金井雄二「右手を高く」、岡島弘子「ときの達人」(「交野が原」79、2015年09月01日発行)
金井雄二「右手を高く」は駅のコンコースの通路の真ん中で何かを飲んでいる年配の女性を書いている。人目を気にする様子はない。で、
という感想が、ことばになって出てくる。「この空間はあなたのものです/公共のものではなくなりました」は「言いえて妙」。なるほどなあ。
情景が見えるね。何かを飲んでいるひとの姿が見えるね。
で、金井のことばは正確だなあ、と思うのだが……。
思いながらも、ちょっとひっかかる。「この空間はあなたのものです/公共のものではなくなりました」。ほんとうかなあ。
書き出しにもどる。
金井はしっかり見ている。私は「おばさんが真剣に何かを飲んでいる」くらいのことばでしか描写しないところを「顔を上に向け/その唇の上に/缶の口があわさっている」と具体的に書いている。その三行のなかに「上」ということばが二回出てくる。「唇」と「口」というのも同じものだ。それも二回出てくる。ことばが重なり合っている。重なり合っているのが当然という具合に密集している。「集中している」と言い換えてもいいかもしれない。
うーん。
この瞬間、私はこんなふうに言い直してみたい。
私が何を感じたかというと……。
金井の書いていることは「わかる」。具体的で正確。でも、私はおばさんが何かを飲んでいるのを「顔を上に向け/その唇の上に/缶の口があわさっている」というようなリアルな形で表現したくないなあ、ということ。そんなことをしてしまったら、おばさんの「肉体」と私の「肉体」が重なってしまう。私が「おばさん」になってしまう。
いやだよ。
だから、「あ、あのおばさん、ひとに見られていることも知らずに、最後の一滴まで飲んでいる」くらいでやめておく。「唇」とか「口」とか、具体的には書かないなあ。書かないことで、自分の「肉体」から切り離して、冷淡に見てしまう。
でも、金井は「顔」だけではなく、その「顔」をさらに「細分化(?/「分節化」と書くとはやりの表現になる)」して、「唇」「口」と書き、そこに金井自身の「肉体」を融合させていく。
だからね、「この空間はあなたのものです/公共のものではなくなりました」とことばは動いているけれど、どうしても「おばさん」だけではなく「金井」が見えてしまう。「あなた」は「金井」に見えてしまう。
「持っているものは/あなたのものです/わたしのものではありません」は「おばさん」になってしまった自分(金井)を「おばさん」から引き離すための強引な「論理」だね。「おばさん」から自分を引き離し、必死になって「客観化」を装う。それが最後の二連だね。
こういう「論理」の入り乱れ、主客の混乱を読むのは楽しいなあ。「入り乱れ」「混乱」というのは、まあ、否定的なことばなのだけれど、その否定的な部分に何か人間を結びつける「あいまい」なものが動いていて、その動きがおもしろい。
このとき、金井は、すこし何かをのみたいと思っていたのかもしれないなあ。「肉体」が乾いていたために、「おばさん」の「肉体」になってしまったのかもしない。「おばさん」の「肉体」になりながら、その「自画像」をなんとかして「他人の肖像」にしようとしている。その、不思議な感じがある。
*
岡島弘子「ときの達人」の一連目。
岡島は、金井が「おばさんの肉体」になったように、「ハンカチの肉体」になっている。「ハンカチの肉体」には「去年の(あの)夏」がそのまま「時間」として動いている。ハンカチが「一瞬/人生最大のステージになったかのよう」、あるいは「あの」去年の夏が「一瞬/人生最大のステージになったかのよう」。
「あの」ということばは「夏」を客観化すると同時に、いまここにないものを「いま/ここ」に引き寄せる。逆に「いま/ここ」を「あの時間」につれてゆく。
金井雄二「右手を高く」は駅のコンコースの通路の真ん中で何かを飲んでいる年配の女性を書いている。人目を気にする様子はない。で、
この空間はあなたのものです
公共のものではなくなりました
持っているものは
あなたのものです
わたしのものではありません
という感想が、ことばになって出てくる。「この空間はあなたのものです/公共のものではなくなりました」は「言いえて妙」。なるほどなあ。
ざわめいていた場所が
一瞬
人生最大のステージになったかのようで
さあ
右手を高く
ボトル缶が
真っ逆さまになるように
情景が見えるね。何かを飲んでいるひとの姿が見えるね。
で、金井のことばは正確だなあ、と思うのだが……。
思いながらも、ちょっとひっかかる。「この空間はあなたのものです/公共のものではなくなりました」。ほんとうかなあ。
書き出しにもどる。
ボトル缶が
真っ逆さまになるように
顔を上に向け
その唇の上に
缶の口があわさっている
金井はしっかり見ている。私は「おばさんが真剣に何かを飲んでいる」くらいのことばでしか描写しないところを「顔を上に向け/その唇の上に/缶の口があわさっている」と具体的に書いている。その三行のなかに「上」ということばが二回出てくる。「唇」と「口」というのも同じものだ。それも二回出てくる。ことばが重なり合っている。重なり合っているのが当然という具合に密集している。「集中している」と言い換えてもいいかもしれない。
うーん。
この瞬間、私はこんなふうに言い直してみたい。
これらのことばはあなた(金井)のものです
公共のものではなくなりました
私が何を感じたかというと……。
金井の書いていることは「わかる」。具体的で正確。でも、私はおばさんが何かを飲んでいるのを「顔を上に向け/その唇の上に/缶の口があわさっている」というようなリアルな形で表現したくないなあ、ということ。そんなことをしてしまったら、おばさんの「肉体」と私の「肉体」が重なってしまう。私が「おばさん」になってしまう。
いやだよ。
だから、「あ、あのおばさん、ひとに見られていることも知らずに、最後の一滴まで飲んでいる」くらいでやめておく。「唇」とか「口」とか、具体的には書かないなあ。書かないことで、自分の「肉体」から切り離して、冷淡に見てしまう。
でも、金井は「顔」だけではなく、その「顔」をさらに「細分化(?/「分節化」と書くとはやりの表現になる)」して、「唇」「口」と書き、そこに金井自身の「肉体」を融合させていく。
だからね、「この空間はあなたのものです/公共のものではなくなりました」とことばは動いているけれど、どうしても「おばさん」だけではなく「金井」が見えてしまう。「あなた」は「金井」に見えてしまう。
「持っているものは/あなたのものです/わたしのものではありません」は「おばさん」になってしまった自分(金井)を「おばさん」から引き離すための強引な「論理」だね。「おばさん」から自分を引き離し、必死になって「客観化」を装う。それが最後の二連だね。
こういう「論理」の入り乱れ、主客の混乱を読むのは楽しいなあ。「入り乱れ」「混乱」というのは、まあ、否定的なことばなのだけれど、その否定的な部分に何か人間を結びつける「あいまい」なものが動いていて、その動きがおもしろい。
このとき、金井は、すこし何かをのみたいと思っていたのかもしれないなあ。「肉体」が乾いていたために、「おばさん」の「肉体」になってしまったのかもしない。「おばさん」の「肉体」になりながら、その「自画像」をなんとかして「他人の肖像」にしようとしている。その、不思議な感じがある。
*
岡島弘子「ときの達人」の一連目。
折りたたんだハンカチがでてきた
着がえた夏服のポケットから
去年の汗と涙をたっぷり吸い込んだ
あの 夏がでてきた
岡島は、金井が「おばさんの肉体」になったように、「ハンカチの肉体」になっている。「ハンカチの肉体」には「去年の(あの)夏」がそのまま「時間」として動いている。ハンカチが「一瞬/人生最大のステージになったかのよう」、あるいは「あの」去年の夏が「一瞬/人生最大のステージになったかのよう」。
「あの」ということばは「夏」を客観化すると同時に、いまここにないものを「いま/ここ」に引き寄せる。逆に「いま/ここ」を「あの時間」につれてゆく。
朝起きてぼくは | |
金井雄二 | |
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