんまりした詩集。その大きさ(軽さ)くらいの、何かが残る。変な感想だけれど。
 「冬は柚子」という詩が最後に掲載されている。

ひくい陽のめぐりを惜しみ
いくつも灯った珠を うけとる午後。
心を放ち しずまっていくように
枝々は ほとり ほとり
ふくらかな光の荷を下ろす。
一顆。てのひらにあり
さいわいというものの 重さは これくらい。
そうしているあいだにも
沁みるほどに香るのは
いきいきとした傷もあってのこと。

 冬の午後、柚子の木から柚子をもいでいる。みずから落ちるように、充実した柚子--その充実を、岬は「ひらがな」で確かめようとしている。ゆっくりと。
 「ひくい」「いくつも」「うけとる」ということばのゆっくりした動きが「しずまっていく」につながり、「ほとり ほとり」という音になる。
 「ほとり ほとり」と、一般に言うのかどうか、私はよくわからない。「ぽとりぽとり」と落ちるという表現は聞く。私もつかうかもしれない。で、その「ぽとりぽとり」から「ほとり ほとり」を実の落ちる音と私は思うのだが、「ぽとり」よりも「ほとり」の方がやわらかく、あたたかい。ぬくみがある。
 この感じが「ふくらか」--これも、私はよくわからない。「ふくよか」と「やわらか」がまじった感じを、そのことばは私の「肉体」のなかから引き出すけれど、それでいいのかどうかは、まあ、わからない。詩なのだから、わからなくてもいいのだと思うが。私がかってに「ふくよか」と「やわらか」という感じを思い出し「肉体」のなかでまぜればいいだけである。
 で、それが、なんというか、まじってしまうのである。
 あ、これはきっと「ひらがな」の力だなあ。
 「脹よか+柔らか」から「脹らか」という「表記」をつくりだしたなら、それは、「えっ、これ、なんて読む?」とつまずいてしまう。「ひらがな」にはそういうつまずきがない。で、つまずくことなく、というよりも、音にひっぱられて、そこに書かれていることを納得してしまう。「誤読」かもしれないけれど、私はかってに、柚子を手のひらで受け止めたときの感じを「思い出す」。実際に木から柚子をもいだことはないのだけれど、そういうことをしているような気持ちになる。
 こういう「経験」(錯覚?)はなかなか楽しい。
 で、そこから「さいわい」というものを実感するのは、よくわかる。

 よくわかるのだが。
 ここからは、この詩への批判。
 「さいわい」というものの「重さ」、それは「重さ」ということばにしてしまった瞬間から、何か「抽象的」になる。それまでの「ひらがな」の肉感的なものが、払いのけられてしまう。これはおもしろくないなあ。
 「重さ」ということばを、そしてそこに「漢字」をまじえたことが、この詩の「音楽」を狂わせている。「沁みる」「傷」ということばが、「さいわい」の確かさを傷つける。まあ、小さな傷があっても果実は実る、傷が逆に果実の充実を教えるということかもしれないけれど--うーん、文体(音楽)が違ってしまっている、と私は感じる。

 もうひとつ「螢」を引用してみる。

水の夜は 草のように香り
草の水は 夜のように香る。
そういうところから なのね、
光が ふあり 浮き上がってくるのは。
黒く濃く、夜と 草と 水と
とけあっている 夏の壷、
古い 珠の魂も ふたつ みつ
沈んでいるでしょう。ふかく。
そういうところから なのね、
光が はらり 飛びたっていくのは。

 この作品は漢字と「ひらがな」がうまく響きあって「文体(音楽)」になっていると思う。最初の2行は漢詩の対句のようでおもしろい。漢字の文体を響かせている。それを「そういうところから なのね、」という「ひらがな」だけの音楽で破って、その破れ目から「ふあり」という聞き慣れない音を響かせる。「ふわり」よりも子音が少ない分だけことばのエッジがあいまいになり、はかない感じ、けれども少しも暗くない感じがいいなあ。
 さらに「魂」という抽象的なことばをまじえたあと、同じように「ひらがな」だけで音を破って、そこに「はらり」を登場させるのもいいなあ、と思う。





桜病院周辺
岬 多可子
書肆山田
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西脇順三郎の一行(60)

2014-01-16 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(60)

 「えてるにたす Ⅰ」

この硯の石も                           (72ページ)

 1行の引用ではなんのことかわからないのだが、周辺の行を一緒に引用しても、なぜ、ここで「硯の石」が出てくるのかわからない。
 このわからなさが詩である--というのは乱暴な「感覚の意見」になってしまうが、私は、そこではっと目が覚める。この1行の周辺には「過去/現在」「記憶/追憶」「意識」「進化/退化」というような抽象的なことばがつづくのだが、そこに突然「硯の石」が飛びこんでくる。
 そして、その突然現れた「硯の石」の墨の色が、あらゆる抽象的なことばをつないでいる具体的な何かのように思える。
 それこそ「シンボル」ということになるのだろうか。
 わからないことはわからないままにしておいて、私は、あ、西脇は「墨の色」が好きだったのか……と思う。西脇の詩には茄子がよく出てくる。このページにも「テーブルの茄子の」という1行があるが、その茄子の色は紫は紫でも、和紙の上に墨で線を引いたときに黒のなかににじむ紫に近いのではないか、という思いが、突然湧いてきた。
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