金井雄二『朝起きてぼくは』(思潮社、2015年07月30日発行)
金井雄二『朝起きてぼくは』。タイトルはこどもの「日記」を感じさせる。朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、歯を磨いて……。でも金井は小学生ではないし、夏休みの日記を書いているわけではないので、それは「日常」の報告のようであって、ちょっと違う。
「ぬくもりを感じられる距離」とは「距離」なのか。
あ、これは「問い」の立て方が悪かったかな?
金井は「距離」を書きたかったのか。それとも「ぬくもりを感じられる」を書きたかったのか。私は直感的に「ぬくもり」の方だと思ってしまう。「距離」というのは「ぬくもり」(感触/触覚)ではない。触覚ではかるものではないのだけれど、触覚で感じてしまうときもある。こういうことは「論理」では説明できない。そういう「論理」以外のものが、すっと入ってきて、ことばをしっかりつなぎとめる。
変な一行(論理的ではない一行、客観的ではない一行)なのだけれど、その「変」なところに金井の「肉体」が見える。
「変」は、そのつぎの「どうしても」ということばに引き継がれている。「どうしても」と言わずにおれない「肉体」。
「どうしても」届かぬと、わかるのはなぜ? と、考えてみると、「どうしても」がどこにあるかがわかる。「距離」、つまり金井と「音」(の発生している場所)との「あいだ」にあるのではない。「距離」は「外部」にあるのではなく、金井の「肉体」のなかにある。
金井の「肉体」のなかにある何かが「ぬくもり」を感じ取り、それが離れた「場所」にある「音」と呼応している。金井が起きだして、その音の発生している場所へゆけば「ぬくもり」を、たとえば手で感じ取ることができるかというとそうではない。それは「肉体」の「感触」なのだけれど、「肉体」の「形」では触れることのできないものである。手で触れることができない。
金井は「肉体」の内部にある「ぬくもり」を感じる力そのもののことを書いている。
それに触れることができるのは、たとえば「家庭の記憶(母の思い出)」のようなものなのだ。「台所」でいま響いている「音」そのものではなく、金井の「肉体」がおぼえている「音」。「肉体」のなかにある「音」。それはいま台所で響いている音と似ているが、おぼえている音そのものではない。
その「ずれ」というか「差」のようなものが、「どうしても」ということばを必要としている。
いまの音に不満があるわけではない。でも、「どうしても」聞いてしまうのだ。「肉体」がおぼえている「音」を。そのときに「距離」が感じられる。「ぬくもり」のなかでかさなりあうものが。
どうも、うまく言えないが……。
詩集のなかでいちばん好きなのは、「蓋と瓶の関係」。
「平均的な力を」の「平均的」ということばがおもしろい。蓋が閉まって行くときの描写もおもしろい。でも、いちばん楽しいのは、
この一行。「幸福」ということばが、ここに出てくること。あるものが、あるままのかたちで落ち着いている。それが「幸福」。「純粋な」ということばが、それをさらに強調している。
いや、もしかすると、「純粋な」こそがこの行をしっかりとしたものにととのえているのかもしれない。「台所」の「ぬくもり」に似た働きをしているのかもしれない。この「純粋」は金井の「肉体」がおぼえている「純粋」なのだ。
金井にはわかっていても、それを他人にわかる形で言い直すことは難しい。そして、その「難しい」はずの何かは、言い直さなくても読者に伝わる。奇妙な言い方になるが、読者の方も金井の言おうとしている「純粋」がどういうものか「わかる」。「わかる」のだけれど、それを自分のことばで言い直すことができない。純粋は純粋、幸福は幸福。それを言い直そうとすると、どんどん、めんどうくさいことを言ってしまうし、言うたびに言いたいことから遠ざかってしまう。言わなければよかった。何も言わずに、「ここが好き」ですませておけばよかったという感じかなあ。
最後の三行もいいなあ。そこにある「純粋な幸福感」。
「お父さん、蓋があかない。あけて」とせがまれる幸福感。子どもが金井の「肉体」に「がっしりとかさなる」。子どもはお父さんの「肉体」の動きを自分の「肉体」で感じて、「あ、あいた」と喜ぶ。「肉体」の動きだけでなく、瓶の蓋のゆっくりとゆるんでくるときの感じも、なぜか、伝わる。そのときわからなくても、子どもが親になって瓶の蓋をゆるめるとき、ああ、これが父の感じていた蓋のゆるんでくる感じなのだ、と思い出す。そのときの「肉体」の重なり合い。
こういう「肉体」の重なり合いを「肉体」はけっして忘れることができない。それが「ぬくもり」というものかもしれない。「ことばの肉体」が、そこに、しっかりと生きている。
金井雄二『朝起きてぼくは』。タイトルはこどもの「日記」を感じさせる。朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、歯を磨いて……。でも金井は小学生ではないし、夏休みの日記を書いているわけではないので、それは「日常」の報告のようであって、ちょっと違う。
台所で音がする
卵を割る音
油がはぜる音
蛇口からときおり
水のでる音
音はぬくもりを感じられる距離にありながら
どうしても届かぬ場所にある (「台所」)
「ぬくもりを感じられる距離」とは「距離」なのか。
あ、これは「問い」の立て方が悪かったかな?
金井は「距離」を書きたかったのか。それとも「ぬくもりを感じられる」を書きたかったのか。私は直感的に「ぬくもり」の方だと思ってしまう。「距離」というのは「ぬくもり」(感触/触覚)ではない。触覚ではかるものではないのだけれど、触覚で感じてしまうときもある。こういうことは「論理」では説明できない。そういう「論理」以外のものが、すっと入ってきて、ことばをしっかりつなぎとめる。
変な一行(論理的ではない一行、客観的ではない一行)なのだけれど、その「変」なところに金井の「肉体」が見える。
「変」は、そのつぎの「どうしても」ということばに引き継がれている。「どうしても」と言わずにおれない「肉体」。
「どうしても」届かぬと、わかるのはなぜ? と、考えてみると、「どうしても」がどこにあるかがわかる。「距離」、つまり金井と「音」(の発生している場所)との「あいだ」にあるのではない。「距離」は「外部」にあるのではなく、金井の「肉体」のなかにある。
金井の「肉体」のなかにある何かが「ぬくもり」を感じ取り、それが離れた「場所」にある「音」と呼応している。金井が起きだして、その音の発生している場所へゆけば「ぬくもり」を、たとえば手で感じ取ることができるかというとそうではない。それは「肉体」の「感触」なのだけれど、「肉体」の「形」では触れることのできないものである。手で触れることができない。
金井は「肉体」の内部にある「ぬくもり」を感じる力そのもののことを書いている。
それに触れることができるのは、たとえば「家庭の記憶(母の思い出)」のようなものなのだ。「台所」でいま響いている「音」そのものではなく、金井の「肉体」がおぼえている「音」。「肉体」のなかにある「音」。それはいま台所で響いている音と似ているが、おぼえている音そのものではない。
その「ずれ」というか「差」のようなものが、「どうしても」ということばを必要としている。
いまの音に不満があるわけではない。でも、「どうしても」聞いてしまうのだ。「肉体」がおぼえている「音」を。そのときに「距離」が感じられる。「ぬくもり」のなかでかさなりあうものが。
どうも、うまく言えないが……。
詩集のなかでいちばん好きなのは、「蓋と瓶の関係」。
蓋の欲望は
瓶の上に乗ることだ
ぼくは瓶の中から
ジャムをすくい
パンにぬりおわると
蓋をしめる
平均的な力を
だんだんと加える
蓋は瓶の縁を
幾重にもなめるように
あわさっていく
がっしりとかさなる
それは純粋な幸福感
子どもがきて
蓋を開けようとしても
あかない
「平均的な力を」の「平均的」ということばがおもしろい。蓋が閉まって行くときの描写もおもしろい。でも、いちばん楽しいのは、
それは純粋な幸福感
この一行。「幸福」ということばが、ここに出てくること。あるものが、あるままのかたちで落ち着いている。それが「幸福」。「純粋な」ということばが、それをさらに強調している。
いや、もしかすると、「純粋な」こそがこの行をしっかりとしたものにととのえているのかもしれない。「台所」の「ぬくもり」に似た働きをしているのかもしれない。この「純粋」は金井の「肉体」がおぼえている「純粋」なのだ。
金井にはわかっていても、それを他人にわかる形で言い直すことは難しい。そして、その「難しい」はずの何かは、言い直さなくても読者に伝わる。奇妙な言い方になるが、読者の方も金井の言おうとしている「純粋」がどういうものか「わかる」。「わかる」のだけれど、それを自分のことばで言い直すことができない。純粋は純粋、幸福は幸福。それを言い直そうとすると、どんどん、めんどうくさいことを言ってしまうし、言うたびに言いたいことから遠ざかってしまう。言わなければよかった。何も言わずに、「ここが好き」ですませておけばよかったという感じかなあ。
最後の三行もいいなあ。そこにある「純粋な幸福感」。
「お父さん、蓋があかない。あけて」とせがまれる幸福感。子どもが金井の「肉体」に「がっしりとかさなる」。子どもはお父さんの「肉体」の動きを自分の「肉体」で感じて、「あ、あいた」と喜ぶ。「肉体」の動きだけでなく、瓶の蓋のゆっくりとゆるんでくるときの感じも、なぜか、伝わる。そのときわからなくても、子どもが親になって瓶の蓋をゆるめるとき、ああ、これが父の感じていた蓋のゆるんでくる感じなのだ、と思い出す。そのときの「肉体」の重なり合い。
こういう「肉体」の重なり合いを「肉体」はけっして忘れることができない。それが「ぬくもり」というものかもしれない。「ことばの肉体」が、そこに、しっかりと生きている。
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