詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山口賀代子「はるのまぎわに」、岬多可子「もともとはひとつの土」

2015-08-27 10:05:28 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「はるのまぎわに」、岬多可子「もともとはひとつの土」(「左庭」31、2015年06月25日発行)

 季節おくれの紹介になってしまうが、山口賀代子「はるのまぎわに」は桜(たぶん)の開花を待つ詩。その書き出しがおもしろい。

蕾がふくらみはじめる
少女のかたい乳房のような
ふわふわと うずうずと
きょうか あすか あさってか
まっているようで 一日のばし二日のばしで
できることなら永遠にこないことを
あのみじかい季節を体感したものだけにわかる
悩ましい日々

 蕾を「少女のかたい乳房」という比喩にすることは男もやるだろう。いや、むしろ男の方が好んでそういう比喩をつかうかもしれない。豊かなやわらかい乳房もいいけれど、「少女のかたい乳房」にはどこか禁断の魅力がある。
 というのは男の視点で……。
 山口は、この「少女のかたい乳房」を、外側からではなく、内側から描いている。「ふわふわ」と書いて「うずうず」と言い直し、さらに「きょうか あすか あさってか」と言い直す。「待ちきれない」という感じかと思うと、逆に「一日のばし二日のばし」と言い直し、それを「できることなら永遠にこないことを(祈る、と私はことばを補って読んだ)」と言い直す。
 くること(開花)を期待し、同時にこない(開花しない、蕾のままである)ことを期待する。これは矛盾なのだが、矛盾だからこそ、「肉体」に迫ってくる。「矛盾」を感じるのは「頭」だが、「矛盾」は「頭」では解決しない。つかみとれない。「肉体」で受け止めると、「ふわふわ うずうず」になる。それは「悩ましい」でもある。
 この「肉体」のなかの動きを、山口は

あのみじかい季節を体感したものだけにわかる

 と「体感」と「わかる」ということばで書いている。この「わかる」は女の特権だね。「少女のかたい乳房」を自分の肉体で通ってきた女の特権だ。男は、うーん、そうなのか、と思うしかない。
 「きょうか あすか あさってか/まっているようで 一日のばし二日のばしで/できることなら永遠にこないことを」というのは「肉体的」なことではなく、肉体とは別なものに感じることはあっても、肉体としては、私は「体感」したことはない。
 こんな例でいいかどうかわからないが、「少女のかたい乳房」(つぼみ)と「開花」から、私は少女の「初潮」を連想する。それは少女にとって「きてほしい」ものか、「まだきてほしくない」ものか、よくわからないが、たぶん自分が変わってしまうのだからどうなるのだろうと「悩ましい」ことなんだろうと想像する。
 これを男の「肉体」にあてはめようとすると、なかなかあてはまらない。はじめての射精を「きてほしい」のか「きてほしくない」のか、そんなことを悩まない。逆に、きょうも自慰をしてしまった。朝も、晩も、夜中も。「やめたい」「やめられない」。それは「肉体」の苦悩であると同時に「意思」の「悩み」。(悩む必要なんかない、とわかるのは、かなりあとだ。)
 で、振り返って、「きょうか あすか あさってか/まっているようで 一日のばし二日のばしで/できることなら永遠にこないことを」は、男には書けないなあ、と思う。そうだったのかあ、と思う。
 詩はつづく。

うしなったのちの日々のながさを
遅らせたい と想ううほどに蕾はめにみえてふくらみ
ある夜 ふっと予告もなく
咲く
目覚め 障子をひらけたさきの可憐なひと花に
うれしいうれしいと身体がいうので

 「うしなったのちの日々のながさを/遅らせたい」というのは花が散ったあとの日々の長さを遅らせたい(花が散ったあとの日々の長さを短くしたい/花が散るのを遅らせたい)ということだと思うが、「少女(処女)」のままでいたい、処女でなくなるのを遅らせたいという具合にも読める。誤読できる。
 その一方で、女の「肉体」は、いのちの欲望を抑えきれない。「処女でいたい」と思えば想うほど、逆の欲望も強くなる。欲望は「めにみえてふくらみ」、ある夜、突然、処女ではなくなる。
 蕾が桜の花の蕾なら、それが「夜」に開くということはないだろう。植物は太陽の光のなかで開く。「ある夜」の「夜」ということばが、どうしても蕾と処女を結びつけてしまう。女の性の開花(?)を呼び寄せる。
 「うれしいうれしいと身体がいう」の「いう」という動詞、その主語が「身体」であるのも、そうした連想を駆り立てる。
 私の連想は「妄想」かもしれないが、そういう「妄想」を刺戟する「ことばの肉体」がそこにある。私の肉体とは違う肉体がそこにあり、それが「ことば」と深く通じているという感じは、私は、とても好き。



 岬多可子「もともとはひとつの土」は、「肉体」を女、男という次元ではとらえず、もっと別なものととらえている。「いのち」のつかみ方が「人間」を超える瞬間かある。

草には ひとを
養うものと 狂わせるもの
傷つけるものと 扶(たす)けるものがあり、
土はひとつにつながって広がっていた。

 「草(植物)」と「ひと(人間)」の関係は、岬が書いているようにさまざまにある。食用になるものもあれば、食べると毒になるものもある。「桜」はどうだろうか。「肉体」を直接養うということはないかもしれないが、「肉体」のなかで動いているものを養ったり、狂わせたりするだろう。その動いている何かを書いたのが、先に読んだ山口の詩の世界。
 岬は、その「草」と「ひと」の関係から出発して、「自分の肉体」を書かずに、あるいは「自分の肉体」を突き破って、「土」を書く。

土はひとつにつながって広がっていた。

 うーん。言われればたしかに「大地」はつながっている。広がっている。
 うーん、でも「ひとつ」とは言わない。
 最初から「ひとつ」のものなので「ひとつ」と言う必要はない。
 でも、岬は「ひとつ」という。
 そのとき「ひとつ」は「土」そのものではなくなる。いや「土」なのだが、「土」以外のものを巻き込んでしまう。「草」も「ひと」も「土」とつながり、「ひとつ」になって広がっている、と「世界」そのものになる。
 そうか、「世界」とは「土」のつながりであり、そこに「草」も「ひと」も生きている。そして、その「土」にはたとえば「壁」というものもつながってくる。「壁」とは「ひと」がつくった「建築物(暮らしの場)」の象徴である。

土塀も土壁も
もともとはひとつの そのような土だったが。
でも、もう、
汚し汚れてしまったのが はてもなく。
棄村。
あなたたちが棄てた土は、わたしたちが棄てた土。

 「限界集落」から「棄村」へ。暮らしていた「土地」をそのまま棄てる。その棄てられた「土」は、「つながり」を失った。もう「広がり」ではない。それは、結局、「いま/ここ」の「土」の広がりを狭めることである。「あなたたち」が狭めるのではなく、「わたしたち」が狭めている。村を棄てた「ひと」を「わたし」と「ひとつ」にして、岬は「土」と向き合う。
 「土」から岬は世界を見つめなおしている。
詩集 海市
山口 賀代子
砂子屋書房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする