詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤公成『カルシノーマ』

2014-01-17 10:56:15 | 詩集
伊藤公成『カルシノーマ』(澪標、2013年11月10日発行)

 伊藤公成『カルシノーマ』の「カルシノーマ」というのは「がん」のこと、とあとがきに書いてあった。あとがきになくても、詩集を読み進むと、それとなくわかる。動物(マウス)実験のことが書かれていたり、体の部位のことが書かれていたりするからである。でも、なぜ、「わかってしまう」のかなあ。わからなくたっていいのになあ。きっと「がん」にまつわるいろいろなことばが日常のなかにあふれてきているのだろう。知らず知らずに、そのことばに触れて、「がん」を語るときはこういうことばがつかわれるということを、おぼえてしまうのかもしれない。
 タイトル作品の「カルシノーマ」の書き出し。

50倍でみるとそれはまるで航空写真
視野の上のほうでは
山と山の間に川が流れて
大きく平野へとひろがる扇状地
視野の下のほうでは
田んぼや池がいくつもあって
のびやかで肥沃な田園地帯

 たとえば「がん(癌細胞)」を「がん(癌細胞)」とは呼ばずに「それ」と指し示す。その「回避」のし方、そこにもすでに「がん」について語るときの共有された方法がある。「あいまい」、けれども「意識できるだろう? わかるだろう?」というような気持ちのこもった「それ」。
 こういう言い方を私たちは、どうして覚えてしまうのだろうか。
 わからないが、そういうものなのだろう。
 で、この詩は、その何というのだろう、何かを回避しながら語るときの、ひとつの方法にきちんとのっとっている。「癌細胞」は、私は顕微鏡ではみたことがないが、摘出された病巣そのものなら父の手術のときに見たことがある。「癌」という字に似ている。こぶというか、突起というか、漢字の「品」のように凝り固まったものが「山」のようになっている。「癌」という漢字はだれが考えたものかしらないけれど、うーん、似ているなあ、と驚いてしまうのだが……脱線したかな?
 そういう凸凹を見ると、なんとなく「地形」にも見えてくる。土地というのは、平らでも凸凹している。(あ、平らなら凸凹とはいはなわけれど……)ふくらんだところは山に見えてしまう。何かが見えてしまうと、意識は「見える/見る」ということに集中する。「見る/見える」ものは、それがたとえ知らないものであっても「知っているもの」をとおして見ることになる。
 つまり、

100倍に倍率を上げる
山を覆うのは
照葉樹の森と落葉樹の森
針葉樹の群生は見えない
池の多くには水が満ちているが
なかに水が枯れて
底のドロまで乾ききっているものもあるようで

 ここに語られるのは、「癌細胞」そのものではない。むしろ、伊藤の記憶が語られている。伊藤はきっと山や森のあるところで育ったのだ。池があるところで育ったのだろう。それは田んぼのための溜池だろう。ときには乾き切った池の底も見たことがあるのだろう。そういう「記憶」(肉体が覚えているもの)を引き出しながら、ひとは「もの」を見ている。つまり、正確にではなく、「歪めて」みてしまう。科学者(医者)でさえ。
 そういう部分が、なんともいえずおもしろい。

自分のふるさとの地形に似たところを探して
さらに200倍に倍率を上げてみる
生まれた家がそこに見えてくるような
裏庭のアオキが赤い実をたくさんつけて
ちいさな家の玄関さき
ふるい自転車もある
死んでしまったおじいちゃんとおばあちゃんが
そこにいまでもひっそり暮らしているような

 そうて、こうやって「癌細胞」に自分の「歴史」を重ねてみると、まるで「癌細胞」自身もそれぞれの「歴史」をもっているように見えてくる。実際、それぞれの細胞はそれぞれの「歴史(時間/成長過程)」をもっていて、その変化の仕方によって癌になったりならなかったりするのだろうが。 

 この詩は、最後に、きちんと「現実」にもどってくる。

腫瘍の病理観察
米つぶのような病巣の切片が
顕微鏡の視野いっぱいにひろげられる
鳥になって飛びまわり
自在に舞いおりる自分の眼
ここには
過去と未来の時間がながれ
物語がつきることなく語られる

 病気の研究は、細胞の「物語」を復元し、ことばにすること。ことばにしながら、「過去」を探る。「原因」を探るということなんだろうなあ。
 それは、そのとおりなんだね。(と、ことばに、つまって私は書いてしまうが……。)で、この詩のどこがおもしろいかというと、ひとつは先に書いたように、何かしらないことをいうときにひとは知っているもの(こと)を重ね合わせて語るということと。
 もうひとつ。
 その行為を伊藤が「物語がつきることなく語られる」と意識していること。癌細胞に自分のふるさとの地形を重ね、自分の歴史を重ねるというところまでは、なんとなくだれでもがやりそうなことである。だから、詩を読みながら、自然にその世界へ誘われる。癌細胞の中で自分を見つめれば、そこで詩は完結する--はずである。ところが伊藤はそこでは詩を完結しない。そこで完結させると、それは「現実」ではなく「虚構」になってしまう。嘘になってしまう。医者としては、たしかに、そうだね。「これは裏山です。水が湧き出て、そこから川が始まるのです」なんて言っていたら治療にならない。
 そういう自分を伊藤は突き放している。「物語」におぼれてしまわない。逆に、それは「物語」だと言ってしまう。「語り(語ること/語ったこと)」は、ある種の「提示(あるいは暗示?)」であって、「事実」ではないと認識している。ここが、伊藤のいちばんの特徴だと思う。「語り」を「語り」だと認識し、そのうえでなおかつ「語る」というのが伊藤の「思想(肉体)」なのだ。
 別な言い方をすると、伊藤は語らずにはいられないのである。「癌」を語りたいというよりも、ともかく語りたい。たまたま、「癌」をとおして語るのであって、「癌」が目的ではない--というと、ちょっと誤解を拡大することになるかもしれないが、癌そのものを語ること、癌の治療は伊藤の「語る」という欲望とは別の、「医学の現場」で処理されている。その「医学の現場」を超えて、なおかつ「物語る」のは「語る」という欲望こそが伊藤の本能だからである。
 癌細胞にふるさとを重ねてみる、というのはちょっと情緒的で、引き込まれてしまうが、それ以上に私は最後の一行が伊藤らしいなあと思うのである。あ、私は伊藤には会ったこともないし、ほんとうに医者であるかどうかも知らないのだけれど、最後の一行を読んだ瞬間、伊藤が目の前にいるように感じたのだ。

カルシノーマ―詩集
伊藤公成
澪標
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西脇順三郎の一行(61)

2014-01-17 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(61)

 「えてるにたす Ⅰ」

たたなくなる」                          (73ページ)

 この一行は前後の行をくっつけるととてもわかりやすい。「「教養をつければつけるほど/たたなくなる」艶美なるイムポテンス」。
 だが、前後のことばがなくても「たたなくなる」だけほうりだしてもインポテンスを連想させるのはなぜだろう。
 たぶん、インポテンスについて語るとき「性器が」という主語を省略することが多いからだろう。日常の会話ではわざわざ「性器が」とはいわない。
 これは逆に言えば(?)、西脇はここでは「ことば」を「会話」そのまま、肉声として書いているということである。ことばの背後には、ことばを発した人がいる。他人(西脇を含む)がいる。そのことばをとおして、「意味」ではなく、私たちは「人間」を見る。
 人間が見えると、それに遅れるようにして「意味」がやってくる。「たたなくなる」は勃起しなくなる、インポテンスになるという意味だとあとからやってきて、あとからやってきたくせに、その人間を覆い隠してしまう。
 この人間を覆い隠してしまうことばを、どうやって引き剥がして、もう一度人間そのものをそこに「いる」という感じを取り戻すか。そのためにことばに何をすべきなのか(ことばをどう動かすべきなのか)。
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