池井昌樹「夢中」(「現代詩手帖」2014年01月号)
池井昌樹「夢中」は、何に夢中なのかと思って読むと。
夢中ではなく、「夢の中」。「の」が省略されている。--のかな? 違うね。やっぱり夢中なのだね。夢中は一生懸命、わきめもふらず。わかっているけれど、何か不思議なことばだ。その一生懸命のなかには、「あいついまごろゆめんなか」(きっと夢を見てぬくぬくとしている)という怨み、愚痴のようなものもまじるのだけれど、そういう怨みや愚痴を突き破って肉体が動く。肉体を動かすしかない。好きだから夢中(一生懸命)というのではなく、好きでも嫌いでも一生懸命。
「あいついまごろゆめんなか/そうおもってははたらいた」が「あいついまごろゆめんなか/そうおもったらはたらけた」までの間には、不思議な接続と切断があるのだけれど、その分岐点はわからない。この「わからない」は、「頭」ではわからないということ。「頭」では、それこの地点といえないけれど、なんとなく「そういうものだなあ」ということを感じてしまう。それは私もいつかどこかで怨みや愚痴をいいながら働いたからだね。いまも、そうやって働いているからだね。そういうことを「肉体」で思い出す。ことばにはできないけれど、覚えている。
池井は、この肉体が覚えていることを「頭」で整理するのではなく、あくまで「声(肉体)」で伝える。声の静かにつづく感じでつたえる。「声」はことばを越える。「意味」を越える。「声」のなかに、生きているリズムがある。肉体が覚えていることがある。
あ、こんなことは、いくら書いてもしようがないね。
私がこの詩でいちばん好きなのは、
この2行の「とおいとおいいほしのよう」の「とおいい」。あ、私はそんなふうに発音しない。声にしない。「とおおい」と「お」を伸ばす。間を伸ばす。でも、池井はそうではなく「とおいい」と最後の「い」にアクセントを置く。
この最後の「い」は「いま」である。
「とおおい」と間をのばすと、過去を向こうへ押しやる。遠ざける。けれど、池井はそうしない。遠ざかるものを、「ゆくな」とでもいうように、「とおいい」と最後の「い」をぐっとおさえる。おさえて放さない。
そのあとに「ほし」が出てくる。
これが美しいね。
星は遠い。その星を見るとき、私たちは星を遠ざけない。自分に引きつけるようにしてみる。その星へ自分が行くようにしてみる。つまり、つなげてみる。自分を忘れて、ではなく、ちょっと強引に言うと、自分を思い出しながら、星をみる。星があんなにとおくにある、だけではなく、自分はここにいる、という感じがある。
見ていると、星がどんどん遠くなるのではなく、星が明るく明るくだんだん明るくなって見えてくる。自分と星が見つめ合っている、という感じになってくる。
そういう気持ちが「とおいい」なのだ。
そう思うとき。
「あいついまでもゆめんなか」の「あいつ」は、自分を支えてくれていたということにも気づく。怨みや愚痴をいったけれど、怨みや愚痴を言えたから、一生懸命になれたとも言える。池井の詩には池井を見守る誰かが登場し、その誰かと池井は放心して交流することが多いのだけれど、この詩の「あいつ」はブラックホールのような、反転した「まなざし」かもしれない。「あいつだれかもわすれたが」と最後に池井は書いているが、それは最初から「だれかわからない」存在である。そういう存在、忘れてしまった存在でも、忘れられないことがある。その「あいつ」といっしょに「自分」の肉体があったこと。「あいつ」を見つめながら「肉体」が動いたということ。--この「こと」はいまの「肉体」の「いま」としっかりつながっている。そのつながっている「いま」を池井は放さない。ぐっと、力を込めておさえる。「いま」のしっぽを。あるいは「いま」の頭、「いま」の心臓かもしれない。
そのつかんでいる感じが「わすれたが」ということばとは逆に、強く強く響いてくる。
池井昌樹「夢中」は、何に夢中なのかと思って読むと。
あいついまごろゆめんなか
そうおもってははたらいた
つめたいあめのあけがたに
あせみずたらすまよなかに
あいついまごろゆめんなか
そうおもったらはたらけた
そんなつめたいあけがたも
あせみずたらすまよなかも
いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう
あいつどうしているのやら
こもごもおもいはせながら
といきついたりわらったり
めをとじたきりひとしきり
けれどいまでもゆめんなか
あいついまでもゆめんなか
こんなやみよのどこかしら
あいつだれかもわすれたが
夢中ではなく、「夢の中」。「の」が省略されている。--のかな? 違うね。やっぱり夢中なのだね。夢中は一生懸命、わきめもふらず。わかっているけれど、何か不思議なことばだ。その一生懸命のなかには、「あいついまごろゆめんなか」(きっと夢を見てぬくぬくとしている)という怨み、愚痴のようなものもまじるのだけれど、そういう怨みや愚痴を突き破って肉体が動く。肉体を動かすしかない。好きだから夢中(一生懸命)というのではなく、好きでも嫌いでも一生懸命。
「あいついまごろゆめんなか/そうおもってははたらいた」が「あいついまごろゆめんなか/そうおもったらはたらけた」までの間には、不思議な接続と切断があるのだけれど、その分岐点はわからない。この「わからない」は、「頭」ではわからないということ。「頭」では、それこの地点といえないけれど、なんとなく「そういうものだなあ」ということを感じてしまう。それは私もいつかどこかで怨みや愚痴をいいながら働いたからだね。いまも、そうやって働いているからだね。そういうことを「肉体」で思い出す。ことばにはできないけれど、覚えている。
池井は、この肉体が覚えていることを「頭」で整理するのではなく、あくまで「声(肉体)」で伝える。声の静かにつづく感じでつたえる。「声」はことばを越える。「意味」を越える。「声」のなかに、生きているリズムがある。肉体が覚えていることがある。
あ、こんなことは、いくら書いてもしようがないね。
私がこの詩でいちばん好きなのは、
いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう
この2行の「とおいとおいいほしのよう」の「とおいい」。あ、私はそんなふうに発音しない。声にしない。「とおおい」と「お」を伸ばす。間を伸ばす。でも、池井はそうではなく「とおいい」と最後の「い」にアクセントを置く。
この最後の「い」は「いま」である。
「とおおい」と間をのばすと、過去を向こうへ押しやる。遠ざける。けれど、池井はそうしない。遠ざかるものを、「ゆくな」とでもいうように、「とおいい」と最後の「い」をぐっとおさえる。おさえて放さない。
そのあとに「ほし」が出てくる。
これが美しいね。
星は遠い。その星を見るとき、私たちは星を遠ざけない。自分に引きつけるようにしてみる。その星へ自分が行くようにしてみる。つまり、つなげてみる。自分を忘れて、ではなく、ちょっと強引に言うと、自分を思い出しながら、星をみる。星があんなにとおくにある、だけではなく、自分はここにいる、という感じがある。
見ていると、星がどんどん遠くなるのではなく、星が明るく明るくだんだん明るくなって見えてくる。自分と星が見つめ合っている、という感じになってくる。
そういう気持ちが「とおいい」なのだ。
そう思うとき。
「あいついまでもゆめんなか」の「あいつ」は、自分を支えてくれていたということにも気づく。怨みや愚痴をいったけれど、怨みや愚痴を言えたから、一生懸命になれたとも言える。池井の詩には池井を見守る誰かが登場し、その誰かと池井は放心して交流することが多いのだけれど、この詩の「あいつ」はブラックホールのような、反転した「まなざし」かもしれない。「あいつだれかもわすれたが」と最後に池井は書いているが、それは最初から「だれかわからない」存在である。そういう存在、忘れてしまった存在でも、忘れられないことがある。その「あいつ」といっしょに「自分」の肉体があったこと。「あいつ」を見つめながら「肉体」が動いたということ。--この「こと」はいまの「肉体」の「いま」としっかりつながっている。そのつながっている「いま」を池井は放さない。ぐっと、力を込めておさえる。「いま」のしっぽを。あるいは「いま」の頭、「いま」の心臓かもしれない。
そのつかんでいる感じが「わすれたが」ということばとは逆に、強く強く響いてくる。
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