鈴木東海子『桜まいり』(書肆山田、2015年08月06日発行)
鈴木東海子『桜まいり』の文体は「しつこい」。よく「粘着力のある文体」というような言い方をするが、それとは違う。
詩集のタイトルになっている「桜まつり」の書き出し。
桜吹雪。豪快な(豪華な?)桜吹雪に出会ったときのことを書いているのだろう。桜吹雪に圧倒されて、息ができない。まるでほんとうの吹雪にあったときのように、桜が胸のなかまで入り込んで、胸を押しつぶす。そう書いた最初の文章を次の文章で言い直す。「桜吹雪」から「雪」を独立させて、「雪にまで冷えて喉もとから胸を押しつぶす」と「雪」そのものの描写にかえていく。「比喩」が独立して暴走する。
この描写を「しつこく」させているのは、末尾の「であった」ということばである。この「……であった」がなければ、単なる(?)というか、「現代詩」が得意とすることばの暴走のひとつなのだが、「……であった」が暴走に独特の「形式」を与えている。
言い直してみる。
「押しつぶす」の「主語」は何か。「吹雪く桜(桜/吹雪)」である。
それでは、「……であった」の「主語」は?
すぐには答えられないかもしれない。考え込んでしまうねえ。「……である」という「動詞」は、ちょっとややこしい。英語に「形式主語」というのがあるが、これは「形式主語」ならぬ「形式動詞」である。「この花はバラである」というときの「である」と同じ。英語ならば「この花」を「主語」として、「バラ」を「補語」とする。日本語の場合も「この花」を「主語」と考えてもいいのかもしれないけれど、そんなことを考えると面倒なので、私は「形式動詞」と呼んでごまかしておく。
ふつうは、そうごまかしておくのだが、この鈴木の詩の場合、ごまかしておくと、ちょっと「本質」に触れないことになってしまうので、そこにとどまり、こんなふうに考える。
この「……であった」というのは、実は「私は……であった、と考える(判断する/断定する)」という「文章構造」を縮めたものである。
桜吹雪が胸を圧迫する。(圧倒する。)この「桜吹雪」を「主語」とする文章を「私は」を「主語」にして言い直すと、「花びらが雪になって胸を押しつぶす」ということである、は私は考える。
「しつこい」と私が感じるのは、「事実(桜吹雪が胸を圧迫する)」ということはすでに語られているにもかかわらず、それをもう一度「私」を「主語」にして言い直しているからである。しかも、「私」を「主語」にしているということを隠して、「……である」という「形式動詞」をつかっている。手が込んでいる。
ある「事実/事件(こと)」がある。そこには「主語」がある。「主語」があるのだけれど、その「主語」に「動詞」をまかせてしまうのではなく、あくまで「私」を「主語」として「こと(事実/事件)」をとらえなおす。それは「こと(事実/事件)」を「私」の「こと」にしてしまうということである。「私」はそれによって、どうかわったか。鈴木の書きたいのは、あくまで「私」なのである。しかも、「私」を省略し、「……である」という「形式動詞」をつかうことで、それがあたかも「客観的事実」であるかのように偽装する。この手の込みようが「しつこい」という印象をさらに強くする。
「わたし」と「私」が書き分けここに姿をあらわす。あらわすけれど、それをすぐに「形式動詞」のなかに封印し、「息」を「主語」にして「もれる」という「動詞」で文章を完結させる。
このごちゃごちゃした、未整理の「私」と「形式動詞」の関係は、次の文章ではさらに妙な形になる。
「私」を隠し通すことに失敗したからこうなったのか、あるいは「私」をどうしても出したくてこうなったのか、まあ、わからない。わかるのは、こうした「ごちごちゃ」したことをどうしても書きたいという欲望がここにあるということだ。執念というか。それを私は「しつこい」というのだが。
このふたつの文章の末尾「……(の)である」はなくても「意味」はかわらない。けれど、鈴木は書かずにはいられない。「……(の)である」という「形式動詞」によって、「私は……のである、と考える/断定する。その考える/断定するのが私」といいたいからである。
単なる「……である」ではなく「のである」ということにも意味がある。
「この花はバラである」を「のである」という「述語」で言い直すとどうなるか。「此花はバラと呼ばれる花なのである」。「の」のなかには「主語(主題)」の反復がある。「……である」そのものが「私」を「主語」としたテーマの反復なのだが、その反復を強調しているのが「の」ということば。
反復の、この「しつこさ」。
「しつこい」「しつこい」と私はしつこく書いてるのだが、しかし、これは鈴木の文体を批判するためではない。
こんなにしつこく、よく書いたなあ。こんなしつこい文体をよく作り上げる気になったなあ、と、あきれ、感心しているのである。独自の「文体」は、それ自体で「詩」である。個性である。
私は目が悪くて、こういう「しつこい」文体の細部を追いつづけるのは苦痛なのだが、あ、この詩集はおもしろいと感じた。詩集の量(?)としては、半分くらいでもいいのかもしれないと思ったが(読みやすいと思ったが)、それは私が目が悪いせいかもしれない。「しつこい」感じをもっと濃厚に出すためには、この倍の厚さがあった方がいいという読者もいるだろう。
鈴木東海子『桜まいり』の文体は「しつこい」。よく「粘着力のある文体」というような言い方をするが、それとは違う。
詩集のタイトルになっている「桜まつり」の書き出し。
薄い胸に吹雪く桜がたまり胸をうずめ胸を押しつぶす。
薄い花びらが雪にまで冷えて喉もとから胸を押しつぶす
のであった。
桜吹雪。豪快な(豪華な?)桜吹雪に出会ったときのことを書いているのだろう。桜吹雪に圧倒されて、息ができない。まるでほんとうの吹雪にあったときのように、桜が胸のなかまで入り込んで、胸を押しつぶす。そう書いた最初の文章を次の文章で言い直す。「桜吹雪」から「雪」を独立させて、「雪にまで冷えて喉もとから胸を押しつぶす」と「雪」そのものの描写にかえていく。「比喩」が独立して暴走する。
この描写を「しつこく」させているのは、末尾の「であった」ということばである。この「……であった」がなければ、単なる(?)というか、「現代詩」が得意とすることばの暴走のひとつなのだが、「……であった」が暴走に独特の「形式」を与えている。
言い直してみる。
「押しつぶす」の「主語」は何か。「吹雪く桜(桜/吹雪)」である。
それでは、「……であった」の「主語」は?
すぐには答えられないかもしれない。考え込んでしまうねえ。「……である」という「動詞」は、ちょっとややこしい。英語に「形式主語」というのがあるが、これは「形式主語」ならぬ「形式動詞」である。「この花はバラである」というときの「である」と同じ。英語ならば「この花」を「主語」として、「バラ」を「補語」とする。日本語の場合も「この花」を「主語」と考えてもいいのかもしれないけれど、そんなことを考えると面倒なので、私は「形式動詞」と呼んでごまかしておく。
ふつうは、そうごまかしておくのだが、この鈴木の詩の場合、ごまかしておくと、ちょっと「本質」に触れないことになってしまうので、そこにとどまり、こんなふうに考える。
この「……であった」というのは、実は「私は……であった、と考える(判断する/断定する)」という「文章構造」を縮めたものである。
桜吹雪が胸を圧迫する。(圧倒する。)この「桜吹雪」を「主語」とする文章を「私は」を「主語」にして言い直すと、「花びらが雪になって胸を押しつぶす」ということである、は私は考える。
「しつこい」と私が感じるのは、「事実(桜吹雪が胸を圧迫する)」ということはすでに語られているにもかかわらず、それをもう一度「私」を「主語」にして言い直しているからである。しかも、「私」を「主語」にしているということを隠して、「……である」という「形式動詞」をつかっている。手が込んでいる。
ある「事実/事件(こと)」がある。そこには「主語」がある。「主語」があるのだけれど、その「主語」に「動詞」をまかせてしまうのではなく、あくまで「私」を「主語」として「こと(事実/事件)」をとらえなおす。それは「こと(事実/事件)」を「私」の「こと」にしてしまうということである。「私」はそれによって、どうかわったか。鈴木の書きたいのは、あくまで「私」なのである。しかも、「私」を省略し、「……である」という「形式動詞」をつかうことで、それがあたかも「客観的事実」であるかのように偽装する。この手の込みようが「しつこい」という印象をさらに強くする。
吹雪くなかに立っているのはわたしであっ
て私であると叫ぶ息が白くもれる。
「わたし」と「私」が書き分けここに姿をあらわす。あらわすけれど、それをすぐに「形式動詞」のなかに封印し、「息」を「主語」にして「もれる」という「動詞」で文章を完結させる。
このごちゃごちゃした、未整理の「私」と「形式動詞」の関係は、次の文章ではさらに妙な形になる。
花びらは積りわたし
の輪郭であるが線状にではなく立体的にまつわり白いわ
たしは花びらになっているように内がわの雪が冷たくす
るわたしであるから叫んでいるのは白い息だけで雪の声
でとける花びらになってしまう。
「私」を隠し通すことに失敗したからこうなったのか、あるいは「私」をどうしても出したくてこうなったのか、まあ、わからない。わかるのは、こうした「ごちごちゃ」したことをどうしても書きたいという欲望がここにあるということだ。執念というか。それを私は「しつこい」というのだが。
ここにいるわたしはど
こまでも在るわたしといいたいのだが白いわたしでもよ
かったのである。溶け合うことのできるわたしである希
みをもつことで花びらができると知るのである。
このふたつの文章の末尾「……(の)である」はなくても「意味」はかわらない。けれど、鈴木は書かずにはいられない。「……(の)である」という「形式動詞」によって、「私は……のである、と考える/断定する。その考える/断定するのが私」といいたいからである。
単なる「……である」ではなく「のである」ということにも意味がある。
「この花はバラである」を「のである」という「述語」で言い直すとどうなるか。「此花はバラと呼ばれる花なのである」。「の」のなかには「主語(主題)」の反復がある。「……である」そのものが「私」を「主語」としたテーマの反復なのだが、その反復を強調しているのが「の」ということば。
反復の、この「しつこさ」。
「しつこい」「しつこい」と私はしつこく書いてるのだが、しかし、これは鈴木の文体を批判するためではない。
こんなにしつこく、よく書いたなあ。こんなしつこい文体をよく作り上げる気になったなあ、と、あきれ、感心しているのである。独自の「文体」は、それ自体で「詩」である。個性である。
私は目が悪くて、こういう「しつこい」文体の細部を追いつづけるのは苦痛なのだが、あ、この詩集はおもしろいと感じた。詩集の量(?)としては、半分くらいでもいいのかもしれないと思ったが(読みやすいと思ったが)、それは私が目が悪いせいかもしれない。「しつこい」感じをもっと濃厚に出すためには、この倍の厚さがあった方がいいという読者もいるだろう。
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