詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ハイファ・アル=マンスール監督「少女は自転車にのって」(★★★★)

2014-01-20 09:12:39 | 映画
ハイファ・アル=マンスール監督「少女は自転車にのって」(★★★★)



監督ハイファ・アル=マンスール 出演 ワアド・ムハンマド、リーム・アブドゥラ

 サウジアラビアの映画を見るのは、たぶん、初めてである。中東の映画はイラン、トルコなどの作品を見たことがあるが、サウジアラビアは、たぶん、ない。映画で見るかぎり、サウジアラビアはイラン、トルコなどに比べてイスラム教の戒律がかなり厳しいようだ。女性の生きている状況が、他の国よりも抑圧的に感じられる。
 そんな国で、ひとりの少女が自転車に乗りたい、という夢を実現するためにコーランの暗唱大会に出場し、自転車の代金を稼ごうとする--というストーリー。(これは、予告編で知った予備知識)。あ、したたかだね。イスラム教を逆手にとっている。この「したたかさ」が、そしてサウジアラビアの女性の「位置」をあぶりだしていく、それも少女の目から描いていくという構図の中でいっそうしたたかになる。少女(女性)が自転車に乗るのはもっての外、という「枠」を超えて、母親が夫からないがしろにされるという問題、何人もの妻の一人になる悲しさ、悔しさまでも描いていく。そういうストーリーの構造もおもしろいが……。
 冒頭の主人公の少女の青いスニーカーがいいなあ。他の少女たちが黒い靴を履いているのに、主人公だけがスニーカー。貧しいから? ではなくて、彼女はスニーカーが好きなのだ。スニーカーなら男の子と競走できる。男の子に負けない、ということを証明できる。革靴では走りにくいからね。実際、少女はスニーカーで走る。そして自転車の男の子に負ける。ここから同じ自転車なら負けない、自転車がほしいという気持ちへと少女が動いていくのだが、これが実に自然でいい。走るのなら負けないが、自転車と走るのではどうしても負けてしまう。理不尽な競走だ。もし、同じ条件なら負けない--というのは、単に、自転車だけの問題ではない。自転車だけの問題ではないのだが、それをあたかも少女のかわいい願望(自転車がほしい)であるかのように見せかけて、もっと複雑な問題を描く。テーマはあくまで少女と自転車、と言い張ってサウジアラビアの現実の問題をえぐっていく。その「象徴」というか、切り込み隊長のようなものがスニーカーなのだ。
 このスニーカーの色が青というもの、なかなかおもしろい。少女は「黒い靴にしなさい」と言われて、マジックで青を黒に塗りかえていく。あくまで革靴を拒絶する。そこに彼女の(あるいは、この映画を撮っている監督の)信念の強さが結晶している。さらに、この少女の上級生(?)がつかっているペディキュアの色が青というのも、とてもおもしろい。私はサウジアラビアについては何も知らないし、コーランについても何も知らないのだが、青(紺)には何か特別な「意味」があるのかもしれない。男が白い服を切るのに対し、女は黒い布でからだを隠すが、その白と黒にもイスラム教の意味があるかもしれない。病院で働く女性は白衣を着て、顔を出しているが、白衣を着ると女性も「男」になるのかもしれない。白衣を着ているときは、「女」というくくりから自由になって動いているのかもしれない。そういうふるまいをサウジアラビアは許しているのかもしれない。--そんなことを思うと、青にも「意味」があるように思える。母親が買う赤いドレスの赤にも意味があるかもしれない。それが何を意味するかわからないが、きっと意味をもっていると思う。
 白にもどって、もう一つ、いや、もう二つ付け加えると。少女のスニーカーは青一色ではなく、ゴム(?)のつなぎの部分は白である。そして、少女がほしいと思っている自転車もグリップが白い。タイヤの周りも白い。あの白には、男と対等になるという「意味」がこめられているとしか思えない。
 で、最後に、自転車に反対していた母親は娘に自転車を買ってやるのだが、それは少女がほしかった自転車そのもの。つまり、白いハンドル、白いタイヤの自転車である。そこには、夫が「第二夫人」と結婚したことへの「反発(反抗)」のようなものが反映されていると見ていいのではないかと私は思う。ストーリー上は単に自転車を買い与えるという意味だが、白い色の自転車であるのは、それが「男の自転車」と同じものを意味する。そこには「男女平等」が意図されているのである。
 こういう見方を「深読み」というのかもしれないけれど、私は「深読み」という「誤読」が好きなので、色の問題をさらに拡大すると……。
 さっき、母親が結婚披露宴用に赤いドレスを買う、その意味はわからないと書いたのだが……。赤はこのときだけではなく、もう一回出てくる。実際には映像化されないのだが、少女が自転車に乗る練習をしていて転ぶ。膝から血を流す。このとき、母親は「生理でもないのに女が血を流すなんて」と目を覆い、血を見ないようにする。娘がけがをしているのに、それを見ない、見ようともしない--ということろに、サウジアラビアの独特の感性がある。ふつうは娘のけがを心配して駆け寄る。手当てをするものである。で、このことから、私は、サウジアラビアのイスラム教徒にとっては赤は血であり、女にとっては血とは生理であると考える。そうであるなら、母親が赤いドレスを選ぶのは彼女が女として「現役」であるという主張がこめられているのだ。映画のなかの会話から推測すると、少女は難産だった。その結果、母親はもう子どもが産めなくなった。男の子どもがほしい父親は第二夫人と結婚する--ということになるのだが、子どもを産めなくなったから妻を捨て、第二夫人と結婚するというのは、女を子どもを産むための「道具」とみているという証拠である。そんなことは許せない。子どもを産めなくても、女は女である。母親は、その怒りをドレスの赤に代弁させている。こんなことは、映画では「台詞」として語っていないが、私には、その声が聞こえる。
 こういう映画の「小道具」(色のつかいわけ)などを見ていくと、映画というのは情報が多くて、とてもおもしろい。映画は影像と音楽が勝負ということがよくわかる。台詞は、なくても映画はできる。

 いま私が書いてきたメインのストーリーのほかにも、おっ、と思うことがこの映画には描かれている。男は妻を何人も持てる。でも女は夫がひとり。男は女を見てもいいが、女は男に見られてはいけない。これは理不尽な制度だろう。その制度の中で女性はどう生きるか。主人公の少女の学校の校長は女性である。その校長は、セックスをどう処理しているか。
 あるとき、校長の家に「泥棒」が入ったらしい。校長は「泥棒」と言っているが、それは恋人(男)である。「泥棒」というのは「嘘」ではなく「方便」であるということを、誰もが知っている。大人だけではなく、少女たちも知っている。コーランの暗唱大会で優勝したあと、賞金を取り上げられた少女は、そのことを校長に向かってはっきり言う。「私の言っていることは、先生が言う泥棒と同じ」と。
 これは、少女が大人を告発しているというストーリーを借りて、女だって方便をつかって生きていると、したたかにサウジアラビアの現実を語っているのである。このあたりの処理が、うーん、しぶとい。
 頑張り屋の少女の物語--と思って見ると、映画のおもしろさの半分以上を見逃してしまうことになる。
                      (2014年01月19日、KBCシネマ2)

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西脇順三郎の一行(64)

2014-01-20 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(64)

 「えてるにたす Ⅱ」

あけびの青さがみたい                       (76ページ)

 いろいろな欲望が書かれている。すぐあとには「欲望を捨てたいと思うこと/も欲望だ」という行がある。論理的というか、抽象的というか、「頭脳」を刺戟してくることばである。そういうことばのなかにあって、「あけびの青さがみたい」だけは直接的である。肉感的である。この肉感的な手触りのようなものが、私は好きである。どんなに抽象的なものを書いていても、それを突き破って突然具体的な「もの」が出てくる。そのときの、「音楽の乱れ」が好きである。
 「音楽の乱れ」と書いたのだが……。
 西脇は、ふつうの人が書くと完全に「音楽の乱れ」になってしまうところを、強い「和音」にしてしまう。世の中には「不協和音」というものはない、あらゆる「和音」だけがあると誰かが言っていたような気がするが、異質なものが飛びこんできた瞬間、いままで知らなかった「和音」があると気づく--気づかされる。そういう感じがする。
 どうして、こんなことができるのだろうか。こんな音楽になるのだろうか。
 西脇が「もの」をしっかりと把握しているからだ、「肉体」でつかみきっているからだ、つまり嘘がない(頭で作り上げたものではない)ということだと、私は感じている。

 「肉体でつかみきった」というような言い方は抽象的で、抽象的であるが故に何とでもいえそうな気がして、うーん、まずいなあ、と思う。
 「あけびの青さ」。ここから「肉体」のことを、どう書けるか……。
 私が思うのは「青さ」の「青」の不思議さである。
 私は西脇のことばから「青」を思い浮かべない。絵の具の三原色の青をこのときに思い浮かべない。海の青、空の青を思い浮かべない。どちらかというと紫を思い浮かべる。紫をうすくしたときの、そのなかの「青」。その「青」は「日本語」としては正確ではない。色をただしく言おうとすれば「青」ではなく「薄紫のなかの青の成分」くらいになってしまう。で、その「青」のまじりぐあい--これは、実際にあけびをもいで、あけびを食べるという「肉体」の動きと関係している。
 夏、緑のあけびがだんだん熟してきて紫に近くなる。そういうものを見ながら、食べごろを判断する。そのときの「肉体」が、そこにある。
 その確かさ、「肉体」の確かさによって支えられたことばの動きが、私は好きである。「肉体」に支えられているから、そのことばがどんな音とぶつかっても「音楽」になるのだ。
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