木戸多美子『メイリオ』(思潮社、2013年11月30日発行)
木戸多美子『メイリオ』には不思議なことばがある。「希土黎己」というタイトルは私には読むことができない。そして、その1連目、
傷ついた犬が草むらに座り込んでいるのだろうか。「傷」「なだれ倒れこむ」「座り込む」という動詞と「一匹」をつないで、私は、そう想像する。「傷」の「易」の部分が犬の足に見えてきたりする。でも、この犬に見える「傷」と大地の「傷」は違うんだろうなあ。違うけれど重なる部分もあるのだろうなあ。大地が傷ついているように、犬が傷ついている。
なんとなく、何の根拠もなく、東日本大震災の被災地とそこにいる傷ついた犬を思う。大地、傷--そのふたつのことばで東日本大震災を思うのだけれど、すぐそう想像してしまうほど東日本大震災は、揺れ一つ感じなかった私の肉体にも深く染み込んでいるということなのだろう。
この最後の2連は、震災の被災地を歩く一匹の犬を想像させる。立って、歩こうとする犬。その姿に、希望を見ている、希望を託しているのだろう--と私は読んでしまうが、1連目の、
この2行の「傷」へのこだわり方が、何か不思議。私の知らない何か、どこかで体験しているのかもしれないけれど、肉体が覚えているはずのことが、そのことばだけでは浮かびあがってこない不思議なもどかしさが残る。--ここに書かれていることが、あと少しでわかるはずなのに、その少しがわからない。木戸がここにいる、木戸の肉体がここにあるという感じはわかるが、何か背中を向けられていような、うつむいたまま自分を見つめているような--別なことばで言えば、私とはまだ目と目があわないような感じ……。
なんだろうなあ、と思いながら詩集を読み進み、次の「深海の朝」に出会う。
ビルの高層から、ほかのビルの影に邪魔されずに寝ころんで空を見ている。足は空の方に向いている。そういうぼんやりした朝。木戸が家庭の女性なら、夫は仕事に出ていって、朝のどたばたから解放されて、ほっとしているのかな。深呼吸でもしているのかな、という感じ。
それが次のように変わっていく。
「計りも振り切れる/深い海」も東日本大震災を思い起こさせる。亡くなったひとがいる一方、無事に生きている人がいる。何故生きなければならないのか--そういうことを問うのではなく、生きているのだから生きるしかない、と考え自分を支える、というようなことも東日本大震災を想像させる。
そういうことばのあとで、
この1行に、私ははっとした。どきっとした。あ、これが木戸なのだ。「誰も見ていない」、けれど木戸は見ている。木戸には「見える」。
「見る」という動詞は「高層ガラスから見える空は」という書き出しにもある。そして、最初に引用した「希土黎己」の1行目「こう見えて」にも出てくる。木戸には誰も見てはいないもの、誰にも見えないものが「見える」。
もっと言えば「傷」が見える。
大震災のあと、津波のあとの大地の傷--それは誰にでも見える。その光景の凄まじさを見て、誰もが息をのむ。そう、私は簡単に書いてしまうが、ほんとうにそれが「見える」わけではない。ひとりひとりが「見ている」風景と私に「見える」風景が同じではない。ひとりひとりの被災者にとっても、風景はひとりひとり違う。ひとりには、そのひとりにしか「見えない」風景、「ひとりの風景」がある。
木戸は、その「ひとりの風景」、木戸以外の「誰も見ていない」風景が見える。「希土黎己」という作品の風景、その「傷」は木戸以外には「見えない」傷である。木戸だけが見る「傷」である。--つまり、それは「犬を見る」というような形で書かれているけれど、実は、「犬」を見るときに木戸のなかに開く傷なのだ。木戸の「肉体」の内部の「傷」が、いま、犬の形をして、外に出てきているということなのだ。
「希土」は「きど(木戸)」とも読むことができる。「黎己」は何だろうか。どう読むのだろうか。息子の名前、娘の名前、夫の名前、肉親の誰かの名前、あるいは愛犬の名前かもしれない。私には、それが「見えない」けれど、木戸にはそれが「見える」。「傷」としてはっきり「わかる」。
いまはいない誰か/不在・非在の誰か。その傷ついた姿を、傷そのものの「文字」のように、明確に木戸は見てしまう。そして、それをしっかりと見つめながら立ち上がろうとしている。私には見えないもの、木戸にしか見えないものをしっかりと見つめている木戸の「肉体(視力)」を強く感じた。
木戸多美子『メイリオ』には不思議なことばがある。「希土黎己」というタイトルは私には読むことができない。そして、その1連目、
こう見えて
大地は傷だらけで
傷という字が
なだれ倒れこむ一匹の四つ足
枯れた毛並みのの揃った草むらに
じっと座り込んでいる一匹
に見えて
傷ついた犬が草むらに座り込んでいるのだろうか。「傷」「なだれ倒れこむ」「座り込む」という動詞と「一匹」をつないで、私は、そう想像する。「傷」の「易」の部分が犬の足に見えてきたりする。でも、この犬に見える「傷」と大地の「傷」は違うんだろうなあ。違うけれど重なる部分もあるのだろうなあ。大地が傷ついているように、犬が傷ついている。
なんとなく、何の根拠もなく、東日本大震災の被災地とそこにいる傷ついた犬を思う。大地、傷--そのふたつのことばで東日本大震災を思うのだけれど、すぐそう想像してしまうほど東日本大震災は、揺れ一つ感じなかった私の肉体にも深く染み込んでいるということなのだろう。
地平線が見える
のぞみの塊を丸ごと抱えながら
満身創痍の大地に
一匹の黎明が立ち上がる
この最後の2連は、震災の被災地を歩く一匹の犬を想像させる。立って、歩こうとする犬。その姿に、希望を見ている、希望を託しているのだろう--と私は読んでしまうが、1連目の、
大地は傷だらけで
傷という字が
この2行の「傷」へのこだわり方が、何か不思議。私の知らない何か、どこかで体験しているのかもしれないけれど、肉体が覚えているはずのことが、そのことばだけでは浮かびあがってこない不思議なもどかしさが残る。--ここに書かれていることが、あと少しでわかるはずなのに、その少しがわからない。木戸がここにいる、木戸の肉体がここにあるという感じはわかるが、何か背中を向けられていような、うつむいたまま自分を見つめているような--別なことばで言えば、私とはまだ目と目があわないような感じ……。
なんだろうなあ、と思いながら詩集を読み進み、次の「深海の朝」に出会う。
高層ガラスから見える空は
深い海
白い花びらが何度も開くように
どこからかクラゲが一瞬沈み
ふたたび視界に浮く
わたしは足を空に向けて
海底に根を張る
朝の深海は明るい
ビルの高層から、ほかのビルの影に邪魔されずに寝ころんで空を見ている。足は空の方に向いている。そういうぼんやりした朝。木戸が家庭の女性なら、夫は仕事に出ていって、朝のどたばたから解放されて、ほっとしているのかな。深呼吸でもしているのかな、という感じ。
それが次のように変わっていく。
人としてすでに生きているので
何故ひとは生きていかなければならないのか
と問うのは狂気ではなかったか
そうなのか
計りも振り切れる
深い海
巨大な鯨の歩みのように
底の奥を ひとり
足の裏を傷めながら
歩き続ける
ひとり ひとり
誰も見てはいない
深く深い底 明るいそこ
「計りも振り切れる/深い海」も東日本大震災を思い起こさせる。亡くなったひとがいる一方、無事に生きている人がいる。何故生きなければならないのか--そういうことを問うのではなく、生きているのだから生きるしかない、と考え自分を支える、というようなことも東日本大震災を想像させる。
そういうことばのあとで、
誰も見てはいない
この1行に、私ははっとした。どきっとした。あ、これが木戸なのだ。「誰も見ていない」、けれど木戸は見ている。木戸には「見える」。
「見る」という動詞は「高層ガラスから見える空は」という書き出しにもある。そして、最初に引用した「希土黎己」の1行目「こう見えて」にも出てくる。木戸には誰も見てはいないもの、誰にも見えないものが「見える」。
もっと言えば「傷」が見える。
大震災のあと、津波のあとの大地の傷--それは誰にでも見える。その光景の凄まじさを見て、誰もが息をのむ。そう、私は簡単に書いてしまうが、ほんとうにそれが「見える」わけではない。ひとりひとりが「見ている」風景と私に「見える」風景が同じではない。ひとりひとりの被災者にとっても、風景はひとりひとり違う。ひとりには、そのひとりにしか「見えない」風景、「ひとりの風景」がある。
木戸は、その「ひとりの風景」、木戸以外の「誰も見ていない」風景が見える。「希土黎己」という作品の風景、その「傷」は木戸以外には「見えない」傷である。木戸だけが見る「傷」である。--つまり、それは「犬を見る」というような形で書かれているけれど、実は、「犬」を見るときに木戸のなかに開く傷なのだ。木戸の「肉体」の内部の「傷」が、いま、犬の形をして、外に出てきているということなのだ。
「希土」は「きど(木戸)」とも読むことができる。「黎己」は何だろうか。どう読むのだろうか。息子の名前、娘の名前、夫の名前、肉親の誰かの名前、あるいは愛犬の名前かもしれない。私には、それが「見えない」けれど、木戸にはそれが「見える」。「傷」としてはっきり「わかる」。
いまはいない誰か/不在・非在の誰か。その傷ついた姿を、傷そのものの「文字」のように、明確に木戸は見てしまう。そして、それをしっかりと見つめながら立ち上がろうとしている。私には見えないもの、木戸にしか見えないものをしっかりと見つめている木戸の「肉体(視力)」を強く感じた。
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