詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

加藤思何理『すべての詩人は水夫である』

2014-01-31 10:59:47 | 詩集
加藤思何理『すべての詩人は水夫である』(土曜美術社出版販売、2014年02月10日発行)
 加藤思何理『すべての詩人は水夫である』には読みやすい詩と、読みにくい詩がある。読みにくい詩について、なぜ読みにくいと私が感じるか--ということについて書いてみる。
 「桑の実で歯を紫に染めた花嫁としての自画像」の最初の句点「。」までの行。

青い家、その青い家の緑の扉を開けると
麻と羊歯の瘤蜜柑の匂いを積んだ小さなつむじ風
が、世界のねじを巻き戻すためにふたたび細心に、だが狂おしく
吹きはじめる。見れば裏庭に面したベッド
に横たわる彼女の乳房には、白い貂
の毛の生えた不純な矢が刺さり、首には荊と蜂鳥
の影が渦を巻く、額からは緑の幹を持つ家系樹
があざやかに伸びて、その根は鼻や頬や顎を突き抜け
背骨と二つの心臓を貫き、仙人掌と蜘蛛猿
の土壌へと無傷で呑みこまれてゆく。

 読みにくさの原因は、ことばの「行渡り」が多いからである。1行で文節が完結しない。次の行にまたがってしまう。そして、その「行渡り」の特徴は、行の最後が「名詞」で終わることである。一行一行が「体言止め」なのである。(もちろん、そうではないところもあるが、「体言止め」が特徴として見えてくる。)
 「体言止め」の羅列(連続?)というのは私の「感覚の意見」でいうと、一階から二階へゆくのに、エスカレーターや階段でゆくのとは違って、エレベーターか飛翔(飛躍)でゆく感じである。そこには断絶がある。そして、このとき文章(ことはば)を支配する「主語」は「名詞」にかわる。「私」という存在は存在感が薄くなり、「体言止めであらわされたもの(名詞)」が「主語」になり、「もの」から「もの」へと動いていく。「主語」が変化しつづける。
 「もの」から「もの」へ飛躍していく。「もの」と「もの」の間には「断絶(切断)」がある。それは飛躍する前は「断絶」なのだが、飛躍してしまえば(到着/着陸)してしまえば「接続」にかわる。そういう種類の「断絶」がある。
 ことばというのは、まあ、どんな具合にでもつながってしまうから、接続不可能な断絶(切断)というものはないのだが……。
 で、それがくり返されると、文章の「主語」(文章を支配する何か)は、「もの(名詞)」というより、ことば字体の「断絶/飛躍」ということになる。この「主語」を追いつづけるのは、かなり抽象的なことである。
 で、読みにくいなあ。読みつづけるのがめんどうだなあ、という感じになる。

 読みにくいと感じるのは、ことばの運動の仕方に「飛躍」が多いからだということになるが、--詩を、手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いと考えるなら、飛躍の多い方が詩的であるということになるかもしれない。で、まあ、そういうことを狙って書いているんだろうなあ、とは思う。

 ということとは別にして。
 私は少し違うことも考えるのである。これから先は(これまでもそうかもしれないが)、詩の感想というのとはかなり違うことを書く。
 私の「感覚の意見」では、名詞は人間にはわからない。多くの名前は、単に名前である。それをわかるためには、それを「動詞」にしないといけない。一本のバラの花さえ、それをわかるためには、「バラの花がある」という形で「ある」を補足しないとわからない。そのとき私が理解しているのは「バラの花」というよりも「ある」という「動詞」である。「ある」という「動詞」で私とバラがつながる。私がいまここに「ある」とき、バラも「ある」。
 何かをわかるためには「動詞」をくぐらせないといけない。動詞というのは人間の「肉体の動き」である。肉体の動きなら、たいていは人間は真似ることができる。肉体で動きを真似ながら、そこに起きている「こと」を私たちは把握し、理解している。私は、「把握」とか「理解」ということばにも抵抗感が合って、最近は「わかる」で押し通しているのだが(多用しているのだが)。
 目の前で何かが起きている。「こと」がそこに「ある」。それを「肉体」を動かして真似ると、そのことが「肉体」に「わかる」。「肉体」は肉体の動きをとおして、そこに起きている「こと」を「おぼえる」。「おぼえる」が積み重なると、いちいち「肉体」を動かさなくても、起きている「こと」が「わかる」。「肉体」を動かさなくても「わかる」ことを「知っている」と私たちは呼んでいると思う。で、そのために、ときどき変なことも起きる。「知っている」には「肉体」と無関係なこと(肉体が十分に動けないこと)も含んでしまう。英語を「知っている」、アメリカを「知っている」、でも英語を「つかえない」。水泳(泳ぐこと)が「わかる」、泳ぎを「肉体」で「おぼえている」。一度おぼえると、たいてい忘れない。いつでも「泳げる」。「泳ぐ」という運動のために肉体を「つかう」ことができる。「わかる/おぼえる/つかう」は一続きの「肉体」である。「知る」は「肉体」から分離した「頭」の領域での架空の運動である。
 で、私は、ことばを読むとき、ことばを貫いている「運動」に目を向ける。名詞は「動詞」に変換してつかみとる。名詞が動詞派生のことばであるときは、名詞で終わっていてもいいのだが、そうではないとき名詞を突きつけられると、私は戸惑ってしまうのである。どう向き合っていいのかわからない。書かれていることばの「意味」は「頭」では「わかる」つもりだが、それは「知っている」だけで、「わかってはいない」ということが起きる。
 加藤の詩にもどって具体的に言いなおすと……。
 2行目の「つむじ風」。これは「知っている」。ぐるぐる巻きあがる風、旋風。それを「わかる」ために、私は「ぐるぐる巻きあがる」という動詞を補ったのだが、そうしないことには、私は先へ進めないのである。「ぐるぐる巻きあがる」という「動き」のなかには私の肉体で再現できるものとできないものがある。「ぐるぐるまわる」は再現できる。「あがる」は飛び上がることで半分再現できるが、風のように「巻きあがる」ことはできない。そのできることと、できないことを感じながら、私は「つむじ風」が「私」ではないということを「わかる」。「知る」という形に、ととのえ直す。
 で、その「わかったこと」が、次の行の、「ねじを巻き戻す」という動詞のなかで反復される。ぐるぐる「巻く」「巻き」もどす。「巻く」というのは「まわる」ということにもつながる。自分で「まわる」こともできるし、何かを「まわす」こともできる。「まわったもの」は「巻かれたもの」でもある。私は、この行の「巻き戻す」の「巻く」という動詞で、前の行の「つむじ風」を反復している。同時に、その「巻く」が少し変質しながら別のことばにつながっていくのを感じている。
 そんなふうに読むと、加藤は体言止めの行を多用しながら「動詞」を二重につかっていることが「わかる」。動詞を反復しているのだが、その反復を、見かけ上は省略しているということになる。動詞の量(?)が半分に省略されているために、「肉体」よりも先に「頭」が動いて、「肉体」を動かないようにしている感じがする。「知る」という形の「ととのえ」が先行する。先に「知る」が動いていく。
 それが私には苦しい。
 つむじ風が巻いている。そのつむじ風は世界のねじを巻き戻すようだ、と二回にわけて「巻く」をつかえば、それだけそのことば(動詞)は肉体に覚え込まれるのに、反復を避けて先走る。
 これが苦しい。読みにくい。

 とは言っても……。加藤は反論するだろう。「反復」は最初から提示している。反復に気づかない方が悪い、と。
 最初から提示している、というのは。1行目、

青い家、その青い家の緑の扉を開けると

 その書き出しに、「反復」としか言いようのない形で書かれている。「青い家」がそのまま反復されているし、ていねいに「その」という指示詞で先行する「もの」があることを示している。この書き出しから反復を受け取ることができないとしたら、それは読む方が悪い、頭が悪すぎる。
 たしかにそうなのだ。私は頭が悪い。悪すぎる。
 自覚しながら、頭がいいふりも少ししてみよう。聞きかじったことばを利用して、適当にことばを動かしてみる。頭の悪い私は、いま書きつらねたことを、「流通言語」を利用して次のように整理し、ととのえる。
 加藤が書いているのは反復こそが、世界のなかに反復できない何か(ずれ/差異、というのかな?)を生み出す。その、反復されるまでは言語化されていないものを、ことばを切断させながら飛翔するように(飛躍するように)進んでゆくときに(疾走するときに、といった方が加藤のことばの運動の感じが出るかな?)、新しい世界、ことばでしかたどりつけない世界、つまり詩が出現する。
 あ、かっこいいなあ。
 私は自分の書いたことなのに(その加藤の肖像に)、そんなふうにも思うのだけれど、こういう「意味」って、嘘くさいと思う。「意味」なんて、ことばをつないでゆけば、どんな具合にも生まれてしまう。詩は「意味」にしてはいけないんだと思う。「意味」はかたちづくるためにあるのではなく、たたきこわしていくためにあると私は感じている。
 だから、加藤のことばは「読みにくい」というところにとどまって、ごちゃごちゃと何事かを言ってみるのである。

すべての詩人は水夫である (100人の詩人・100冊の詩集)
加藤思何理
土曜美術社出版販売
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西脇順三郎の一行(75)

2014-01-31 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(75)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

やせた鹿はモナ・リーザのように                  (87ページ)

 この一行はきのう取り上げた一行に比べると「意味」が不完全である。「ように」のあとの用言がない。引き継ぐ動詞がない。そのために、この一行だけでは意味がわからない。
 鹿とモナリザ。まったく無関係なものが一行のなかで「用言」を遠ざけられたままであっている。そのために新鮮な印象がする。
 しかしただそれだけではない。鹿を形容する「やせた」が不思議な効果をもっている。「やせた」ということばは反射的に「ふとった(ふくよかな)」ということばを思い出させる。「乏しい」「弱い」というような類似のことばも呼び寄せるかもしれないが、モナリザの丸い頬の感じなどが「やせた」によって自然にスポットを宛てられたような、意識に浮かんでくる。
 手術台の上のミシンとこうもり傘のような、かけ離れたものでありながら、かけ離れること(対立すること)が、逆にことばをどこかで接続させている。その接続があるから、それにつづいて「古典的な微笑をかくして」の「微笑」が、読者を安心させる。


2014年02月01日(土曜日)

西脇順三郎の一行(77)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

ピカソは土人がなめる石の笑いに                  (88ページ)

 「なめる」という動詞が強烈に動く。その前の「ブレークはトラの笑いにもどり/ジョイスはイモリの笑いにもどり」と比べると、ピカソの一行の不思議な強さの印象がさらにあざやかになる。
 この一行は、

ピカソは土人がなめる石の笑いに「もどり」

 と、「もどり」が省略された形とも受け取ることができるが、「なめる」がそういう「形」を拒絶している。ある予定された軌道を逸して動こうとしている。その力に押されて「もどり」ということばは消えてしまったのだろう。
 「なめる」は「もどる」とは逆の動きなのだ。引き返すのではなく、より積極的に近づいていく。近づいていくを通り越して、そこにあるものを自分の中に入れてしまう。「なめる」は「食べる」とは違うのだけれど、舌が触れるということは半分口の中に入るということである。
 「もどる」は自分があるもののなかへ入っていくのに対し、「なめる」はあるものを自分のなかに入れること。「肉体」が逆に動いている。
 奇妙な言い方しかできないのだが、「もどる」と「なめる」を比較するとき、「もどる」は男性的、「なめる」は情勢的な感じがする。なかへ入っていく男、なかへ受け入れる女--そういう対比もついつい考えてしまう。
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