西川宏「指に遇う」(「space」123 、2015年08月20日発行)
西川宏「指に遇う」は、ありえないことを書いているのだが、ありえるなあ、いや、こういうことはあったぞ、と思う。
「腑に落ちる」という「慣用句」が、不思議と説得力がある。「指の辿る秘境」というのは、わいせつな感じがするが、それが「闇の意識」と呼応する。真剣に(?)辿らなくても、まあ、テキトウな秘境巡りでも、あるいはテキトウな感じだからこそ、無意識(闇の意識)となじむのかなあ、などと思ったりする。
私もついついつられて書いてしまったか、
この「などと」というときのあいまいな感じ、これが「腑に落ちる」とぴったり合うことに気づいた。「腑に落ちる」というのは、わかったようで、わからない。わかっているのだけれど、説明できない。その説明できなさが「など」のなかに隠れている。厳密に定義(?)せずに、あいまいに、このあたり(などを含む)というぼんやりした「闇」のようなものが「腑に落ちる」。「腑」って、どこか、これもよくわからないけれど、「肉体」の内部のどこか。内臓のどこか。いいかげんだけれど、その「腑」は「肉体」全部とつながっている。「肉体」はもともと「全部」つながっているから、「腑」なんて特定しなくてもいいのかもしれない。そこだけとりだして、「これが腑」といってみたって、取り出した瞬間に、それはもう「死んでいる」。「肉体(いのち)」ではなくなっているからね。
あ、脱線したなあ。
「指」から始まり、「感触」を通り、「意識」と理性的なことばをひきずりながら、それが「腑」まで動いていって、「などと思う」というあいまいさのなかに「ひとつ」になる。固まる。「結晶する」というのではなく、ぼんやりとした固まり(塊)になる。この「ぼんやり」感が、とてもいい。
あ、「ぼんやり」感と書いたけれど、これは私の感じ。西川は、そうは思っていないかもしれない。
詩はつづいていく。
「などと思う」という「など」のあいまいさは、「でも(と)思う」の「でも」のなかに引き継がれているのだけれど、ここに書かれていることは、「腑に落ちない」。「落ちてこない」、納得できないなあ。
「足」と書かずに、西川は「脚」という文字をつかっているのだが、その「脚」は「指」よりは繊細とは思えない。指が「秘境」を巡るのにふさわしいように、繊細ではない「脚」はもっと広いところ「世界中」を巡るのにあっているかもしれない。だからこそ、西川もそう書いているのだが、「脚」はそうではない、と言う。「脚」は「素粒子(これ以上分割できない分子)」の世界に迷い込み、「素粒子」のつもりでいたら「宇宙」につながっていた、と言う。
この「予想を裏切る展開」、切断と接続の瞬間に詩はあるのだけれど……。
そう「わかる」けれど、それは「頭」で「わかる」こと。「腑」につながってこない。「脚」でほんとうに「素粒子」の世界を歩けるとは、私の「肉体」は信じることができない。「わかる」が「納得する」ことができない。
この部分はおもしろくないなあ。
でも、ここから西川は、「肉体」へ引き返す。
風が「胸を通り過ぎ/背中へと吹き抜けた」というのは、いわば「ことば」でつくってしまった世界で、そういうことがほんとうにあるわけではない。あるわけではないが、「ありうる」。そして、そういうことを「肉体」は知っている。「肉体」はつながっているので、「胸」を通りぬければ、反対側は「背中」ということを「納得」している。
これは「素粒子/宇宙」の世界とは違うね。「頭」で「理解」しているのではなく「肉体」が納得していること。
「肉体」が「肉体自身」で「納得」しているということはたくさんある。
「直接見たことがな」くても、眼球、背中、尻はある。直接見たことがなくても、それを「ある」といってしまうのは、「科学的(論理的)」かどうかはわからないが、そんなことは肉体には問題ではない。肉体が「納得」すれば、それが「肉体的事実」になる。「肉体」にとっての「事実」になる。「肉体」は、そういう「事実」をたくさん抱え込んでいる。
「直接見たことがない」といえば、「こころ」というものも見たことはない。それがほんとうに存在するのかどうか「ぼく(西川)」は「知らない」。「知らない」けれど、「ある」ということで「納得」している。この「納得」というのは「矛盾」だけれど。
その「こころ」というのは、もしかすると「指」の別の名前かもしれないし、「脚」「胸」「背中」「尻」の別称かもしれない--と書いてしまうと、それは西川の考えではなく、私の考えになってしまうのだけれど……。
この「だって」のなかに、「などと思っていた」の「など」、「……にでも……と思った」の「でも」がある。「など」「でも」は余分をひきつれてきて「対象(主題)」をあいまいにするようだけれど、あいまいのなかでひとつだけ「名称」を与えられて明確になるとも言うことができる。
「こころだって」の「だって」は、対象を明確にする方の力が強い。
「脚」と「素粒子/宇宙」の部分は、私には納得できないけれど、ほかのことばはおもしろいなあ。ことばと肉体の関係をいろいろに考えることができる。
*
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
西川宏「指に遇う」は、ありえないことを書いているのだが、ありえるなあ、いや、こういうことはあったぞ、と思う。
道端で指と遇う
指は
あらゆる秘境を辿っては
その感触を覚え込ませ
ぼくの闇の意識へと
轟かせているのだという
腑に落ちる話だなあ
などと思っていたら
今度は脚に出会う
「腑に落ちる」という「慣用句」が、不思議と説得力がある。「指の辿る秘境」というのは、わいせつな感じがするが、それが「闇の意識」と呼応する。真剣に(?)辿らなくても、まあ、テキトウな秘境巡りでも、あるいはテキトウな感じだからこそ、無意識(闇の意識)となじむのかなあ、などと思ったりする。
私もついついつられて書いてしまったか、
などと思っていたら
この「などと」というときのあいまいな感じ、これが「腑に落ちる」とぴったり合うことに気づいた。「腑に落ちる」というのは、わかったようで、わからない。わかっているのだけれど、説明できない。その説明できなさが「など」のなかに隠れている。厳密に定義(?)せずに、あいまいに、このあたり(などを含む)というぼんやりした「闇」のようなものが「腑に落ちる」。「腑」って、どこか、これもよくわからないけれど、「肉体」の内部のどこか。内臓のどこか。いいかげんだけれど、その「腑」は「肉体」全部とつながっている。「肉体」はもともと「全部」つながっているから、「腑」なんて特定しなくてもいいのかもしれない。そこだけとりだして、「これが腑」といってみたって、取り出した瞬間に、それはもう「死んでいる」。「肉体(いのち)」ではなくなっているからね。
あ、脱線したなあ。
「指」から始まり、「感触」を通り、「意識」と理性的なことばをひきずりながら、それが「腑」まで動いていって、「などと思う」というあいまいさのなかに「ひとつ」になる。固まる。「結晶する」というのではなく、ぼんやりとした固まり(塊)になる。この「ぼんやり」感が、とてもいい。
あ、「ぼんやり」感と書いたけれど、これは私の感じ。西川は、そうは思っていないかもしれない。
詩はつづいていく。
などと思っていたら
今度は脚に出会う
てっきり世界中旅にでも
出ているのかと思ったら
これ以上分割できない分子たちと
戯れていたら突然
宇宙の成り立ちに遭遇し
誰もが見落としている
ミクロ・ワールドを散策し
いつかの船出の準備を
しているのだという
「などと思う」という「など」のあいまいさは、「でも(と)思う」の「でも」のなかに引き継がれているのだけれど、ここに書かれていることは、「腑に落ちない」。「落ちてこない」、納得できないなあ。
「足」と書かずに、西川は「脚」という文字をつかっているのだが、その「脚」は「指」よりは繊細とは思えない。指が「秘境」を巡るのにふさわしいように、繊細ではない「脚」はもっと広いところ「世界中」を巡るのにあっているかもしれない。だからこそ、西川もそう書いているのだが、「脚」はそうではない、と言う。「脚」は「素粒子(これ以上分割できない分子)」の世界に迷い込み、「素粒子」のつもりでいたら「宇宙」につながっていた、と言う。
この「予想を裏切る展開」、切断と接続の瞬間に詩はあるのだけれど……。
そう「わかる」けれど、それは「頭」で「わかる」こと。「腑」につながってこない。「脚」でほんとうに「素粒子」の世界を歩けるとは、私の「肉体」は信じることができない。「わかる」が「納得する」ことができない。
この部分はおもしろくないなあ。
でも、ここから西川は、「肉体」へ引き返す。
向こうから
吹いてきた風は
ぼくの胸を通り過ぎ
背中へと吹き抜けた
そういえば
ぼくの眼球も
背中もお尻だって
直接見たことがない
あの日
湧き上がった雲の下で蠢いている
ぼくのこころだって
未だぼくは知らないままだ。
風が「胸を通り過ぎ/背中へと吹き抜けた」というのは、いわば「ことば」でつくってしまった世界で、そういうことがほんとうにあるわけではない。あるわけではないが、「ありうる」。そして、そういうことを「肉体」は知っている。「肉体」はつながっているので、「胸」を通りぬければ、反対側は「背中」ということを「納得」している。
これは「素粒子/宇宙」の世界とは違うね。「頭」で「理解」しているのではなく「肉体」が納得していること。
「肉体」が「肉体自身」で「納得」しているということはたくさんある。
「直接見たことがな」くても、眼球、背中、尻はある。直接見たことがなくても、それを「ある」といってしまうのは、「科学的(論理的)」かどうかはわからないが、そんなことは肉体には問題ではない。肉体が「納得」すれば、それが「肉体的事実」になる。「肉体」にとっての「事実」になる。「肉体」は、そういう「事実」をたくさん抱え込んでいる。
「直接見たことがない」といえば、「こころ」というものも見たことはない。それがほんとうに存在するのかどうか「ぼく(西川)」は「知らない」。「知らない」けれど、「ある」ということで「納得」している。この「納得」というのは「矛盾」だけれど。
その「こころ」というのは、もしかすると「指」の別の名前かもしれないし、「脚」「胸」「背中」「尻」の別称かもしれない--と書いてしまうと、それは西川の考えではなく、私の考えになってしまうのだけれど……。
ぼくのこころだって
この「だって」のなかに、「などと思っていた」の「など」、「……にでも……と思った」の「でも」がある。「など」「でも」は余分をひきつれてきて「対象(主題)」をあいまいにするようだけれど、あいまいのなかでひとつだけ「名称」を与えられて明確になるとも言うことができる。
「こころだって」の「だって」は、対象を明確にする方の力が強い。
「脚」と「素粒子/宇宙」の部分は、私には納得できないけれど、ほかのことばはおもしろいなあ。ことばと肉体の関係をいろいろに考えることができる。
*
谷川俊太郎の『こころ』を読む | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
作品社 |
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。