瀬尾育生「蛹化」(「現代詩手帖」2014年01月号)
瀬尾育生「蛹化」を読みながら、私は、瀬尾育生の詩をコピーしていたときのことを思い出す。瀬尾のことばにはコピーしたくなる何かがある。それは何なのか。
リズムがいい。それは「音」だけではなく、たぶん「文法」のリズムがいいのだ。1行1行はかなり長いのだが、ことばにつまずかずに読むことができる。(これは、とても珍しいことである。)あることばが次のことばへ接続される瞬間に無理がない。最初のことばと次のことばの間に「自然な連想」のようなものが働いている。だから、これはもしかすると「連想の文法」と言ってもいいのかもしれない。
こんなことを書いても何の「説明」にもならないなあ、と思うので、次のように言いなおしてみる。
この詩の一番変わっているところ(特徴?)は、詩の全体は句点「。」で区切られた1行が連なる形で構成されているのだが、1行目だけは句点「。」ではなく読点「、」で終わっている。
なぜ?
2行目といっしょにして1行にするには長すぎるから?
そうかもしれないが、私は別なことを考える。最初の1行は、実は意識のなかで繰り返される1行なのである。意識をそのままていねいに(?)再現すると、瀬尾の詩は次のようになる。
意識(ことば)は常に「最初」に戻りながら進んでいる。次々に状況が変わっていくようであって、そうではない。「状況」は変化せずに、とどまりつづけている。逸脱しないのだ。どんなに逸脱しているように見えても、変わらないものがある。省略された1行は、常にそこに存在している。
これをさらに言いなおすと、2行目以下の「主語」は変化しているように見えるが、実は変化していない。「主語」は統一されている。「主語」は省略されながらことばを動かしている。その「主語」を補うと、先の詩のことばは次のように変わる。
「きみの」が省略されている。1行の「形式上の主語」は「上衣」「ねばつく水」「罵声」と変化していくが、その「形式上の主語」の奥底に「きみ」がいる。全部書くとめんどうになるので3行目だけを言い換えてみると、
になる。2行目で「きみは」「倒れて動かなくなる」という動きがあった後も、主語はずーっと「きみ」なのだ。「きみ」という「連想の文法の主語」を一貫させて、ことばは動いていく。どんなに逸脱しているように見えても、それは「形式上」のことであって、ことばの「肉体」は「きみ」を主語にしつづけている。
そして、その結果(?)、どうなるか。書かれていることがらが「濃密」になる。逸脱していくことばが、省略された「主語」へ向かって、逆流してくる。凝縮してくる。遠く離れれば離れるほど、求心力というのだろうか、省略された主語へもどってくる強さが強くなる。
終わりから2行目。
「きみ」を補っておくと、
ということになる。「内側」は、少し前に出てくることばであり、」きみは最後に「蛹」の形になっている」は最終行の、最後のことばである。
で、この行の「逆方向」ということば--これが瀬尾の「キーワード(思想/肉体)」である。繰り返しながら逆方向に向かう。出発点の主語を外さない。
その「逆方向」は、実は、最初の1行にも含まれている。少し目を凝らさないといけないのだけれど、ことばを補うと、
「くぐった」は「くぐる」の過去形。「くぐる」という動作が「終わった」ところから下り坂が「はじまる」。「おわり」と「はじまり」という「逆方向」が出会っている。「逆方向」の衝突のなかで、「きみ」は倒れるということになる。「きみ」のなかで「逆方向」がぶつかりあい、すべてが動く。
だからこそ、最初の1行は1行目にしか書かれていないが、あらゆる行の前に存在すると私はいうのである。
さらにいえば、それは最終的に「蛹」を「くぐる」、そして新しく生まれ変わるという暗示(暗喩)へ結晶することで、完全に完結する。
瀬尾の「文法」の基本リズムは、常に「遠心・求心」の「逆方向」のことばによって動いていて、乱れることがない。「逆方向」が繰り返される(繰り返し、すれ違う)ときに、ことば全体が詩として結晶する。そして、この結晶の強度を強める「文法上の技法」が「省略」なのである。
主語の省略。
ここから私は飛躍して、「感覚の意見」を書く。
主語の省略。--これは日本語の特徴である。(スペイン語でも主語は省略されるけれど。)日本語は昔から主語を省略することで、主語を逆に浮かびあがらせ、読者の(聞き手の)肉体を主語に結びつけるという形でことばを動かす。
瀬尾は(たしか)ドイツ語に堪能なはずである。そして、瀬尾の文体にはドイツ語の構造が太い骨格となることもあるのだが(評論は、とくにその印象が強い。また「くぐる」-「さなぎ」-「くぐる」-再生という構造は、ドイツ語の「枠構造」の影響を連想させるのだが)、ことばの基本は「日本語」なのである。しかも非常に伝統的な日本語なのである。日本語の「文法のリズム」(日本語の感性文法)をきちんと踏まえているのである。
瀬尾の詩をコピーしていたとき、私は瀬尾のことばをとおして日本語の文法を学びなおしていたのだと、思う。
瀬尾育生「蛹化」を読みながら、私は、瀬尾育生の詩をコピーしていたときのことを思い出す。瀬尾のことばにはコピーしたくなる何かがある。それは何なのか。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
きみは路側の植え込みのなかへ横倒しに倒れて動かなくなる。
植え込みは夕方の雨で濡れていて上衣の縫い目から水が染みてくる。
鼻孔と眼窩からねばつく水が糸を引き数十年前の罵声が耳殻の後ろで粉々になる。
土と皮膚が浸透しあう組織を通して尿と微量の精液が股間の布に滲みをつくる。
「用件」がいくつかこめかみの内側で小さくはじけて消える。
リズムがいい。それは「音」だけではなく、たぶん「文法」のリズムがいいのだ。1行1行はかなり長いのだが、ことばにつまずかずに読むことができる。(これは、とても珍しいことである。)あることばが次のことばへ接続される瞬間に無理がない。最初のことばと次のことばの間に「自然な連想」のようなものが働いている。だから、これはもしかすると「連想の文法」と言ってもいいのかもしれない。
こんなことを書いても何の「説明」にもならないなあ、と思うので、次のように言いなおしてみる。
この詩の一番変わっているところ(特徴?)は、詩の全体は句点「。」で区切られた1行が連なる形で構成されているのだが、1行目だけは句点「。」ではなく読点「、」で終わっている。
なぜ?
2行目といっしょにして1行にするには長すぎるから?
そうかもしれないが、私は別なことを考える。最初の1行は、実は意識のなかで繰り返される1行なのである。意識をそのままていねいに(?)再現すると、瀬尾の詩は次のようになる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
きみは路側の植え込みのなかへ横倒しに倒れて動かなくなる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
植え込みは夕方の雨で濡れていて上衣の縫い目から水が染みてくる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
鼻孔と眼窩からねばつく水が糸を引き数十年前の罵声が耳殻の後ろで粉々になる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
土と皮膚が浸透しあう組織を通して尿と微量の精液が股間の布に滲みをつくる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
「用件」がいくつかこめかみの内側で小さくはじけて消える。
意識(ことば)は常に「最初」に戻りながら進んでいる。次々に状況が変わっていくようであって、そうではない。「状況」は変化せずに、とどまりつづけている。逸脱しないのだ。どんなに逸脱しているように見えても、変わらないものがある。省略された1行は、常にそこに存在している。
これをさらに言いなおすと、2行目以下の「主語」は変化しているように見えるが、実は変化していない。「主語」は統一されている。「主語」は省略されながらことばを動かしている。その「主語」を補うと、先の詩のことばは次のように変わる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
きみは路側の植え込みのなかへ横倒しに倒れて動かなくなる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
植え込みは夕方の雨で濡れていて「きみの」上衣の縫い目から水が染みてくる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
「きみの」鼻孔と眼窩からねばつく水が糸を引き数十年前の罵声が「きみの」耳殻の後ろで粉々になる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
土と「きみの」皮膚が浸透しあう組織を通して「きみの」尿と微量の精液が「きみの」股間の布に滲みをつくる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
「用件」が「きみの」いくつかこめかみの内側で小さくはじけて消える。
「きみの」が省略されている。1行の「形式上の主語」は「上衣」「ねばつく水」「罵声」と変化していくが、その「形式上の主語」の奥底に「きみ」がいる。全部書くとめんどうになるので3行目だけを言い換えてみると、
植え込みは夕方の雨で濡れていて「きみの」上衣の縫い目から水が染みてくる(ので、きみは濡れる)。
になる。2行目で「きみは」「倒れて動かなくなる」という動きがあった後も、主語はずーっと「きみ」なのだ。「きみ」という「連想の文法の主語」を一貫させて、ことばは動いていく。どんなに逸脱しているように見えても、それは「形式上」のことであって、ことばの「肉体」は「きみ」を主語にしつづけている。
そして、その結果(?)、どうなるか。書かれていることがらが「濃密」になる。逸脱していくことばが、省略された「主語」へ向かって、逆流してくる。凝縮してくる。遠く離れれば離れるほど、求心力というのだろうか、省略された主語へもどってくる強さが強くなる。
終わりから2行目。
溶暗する繊維に沿って微生物の道ができ、蠕虫たちが体液と逆方向にすれ違う。
「きみ」を補っておくと、
溶暗する繊維に沿って「きみの内側に」微生物の道ができ、蠕虫たちが「きみの」体液と逆方向にすれ違う(ことで、きみは最後に「蛹」の形になっている)。
ということになる。「内側」は、少し前に出てくることばであり、」きみは最後に「蛹」の形になっている」は最終行の、最後のことばである。
で、この行の「逆方向」ということば--これが瀬尾の「キーワード(思想/肉体)」である。繰り返しながら逆方向に向かう。出発点の主語を外さない。
その「逆方向」は、実は、最初の1行にも含まれている。少し目を凝らさないといけないのだけれど、ことばを補うと、
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐ(り終わ)った下り坂のはじまりのところで
「くぐった」は「くぐる」の過去形。「くぐる」という動作が「終わった」ところから下り坂が「はじまる」。「おわり」と「はじまり」という「逆方向」が出会っている。「逆方向」の衝突のなかで、「きみ」は倒れるということになる。「きみ」のなかで「逆方向」がぶつかりあい、すべてが動く。
だからこそ、最初の1行は1行目にしか書かれていないが、あらゆる行の前に存在すると私はいうのである。
さらにいえば、それは最終的に「蛹」を「くぐる」、そして新しく生まれ変わるという暗示(暗喩)へ結晶することで、完全に完結する。
瀬尾の「文法」の基本リズムは、常に「遠心・求心」の「逆方向」のことばによって動いていて、乱れることがない。「逆方向」が繰り返される(繰り返し、すれ違う)ときに、ことば全体が詩として結晶する。そして、この結晶の強度を強める「文法上の技法」が「省略」なのである。
主語の省略。
ここから私は飛躍して、「感覚の意見」を書く。
主語の省略。--これは日本語の特徴である。(スペイン語でも主語は省略されるけれど。)日本語は昔から主語を省略することで、主語を逆に浮かびあがらせ、読者の(聞き手の)肉体を主語に結びつけるという形でことばを動かす。
瀬尾は(たしか)ドイツ語に堪能なはずである。そして、瀬尾の文体にはドイツ語の構造が太い骨格となることもあるのだが(評論は、とくにその印象が強い。また「くぐる」-「さなぎ」-「くぐる」-再生という構造は、ドイツ語の「枠構造」の影響を連想させるのだが)、ことばの基本は「日本語」なのである。しかも非常に伝統的な日本語なのである。日本語の「文法のリズム」(日本語の感性文法)をきちんと踏まえているのである。
瀬尾の詩をコピーしていたとき、私は瀬尾のことばをとおして日本語の文法を学びなおしていたのだと、思う。
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