原口哲也『花冠(ステファノス)』(書肆山田、2013年11月25日発行)
原口哲也『花冠(ステファノス)』は日本語を読んでいる感じがしない。
巻頭の作品は「Regenbogen」。何語? わからない。わからないことは、私は気にしない。ほんとうに重要なことなら、ひとは何度も口にする。その繰り返しの中で、だんだんわかってくる--と信じている。私は網膜剥離の手術以来、眼の具合がとても悪い。それを口実に、辞書も引かない。(昔から、辞書はめったに引かないのだけれど……。そのときは、何を口実にしていたのか、思い出せないが。)
で、わからないまま読みはじめる。
「弓鳴り」って何かな? 弓を射たときの音? 弦の音? 弓が飛ぶときの音? まあ、戦争があったんだろうねえ。強者どもが夢のあと、という感じで廃墟の柱がある。でも、その柱は具体的な柱ではなく「抽象の柱」。これは、想像力によって見る柱ということかな? その柱の間を闇が広がりながら退縮していく。広がりながらどこかに隠れるように闇を深める? わからないけれど、わかったような気持ちになる。2行目の、「広がりながら」「退縮していく」という対立する運動が何かおもしろいね。矛盾の中に、一瞬、何かが見えたような気がする。この一瞬の視覚の幻が「既視」なのかな。
わからないまま、私は、ヨーロッパの廃墟をかってに想像する。ヨーロッパの廃墟を知っているわけではないから、まあ、適当だけれど。石が転がっていて、柱が突っ立っている、くらいの感じだけれど。
そこに、「僕(あとで出てくる)」と「きみ」がいる。僕は、きみの視線の動きを見て、それからきみが考えていることを思っている。こういう状況だろうね。
ここから何が始まるか。
あ、わからない。「釈義」なんてことばは、私は聞いたこともない。(「弓鳴り」というのも聞いたことがない。)聞いたことがあってもわからないことばがたくさんあるが、聞いたことのないことばはわかるはずがない。「漢字」で見ると、まあ、「解釈、定義、説明」くらいかなあと見当はつくが……。
で、わからないことはほっておいて(わきに置いておくというより、もう、どこか目につかないところへ遠ざけて)。私は「わかる」ことばに目を向ける。「わかる」けれど、変だなあ、自分のことばとは違うなあ、ということろから接近していく。
ふーん、朝焼けでもない、夕暮れでもない、となれば「昼」なのだが、昼じゃないよね。「闇」があるのだから。薄暗い。朝方か夕方かのどちらかなのだけれど、それはきっと一回かぎりの時間--だから「この時」と原口は言うのだ。
おっ、おもしろいじゃないか。詞は一回かぎりのことだ。その一回かぎりと原口は向き合っているのだ、と私とどきどきする。
けれど。
あれれ、一回かぎりの「時」がほうりだされて、「この」と呼ぶこと、その意識の方にことばが動いていく。「この時」というのは僕ときみ(君--つかいわけているのかな?)を存在させる「場(空間/時間)」なのだと思うけれど、その「場」を離れてしまう。私には離れて行ってしまっているようにみえる。
何かなあ。どうなったのかなあ。わからないぞ。
ふーん。突然の雨--にわか雨の前の暗闇。その中で、原口は「一つ」と「二つ」について考えたということなのかな? 「いま/ここ」と「歴史(廃墟に記されている)の時間/ここ」、「きみ」と「僕」、地球と気象(天体/宇宙)。あれこれ考える意識の中ですべてが溶け合い、輝く。その溶け合った一瞬の象徴が虹のきらめき。
わかったような気持ちにはなる。
けれど、わからない。
この、こだわり。もしほんとうにこだわるのだったら、「一つ以上の天球」「賦活以上の宇宙」というような「外」の世界へ向かうのではなく、もっと内向しないと。「この」というのは、そのことばを発する人間の「内部」にあるものだ。内部に何かがあって、それが「指示」する。指示するように動く。
私の読み方が間違っているのかもしれないが、何か、ことばの動きが分裂している。方向が定まっていない。原口は「溶け合う」ということばをつかっているが、私には、その「溶け合う」が見えない。
そして不思議なことに、原口は「溶け合う」瞬間を見たい、それを書きたいと欲望している--ということがみえる。原口が見たといっているものが見えずに、見ようと欲する原口が見える。いや、原口ではなく、その肉体ではなく……。あ、これは何だろうなあ。私は何を見たのだろうなあ。
わからないまま、詩集を読みつづける。そうすると、
という行に出会う。「天使と出会う」という作品だ。
あ、そうなのか。原口が問題にしているのは「理性」なのか、とやっと気がついた。「この」という指示も「理性」によるものなのだね。あらゆることを「理性」経由でとらえなおす。きみがいる。僕がいる。廃墟がある。雨が降る。虹が立つ。そういうことを「理性」でとらえ直すとどうなるか。そこには「一つ以上の天球」があり、「二つ以上の宇宙」がある。「二つ以上の宇宙」に「一つ以上の天球」がふくまれるのではなく、「一つ以上の天球」を把握する「理性」、「二つ以上の宇宙」を把握する「理性」--「理性」の運動の中で分節される世界、というより、そんなふうに分節していく「理性」として原口は存在したいということなのかな?
あ、これでは何のことかわからない? そうだろうなあ。私も書きながらわからなくなったのだから、読んだ人にわかるわけがないなあ。どう書き直せばいいのか、どう書き直せば論理的(理性的)になるのか--あ、めんどうくさい、と思う。
感じるのは。
原口は、世界を「理性」というものを経由してとらえたいと思っている。そして、その「理性」というのは、詩集のタイトルやほかの詩にもしきりに出てくる「外国語」、自分の育った場で語られることばではなく、自分とは離れた場所にある何か、自分に染まっていない確立された何かなんだね。日本の「いま/ここ」、あるいは原口の肉体が育ってきた「過去-いま/ここ-あそこ」というよりも、原口が、「いま/ここ」にはないことばとして学んできたことば--それによって、「いま/ここ」を洗い直したいと思っている。
「いま/ここ」を「理性(学んだことば)」によって洗い直す時、そこに新しい世界があらわれる、それが詩。
--そう原口は考えている、と私は「誤読」する。
これは、むずかしいぞ。なかなか、できないことだぞ、と私は思う。
西脇順三郎がやったことが、原口がやろうとしていることに通じるかもしれないけれど(原口は、そんな具合に見ているのかなあ、西脇の詩を一つの理想形として見ているのかなと思うのだけれど)、--私の「感覚の意見」ではぜんぜん違うなあ。西脇はたしかに「ギリシャ的抒情詩」を書いたけれど、そこには「風景」が書かれていたのではなく「日本語」が書かれていた。外国の「理性」ではなく、日本語の「理性」が動いている。西脇にとって「理性」とは抽象ではなく具体だ。西脇はあくまで具体にこだわり、具体だけを書いた、と私は思う。
原口哲也『花冠(ステファノス)』は日本語を読んでいる感じがしない。
巻頭の作品は「Regenbogen」。何語? わからない。わからないことは、私は気にしない。ほんとうに重要なことなら、ひとは何度も口にする。その繰り返しの中で、だんだんわかってくる--と信じている。私は網膜剥離の手術以来、眼の具合がとても悪い。それを口実に、辞書も引かない。(昔から、辞書はめったに引かないのだけれど……。そのときは、何を口実にしていたのか、思い出せないが。)
で、わからないまま読みはじめる。
弓鳴りにどよめく抽象の柱群。
広がりながら退縮していく廃墟の闇は
既視(デジャビュ)の残磋をきみの目の中に積み上げている。
「弓鳴り」って何かな? 弓を射たときの音? 弦の音? 弓が飛ぶときの音? まあ、戦争があったんだろうねえ。強者どもが夢のあと、という感じで廃墟の柱がある。でも、その柱は具体的な柱ではなく「抽象の柱」。これは、想像力によって見る柱ということかな? その柱の間を闇が広がりながら退縮していく。広がりながらどこかに隠れるように闇を深める? わからないけれど、わかったような気持ちになる。2行目の、「広がりながら」「退縮していく」という対立する運動が何かおもしろいね。矛盾の中に、一瞬、何かが見えたような気がする。この一瞬の視覚の幻が「既視」なのかな。
わからないまま、私は、ヨーロッパの廃墟をかってに想像する。ヨーロッパの廃墟を知っているわけではないから、まあ、適当だけれど。石が転がっていて、柱が突っ立っている、くらいの感じだけれど。
そこに、「僕(あとで出てくる)」と「きみ」がいる。僕は、きみの視線の動きを見て、それからきみが考えていることを思っている。こういう状況だろうね。
ここから何が始まるか。
どの朝焼け、どの夕暮れでもない、「この時」
……「この」という指示詞の前では、ヒマワリ色の抱擁も、深海
底をさぐっていく薔薇色の指たちも力無くみえる。……外は雨?
トートロジーは君を眠らせ、釈義の言葉は僕と君の間に
一つ以上の天球を介在させる。
あ、わからない。「釈義」なんてことばは、私は聞いたこともない。(「弓鳴り」というのも聞いたことがない。)聞いたことがあってもわからないことばがたくさんあるが、聞いたことのないことばはわかるはずがない。「漢字」で見ると、まあ、「解釈、定義、説明」くらいかなあと見当はつくが……。
で、わからないことはほっておいて(わきに置いておくというより、もう、どこか目につかないところへ遠ざけて)。私は「わかる」ことばに目を向ける。「わかる」けれど、変だなあ、自分のことばとは違うなあ、ということろから接近していく。
「この時」
ふーん、朝焼けでもない、夕暮れでもない、となれば「昼」なのだが、昼じゃないよね。「闇」があるのだから。薄暗い。朝方か夕方かのどちらかなのだけれど、それはきっと一回かぎりの時間--だから「この時」と原口は言うのだ。
おっ、おもしろいじゃないか。詞は一回かぎりのことだ。その一回かぎりと原口は向き合っているのだ、と私とどきどきする。
けれど。
……「この」という指示詞の前では、
あれれ、一回かぎりの「時」がほうりだされて、「この」と呼ぶこと、その意識の方にことばが動いていく。「この時」というのは僕ときみ(君--つかいわけているのかな?)を存在させる「場(空間/時間)」なのだと思うけれど、その「場」を離れてしまう。私には離れて行ってしまっているようにみえる。
何かなあ。どうなったのかなあ。わからないぞ。
単純な雨……。それが君と僕との徴(しるし)、二つ以上の宇宙が溶け合う午後。
雨上がりの空。沈殿した光の層を切り裂き
きらめく虹が舞い立つ。
ふーん。突然の雨--にわか雨の前の暗闇。その中で、原口は「一つ」と「二つ」について考えたということなのかな? 「いま/ここ」と「歴史(廃墟に記されている)の時間/ここ」、「きみ」と「僕」、地球と気象(天体/宇宙)。あれこれ考える意識の中ですべてが溶け合い、輝く。その溶け合った一瞬の象徴が虹のきらめき。
わかったような気持ちにはなる。
けれど、わからない。
……「この」という指示詞の前では、
この、こだわり。もしほんとうにこだわるのだったら、「一つ以上の天球」「賦活以上の宇宙」というような「外」の世界へ向かうのではなく、もっと内向しないと。「この」というのは、そのことばを発する人間の「内部」にあるものだ。内部に何かがあって、それが「指示」する。指示するように動く。
私の読み方が間違っているのかもしれないが、何か、ことばの動きが分裂している。方向が定まっていない。原口は「溶け合う」ということばをつかっているが、私には、その「溶け合う」が見えない。
そして不思議なことに、原口は「溶け合う」瞬間を見たい、それを書きたいと欲望している--ということがみえる。原口が見たといっているものが見えずに、見ようと欲する原口が見える。いや、原口ではなく、その肉体ではなく……。あ、これは何だろうなあ。私は何を見たのだろうなあ。
わからないまま、詩集を読みつづける。そうすると、
「きみ」と出会うためには、全身の皮膚が理性とならなければならない
という行に出会う。「天使と出会う」という作品だ。
あ、そうなのか。原口が問題にしているのは「理性」なのか、とやっと気がついた。「この」という指示も「理性」によるものなのだね。あらゆることを「理性」経由でとらえなおす。きみがいる。僕がいる。廃墟がある。雨が降る。虹が立つ。そういうことを「理性」でとらえ直すとどうなるか。そこには「一つ以上の天球」があり、「二つ以上の宇宙」がある。「二つ以上の宇宙」に「一つ以上の天球」がふくまれるのではなく、「一つ以上の天球」を把握する「理性」、「二つ以上の宇宙」を把握する「理性」--「理性」の運動の中で分節される世界、というより、そんなふうに分節していく「理性」として原口は存在したいということなのかな?
あ、これでは何のことかわからない? そうだろうなあ。私も書きながらわからなくなったのだから、読んだ人にわかるわけがないなあ。どう書き直せばいいのか、どう書き直せば論理的(理性的)になるのか--あ、めんどうくさい、と思う。
感じるのは。
原口は、世界を「理性」というものを経由してとらえたいと思っている。そして、その「理性」というのは、詩集のタイトルやほかの詩にもしきりに出てくる「外国語」、自分の育った場で語られることばではなく、自分とは離れた場所にある何か、自分に染まっていない確立された何かなんだね。日本の「いま/ここ」、あるいは原口の肉体が育ってきた「過去-いま/ここ-あそこ」というよりも、原口が、「いま/ここ」にはないことばとして学んできたことば--それによって、「いま/ここ」を洗い直したいと思っている。
「いま/ここ」を「理性(学んだことば)」によって洗い直す時、そこに新しい世界があらわれる、それが詩。
--そう原口は考えている、と私は「誤読」する。
これは、むずかしいぞ。なかなか、できないことだぞ、と私は思う。
西脇順三郎がやったことが、原口がやろうとしていることに通じるかもしれないけれど(原口は、そんな具合に見ているのかなあ、西脇の詩を一つの理想形として見ているのかなと思うのだけれど)、--私の「感覚の意見」ではぜんぜん違うなあ。西脇はたしかに「ギリシャ的抒情詩」を書いたけれど、そこには「風景」が書かれていたのではなく「日本語」が書かれていた。外国の「理性」ではなく、日本語の「理性」が動いている。西脇にとって「理性」とは抽象ではなく具体だ。西脇はあくまで具体にこだわり、具体だけを書いた、と私は思う。
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