詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

降戸輝「剥離作業」

2015-08-29 11:06:48 | 現代詩講座
降戸輝「剥離作業」(「現代詩講座」@リードカフェ、2015年08月26日発行)



剥離作業       降戸 輝

地下ホームに蓄積した
乗客の体温の名残を
隧道の中で圧縮しながら
最終電車が運び去る
一日がリセットされた駅構内に
閉じるシャッターの軋む金属音が
僕の眠気を解凍させる
二番出口近くの作業員控室から抜け出し
非常灯をたよりに
床面に付着したガムを見つけ
金属製の薄いヘラで剥がす
一つ一つ丁寧に
膨張しようとする身体中の機能を
指先の筋線維に集約させながら
乾ききった薄墨色のガムを剥がす
薄い灯りをたよりに剥がす
言い訳もせず
納得もせず
耐えることも
自覚することも必要ない
気のすむまで
透き通るまで
僕は今
剥がし続けさえすればいい

 いままで「現代詩講座」で書かれた作品とは違った詩。まず受講者の感想を聞いてみた。

<受講者1>最後の三分の一に私はついていけなかった。
<受講者2>硬いことばが多い。後半の「乾ききった薄墨色のガムを剥がす」から書いた方がいい。
<受講者3>「膨張しようとする身体中の機能を/指先の筋線維に集約させながら」の二行が好き。
      感情を書いた部分もいいけれど、肉体の動作の部分をもっと書いてもいいのでは。すごい感じの作品になると思う。
<受講者4>硬い印象がある。最後は「無我の境地」。やわらかいことばで書いたらどうなるだろうか。
<受講者1>タイトルがいけない。「ガムを剥がす」くらいが具体的でいいのでは。
<作  者>「ガムを剥がす」では主題が「行為の目的」になってしまう。「行為」そのものをテーマにしたかった。
<受講者2>機械が好きなのかなあ。「隧道」とか、私の好きなことばが出てくる。

 受講者がとまどったのは「蓄積」「圧縮」「解凍」などの漢字熟語が多かったからだと思う。いままでこうした漢字熟語がびっしりと書き込まれた作品が、この講座では書かれたことがなかった。(読まれたことがなかった。)また、これまでの講座では、唐突にあらわれる「漢字熟語」について、「漢字熟語ではなく、もっと違うことばで書いた方が全体が落ち着く。漢字熟語は意味が強すぎて、その部分だけ浮いてしまう。意味よりも、意味にならないものを書いた方がいい」ということを私が言い続けたために、今回の受講生の感想に、それが無意識に反映しているかもしれない。
 ひとり、その漢字熟語そのものに目を向けて、おもしろいと反応した。「膨張しようとする身体中の機能を/指先の筋線維に集約させながら」に注目している。
 私もこの二行がこの詩のいちばんおもしろいところだと思う。漢字熟語を積み重ねてきて、その積み重ねが、そこにある漢字熟語を異質なものにしている。漢字熟語なのに「意味」を超えて、ぬらり蠢いている。不定形で動いている。

<受講者3>「膨張」というのは、はみだしたいという思い。思いを書くのではなく、肉体として書いているのがおもしろい。

 私も、そう思う。いま書いたことを引き継ぎながら言い直すと……。
 「膨張する」という拡大していく動き(内側からあふれてくる動き)が「集約する」という逆の動きへとつながっている。そのつなぎめに「身体」と「機能」ということばがある。「身体」のなかにある「機能」が大きくなるというのは、いままでつかっていなかった「機能」までつかうようになるということ。それはたしかに「膨張(拡大)」なのだが、その「膨張」が必要なのは、ふつうの「身体の機能」だけではできないことがあるからだ。新しい何かをするために「身体の機能」をフル回転させる。そして、そのフル回転というのが「神経を指先に集中させること」。これを降戸は「指先の筋線維に集約」と書くのだが、そこにあらわれる「筋線維」ということばが、目に見えない「身体の機能」を見えるように感じさせる。身体が膨張したために、それまで隠れていた内部の細部が見えるようになり、それが「ことば」になったという感じ。度の強い眼鏡をかけたときのように、網膜に映像が焼きつくような具合に「筋線維」が迫ってくる。まるで肉体かが新しく生まれてくる感じ。はじめて人体解剖の模型を見たような……。
 なまなましい。
 漢字で書かれているのに、まるで、むきだしの「肉体」を見ている感じ。皮膚が剥がされて、筋肉があらわれる。その筋肉のなかの神経までがむき出しになった感じ。
 この「筋線維」ということばを詩のなかになじませるためには、それまでの「漢字熟語」が必要だったのだと思う。漢字熟語をつかわずに書いてきて、ここに突然「筋線維」ということばが出てくると、異質な感じが強すぎる。浮き上がる。
 逆に言うと。
 この「筋線維」ということばが、それまでの漢字熟語をぐいと引き寄せ、詩を引き締めている。まるで地下鉄の構内すべてが「筋線維」とつながっているような感じになる。「筋線維」が地下鉄の構内を「身体」の内部にかえてしまう、「身体の内部」の延長のように感じさせる。
 地下鉄の構内が自分の「身体」そのものであるからこそ、「僕」はそれを美しくすることに夢中になる。「透き通るまで」は受講者のひとりが言ったように「無我の境地」だろう。「身体」と「地下鉄構内」が一体になっている。そこには「区別」はない。
 そして、この「一体感」から、ことばが「異次元」に変化していくところも私はおもしろいと思う。「肉体的作業」から「感情の動き」への変化。「無我の境地」を「エクスタシー」と言い換えてみると、この「一体感」のあと、「僕」が「僕」でありながら「僕」ではなくなっている。「漢字熟語」で向き合ってきた世界が「漢字熟語」ではなく「平明」なことばにかわっている。
 最終行。

剥がし続けさえすればいい

 これは「漢字熟語」で言えば

剥離し続けさえすればいい

 ということになる。「剥離作業を続けさえすればいい」と言い直した方が、タイトルのことばとも重なる。けれど、それでは「僕」は「漢字熟語」のなかにとどまりつづけてしまって、生まれ変われない。それはそれでまたおもしろいかもしれないが、書くということは、書くまえの自分とは違った人間になってしまうことだから、私は変わったしまう作品の方が好きだ。こういう変化が自然に生まれてくる作品が好きだ。
 その前に出てくる「透き通るまで」も「漢字熟語」をつかって言うなら「透明になるまで」だが、「透明になるまで」だと固苦しい。また、その前の「言い訳」「納得」「耐える」「自覚」という、ひらがなまじりのことばと「漢字熟語」が交錯する部分は、「僕」の変化を無意識にあらわしていて、とても効果的だと思う。

 そういうことを話したとき、降戸から「透き通るまで」は「透明になるまで」ということばも考えたという発言があった。何度も何度も推敲を重ねて、ことばを選んでいる。その推敲の繰り返しがことばのつながりを緊密にしている。
 降戸は、このとき「下書き」を見せてくれた。最初はこの作品の三倍くらいの長さがあった。それを凝縮したのが今回の作品。大濠公園を走りながら、推敲するのだと言う。
 そこから、テーマは「推敲」にかわった。

<降  戸>八行目「二番出口」は迷った。具体的な「二番」ではなく、もっと抽象的なことばがよかっただろうか。
<受講者2>「二番出口」の方が具体的でいい。
<受講者1>私もそう思おう。

 誰もが「二番出口」がいいと言う。私もそう思う。それがどの出口か(この地下鉄ホームがどこの地下鉄ホームか)わからないが、「二番」があることで、漢字熟語の抽象性が消えて、自分の知っている地下鉄ホームを思い出してしまう。

<降  戸>「薄いヘラ」「薄墨色」と「薄い」がつづくのはどうだろうか。
<受講者2>ガムの「薄墨色」は、これでいいと思う。
<受講者1>ガムの汚れた感じがよくでている。
<受講者4>「薄い灯り」にも「薄い」が出てくる。

 私は、「薄いヘラ」は「鋭利なヘラ」でもいいかと思う。「漢字熟語」とも響きあうかもしれない。「薄い灯り」はことばの変わり目にあるので、どうするかが難しい。すでに「剥がす」が出てきているので、その響きを引き継ぐか、もう一度「漢字熟語」を登場させるか。作者の気持ちとしては「剥がす」から大きく変わっているのだから、ひらがなで「ぼんやりした灯り」とか「あいまいな灯り」がいいかもしれない。「あいまい」にすると、つぎの「たよりに」の「たより」と矛盾するので、「膨張する/集約する」と同じ効果が出てくるかもしれない。
 こういうことは、しかし、実際に書き直し、印刷し直してみないと、ほんとうの効果はわからない。推敲は「部分的」におこなうしかないが、その点検は「全体」を見渡さないとわからない。
 不思議だ。

 次回は9月30日午後6時からの予定。

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする