詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

若尾儀武『流れもせんで、在るだけのかわ』再読

2015-08-13 09:48:54 | 詩集
若尾儀武『流れもせんで、在るだけのかわ』再読(ふらんす堂、2014年06月25日発行)

 若尾儀武『流れもせんで、在るだけのかわ』は2014年に発行されている。そのとき感想を書いたが、もう一度感想を書きたいと思った。ここに書かれていることは、若尾が少年期に体験したことである。在日韓国人(あるいは北朝鮮人)が描かれている。
 「車窓のきみに」は日本で先生をしている人を描いているのだろうか。そのなかほど。

先生 先生の読み方ちょっと変
どこがと聞かなくても分かっていた
祖父母 父母
そしてきみへと
海峡を隔って
半島は谺する

車窓のきみよ
変であろうがなかろうが
直さなくてもいいものは
直さなくていいのだ
きみは半島を美しく谺して
きみが立つところ
そこをこそ読め

 日本人とは違った読み方(発音、アクセント)になるところがあるのだろう。それを気にかけて「きみ(先生)」は何度も教科書を読む練習をしている。それに対して若尾は、その違いを「直さなくていい」と言っている。
 読み方の変なところには、祖父母、祖母とつながっている。そして、それは「半島」とつながっている。それは「きみ」の「私」の部分だ。
 教科書を読むとき、そこに「私」は入ってこない。教科書には「私」は書かれていない。だれにでも共通すること(もの)が、だれにでも共有できることばで書かれている。そこには「共有」が書かれている。「共有」だからこそ、そこに「私」が紛れ込むと、違和感が生まれる、ということかもしれない。
 しかし私たちは、何かをいきなり「共有」できるものではないだろうし、「共有」することで「安心」してもいけないのだと思う。「共有」からはじめてはいけないのだと思う。
 「共有」しているもの捨てて、「私」に帰って、そこからもう一度「共」の方へどんなふうに歩いて行けるかを考えないといけない。
 抽象的になってしまった。
 いま、安倍政権が「戦争法案」を成立させようとしている。戦争のできる国にし、戦争をしようと準備している。なぜか。若尾が書いている在日韓国人からすこしずれてしまうが、中国の覇権主義、北朝鮮の独裁政権が危険だ、その危険から日本を守る必要がある、というのが安倍の主張である。ほんとうに、そうなのか。
 日本には在日韓国人(北朝鮮人)がたくさんいる。中国の旅行者も非常に多い。同胞が日常に暮らしている国(日本)を中国や北朝鮮が攻撃してくるということはありうるのか。何のメリットがあるのだろう。攻撃する前に、どうやって同胞を自分たちの国へ引き返させるのか。そのひとたちが中国や北朝鮮へ帰るとき、何を利用するのだろう。
 戦争に巻き込まれた日本人をアメリカの空母で避難させるとき、日本は何もしなくていいのか、と安倍は言ったが、逆に考えるとどうなるだろう。戦争に巻き込まれた中国人、北朝鮮人(同胞の韓国人)を、まさかロシアやよその国の空母が避難させるということはないだろう。そんなばかなことをする前に、自分の国の国民を避難させるので手いっぱいだろう。だいたい空母に民間人を乗せたりしないだろう。
 また、脱線してしまった。
 「戦争」というような大きな「共」からはじめるのではなく、実際に、人と人が向き合い、殺すことで生き残るという「個」から考えるべきなのだ。私は人を殺すことができるか。殺されたくはないが、人を殺すというのは簡単にはできそうにない。だいたい中国人なり北朝鮮人なりの「個人」を殺したからといって、戦争が終わるわけではないだろう。ほんとうに向き合わなければならないのは「国」という制度、「国」が何をしようとしているか、ということだろう。「国(権力)」の暴力から自分自身を切り離すこと、どこにも属さない「個」、「私」になって何ができるかを考える必要がある。
 「国」から「私」を引き離す--とはいっても、これは難しいね。「個人」は「国」に組み込まれてしまっている。
 たとえば、この詩集に書かれている「在日韓国人」。彼らが「私」に帰ったとき、そこで見出すのは「日本人」ではなく「韓国人」であり、また「韓国(朝鮮半島)」という土地だろう。「私」は「私」を超えて、何か大きなものとつながってしまう。そのつながりを「自覚」しながら、なおかつ「私」になろうとするとき、たぶん人間と人間の「連携」が生まれる。そして、それこそが「戦争」を防ぐ唯一のものであると思う。
 また抽象的になってしまったが、この詩集には、「私」という小さなものを出発点として人間関係を生きようとする力がある。それは必ずしも実を結んでいるとは言えない。(若尾は少年期の交友関係をそのまま持続、発展させているわけではなく、思い出としてもっているにすぎない--ように、見える。誤読かもしれないが。)
 「私」という「個」にもどればもどるだけ、その「私」にたとえば「半島」が結びついていることがわかる。学校で遊んでいるときは、友人が(あるいは先生が)、「半島」の出身であることは「共」のなかに隠れてしまうが、家に戻る(その地区に戻る)と、「私」の集団が、集団として「半島」を浮かび上がらせてしまう。
 でも、その「共」のなかの、実際の暮らしに密着すると、また「私」というものはどこにあっても同じ「暮らし(いのち)」なのだということもわかる。
 以前書いたことがあるが「在るだけの川」には板敷きの橋の隙間から落ちてしまった十円玉のことが書かれている。百円のけたで考える人間がいる一方、十円のけたで暮らしを考える人間がいる。それは、この詩では「在日韓国人」と「日本人」の暮らしの違いのように書かれているが、そういう「違い」は日本人と日本人のあいだでも起きている。「私」の必死の暮らしは、世界中で共通である。十円のけたで考えることが「私」に帰ることなのだ。

 また、脱線してしまった。ずれてしまった。
 書こうとしていることが、ことばにならない。

 若尾の詩を読むと、「私(少年)」が別の「私」と出合い、そこで静かな関係をつくろうとしている願い(祈り)のようなものが感じられる。他人のなかにある「私(個)」と出合い、その「個」が「私(若尾)」の知らない大きなものとつながっているのを感じながらも、なんとか「私」と「私」であることはできないものか、「より小さいものと」として生きることはできないものか、と考えていることがわかる。
 若尾の書いていることばの、どこかに、きっと「私」を生かせる方法がある。変であってもいい。直さなくてもいい。「きみが立つところ/そこをこそ読め」。たぶん、そのことばの奥に。


詩集 流れもせんで、在るだけの川
若尾 儀武
ふらんす堂
コメント
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