詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アンドレ・ケルテス『読む時間』

2014-01-21 09:45:31 | その他(音楽、小説etc)
アンドレ・ケルテス『読む時間』(創元社、2013年11月20日)

 アンドレ・ケルテス『読む時間』は写真集。先日、谷川俊太郎さん(作品について触れないときは、敬称をつける)と話す機会があり、私のブログの誤字・脱字の多さが話題になった。「私は目が悪いので書いたものは読み返さない」と開き直ったら(?)、「これなら目に負担がかからないよ」と一冊わけてくれた本である。(どうも、ありがとうございました。--あのとき、お礼を言い忘れたような気がする。緊張して、どきどきしていたんだなあ、きっと。--「日記」なので、こういうこともたまには書いておこう。)
 
 で、写真集。
 私は写真のことはわからないのだが、その作品に引き込まれた。そして、すぐにひとつのことに気がついた。アンドレ・ケルテスの写真の特徴ではなく、この写真がとらえている「時間」の特徴に気づいた。
 「読む」というのは必ずしも「本」だけではなく、新聞やチラシ、食堂のメニューなども含まれるのだが、その「読む」瞬間、読んでいる瞬間、ひとの「肉体」は動かない。あたりまえのことなのかもしれないが、へええっ、と思った。そして、写真というのは人間の動きを固定してとらえてしまうものだけれど、その「動かない肉体」を表現するには最適の媒体かもしれないとも思った。
 そして、いま書いていることと矛盾するかもしれないのだが、肉体が動かないのに、何かが動いていることに気づく。それは、「頭」で考えたことばで言うと、「思考」が動いている。肉体は動かないが、読むときの人間の「精神」が動いている、「感情」が動いているということばになって広がっていくのだが。
 あ、これは、違う。もちろん、本を読みながら精神が動くのだけれど、そんなものはことばによる説明であって、写真がつたえているものじゃないからね。ことばはいつだって「意味」になって、適当な「感動(結論?)」をでっちあげる。動かない肉体をとらえた写真の奥に、動きつづける精神を見た。本を読むときに動く人間のこころをアンドレ・ケルテスは表現している--なんて書いてしまうと、それなりに「かっこいい意味」になってしまう。こういう「かっこいい意味」になってしまうことばというのは、危険だね。ことばは積み重ねればかならず「意味」になってしまい、そこに何か人が見落としていそうなことを付け加えると「かっこよく」なる。そのとき、私は、なんにも考えていない、ということが起きてしまう。だいたい、そんな「見えない精神」なんて書いても、写真とは関係ないよなあ--と私は思うのである。
 書いていることがごちゃごちゃしてきたね。
 何を感じたのか、見えない精神ではなく、何が私を引きつけたのか。何が動いていると見えたのか。「精神」などという「頭のことば」を捨てる。目だけになってみる。
 読むひとの肉体は動いていない。写真だから動きようがないのだが……。その動かない写真ということと矛盾してしまうのだが、たとえば2ページ目のニューヨークのビルの屋上の写真。剥げた男が椅子にすわって新聞を読んでいる。そのまわりには蓋をした煙突(?)のような何かわけのわからないものがある。その煙突のようなものが影をつくっている。その影も写真だから動かないのだが……。動かないのに、私には動いて見えた。影の方向、影と光のコントラストの影響があるのかもしれないが、その影は太陽の動き(時間の経過)とともに少しずつ動きつづける、ということが伝わってくる。この太陽の動きと影の変化というのは「空想」だけれど、その「空想」は現実でもある。だれでも太陽が動けば影が動くことを知っている。その動き--新聞を読む男とは無関係な動きが写真には同時に存在していて、それが何といえばいいのか、新聞を読む男の内部で動いている「精神」と呼応して「音楽」になっている、と感じたのだ。
 男が新聞を読んでいる。一瞬、夢中になって、肉体が動くのをやめている。でも、そういう人間の動きとは無関係に動く何かが世界のほうにある。男の外部にある。その外部を男は一瞬忘れているが、その忘却の空白で世界が静かに鳴っている。そこに音楽があると感じたのだ。

 まるで知らない曲を聴くように、私はつぎつぎにページをめくっていく。1枚1枚の写真がもっている「音楽」はそれぞれに違う。本のまわりで鳴っている「音」は違う。けれども、たしかにそこには本(本を読む人)とは別の「音」があって、それは「和音」になっている。

 写真には、光と影のように「時間」とともに動くものが描かれているときと、まったく動かないものが同居している作品がある。17ページ。ワシントンスクエアの路上の「蚤の市」(?)かなあ、女が本を読んでいる。その隣のテーブルにだれも買わないようなフクロウのオブジェ、膝をついた人間の彫刻のようなもの(いわゆるアート?)がある。背後の道を車が走っている(あるいは駐車している?)が、このオブジェ(アート)はどんなに時間が経っても変化しない。しかし、それが女性の本を読む行為と響きあう。そこに「音楽」が生まれるのはなぜなのか。それぞれのオブジェ(アート)が「過去(時間)」をもっているためだ。あるものがある形になるまでの「時間」。それがゆっくりとあらわれてくる。人間が動いているときは、どうしても人間の動きにひきずられて見えなくなるのだが、どんな「もの」にもそれぞれの時間があり、その時間は人間の肉体が沈黙しているときに、そっと静かな音を響かせる。それが写真全体のなかで「和音」になる。
 紹介が逆になったが、16ページの写真は逆。路上に額に入った写真(?)がある。写真の男はテーブルの上で何かを読んでいる。メニューかな? その男は写真だから動かない。その写真の前を手をつないだ男女が写真にちらりと目をやって通りすぎる。写真は足もとと男女の手しか写していないが、男の写真を見ているだろうなあと想像できる。そして、その足の形や組み合わさった手の形から、ふたりの「過去(関係)」のようなものもかってに想像できる。動くものは、動くことで「音」を立てる。ここにも動かないものと動くものの出会いがつくりだす不思議な「音楽」がある。

 というようなことを感じると、ふと、また違ったことばが私のなかで動きだす。
 本を読む(活字を読む)というのは、「意味」なんかではなく「音楽」を聞くためである。自分の肉体の中にある「音楽」を聞くためである、と思うのだ。「いま/ここ」にある肉体は、「意味」にしばられている。何かをしなければならない、という「仕事」にしばられている。そういう「仕事/社会的意味」を拒絶(排除)して、「無意味」にかえる。自分を忘れて、自分の肉体と響きあう「音」に耳を傾ける。忘我、だね。
 この文章の最初の方に、「見えない精神の動き」なんていう気障なことばを書いたけれど、そしてそれは危険な嘘だと書いたけれど--いや、ほんとうに、それは嘘なのだ。本を読むとき「精神」なんて動かない。「精神」を捨てる、忘れる。「頭」を忘れる。そして、「肉体」が覚えていること、遠い遠い昔の肉体が体験したことが奏でる「音」を聞く。その「音」は最初は何かわからない。わからないけれど、少しずつ「音楽」になって、私の「肉体」を気持ちよくさせてくれる。
 実際、本を読んでいて感じるは、そういうことだなあ。「音」を聞く。その「音」が「音楽」になって、何か肉体をととのえてくれる。それがうれしい。

 あ、写真から離れてしまったかな?



 この写真集には「読むこと」という谷川の詩がついている。(作品について書くので、敬称はつけない。)

なんて不思議……あなたは思わず微笑みます
違う文字が違う言葉が違う声が違う意味でさえ
私たちの魂で同じひとつの生きる力になっていく

 「違う」と谷川が書いていることを、私は、私の書いてきた「時間の動き」を重ねる。「音」を重ねる。そして「ひとつの力」を「音」が重なり合ってできる「音楽」と言い換えてみる。
 「読む」とは「音」をつかわずに「音楽」を聞く方法なのだと感じた。
 (谷川の詩については、はしょりすぎた感想になってしまったが、私は40分以上つづけて書くと目がおかしくなるので、こんな中途半端な形になってしまう。「日記」だから、これでいいかな、と私は思っている。)



読む時間
アンドレ・ケルテス
創元社
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西脇順三郎の一行(65)

2014-01-21 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(65)

 「えてるにたす Ⅱ」

鉛管のしめりのように                       (77ページ)

 きのう書いた「肉体」の問題をつづけたい。
 この1行は何を描写しているか。私は水道の鉛管を思い浮かべる。暑い日。水道管のなかを水が動いていく。そうすると鉛管の表面に水滴がつく。鉛管がしっとりしめる。そういう状況を思い浮かべる。
 このとき動いている感覚器官は何だろう。
 「目」で見て、鉛管の表面を描写しているのというのが基本かもしれないが、そのとき、そこには「触覚」(手で触った感じ)もまじっている。その「触覚」は「しめっている(ぬれている)」だけではなく、「冷たい」も感じる。
 ある「もの/こと」が描写され、ことばになるとき、そこには「ひとつの感覚」があるのではなく、複合された感覚がある。その複合は「頭」のなかでつくられるではなく、「肉体」のなかに分離できない形、融合する形で存在する。そういうことを西脇のことばは教えてくれる。
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