岩堀純子『水の旋律』(編集工房ノア、2015年07月07日発行)
岩堀純子『水の旋律』は三部に分かれている。三冊の詩集が一冊にまとめられているという感じだ。そのうちの第一部、表題作の「水の旋律」。
「なめらかな」が「くせもの」というか、おもしろい。修飾語(?)を取り去って、「貝の内面で存在を増す水」と考えると、貝が水(海)を思い出し、恋しがっていることがわかる。海を恋しがる貝に岩堀は自分を託している。つまり、このとき貝は岩堀であり、岩堀が貝である。海を恋しく思う気持ちが、内部で高まってくる。それを「存在を増す水」と言っているのだが……。
なぜ「白い」と「なめらかな」ということばをつかったのか。貝の内側は、外側に比べると「白い(銀色?)」。また「なめらか」である。それは眼に見える姿であり、そのさらに内面にある「気持ち」とは無関係である。海を恋しがる気持ちが高まってくるというだけなら「白い」も「なめらかな」もいらないはずである。貝の内側はたしかに白くてなめらかだろうが、岩堀の内側(内面)は貝の内側の「形(姿)」と一体になっているのではなく、「貝の気持ち」と一体になっている。その一体感を強調するなら、「白い」と「なめらか」はむしろ邪魔かもしれない。思考を余分なところへ引っ張るから--というのは「散文の論理」だね。
遠い海が恋しい、その気持ちが募ってくる(増してくる)。そのとき「気持ち」は「海」にある「姿」を与えている。どんな海でもいいのではない。海が恋しいと思うとき、そこには「海の形」がある。その「海の形」を先取りしているのが「なめらか」なのである。「なめらかな/海」を一行目は呼び寄せるのである。
この数行には一行目の「なめらかな/なめらかに」が見えない形で含まれている。書き直してみよう。
こんなふうに書いてしまうとうるさくなるが、「なめらかな/なめらかに」という形容動詞がことばを、奥深くでつないでいることがわかる。「なめらかな」という形容動詞を中心に詩が動いていることがわかる。
さらに後半を読んでみる。括弧内の「なめらかな/なめらかに」は原文にはない。
あまりにうるさくなるので「白い」(あるいは銀色の)ということばは補わなかったが、それもさまざまなところに補うことができる。たとえば「水滴は」という一行は「白く(銀色に)輝く水滴は」ということになる。
で、何が言いたいかというと……。
岩堀のことばは何気なく書かれているようで、その奥にはことばの無意識の連携があるということ。ことばを無意識に制御している力がある。それが岩堀の、一見平凡なことば、よくみかける「抒情的」なことばを厳しく統一し、その力で「甘さ」を排除している。そのために、とても清潔に見える。「乱れがない」を通り越して、美しさを直接感じさせる。
この詩は、貝が遠い海の水を恋しく思うから始まり、思い起こされた水が貝の気持ちとなって深い静寂の音楽を奏でるという形で完結するのだが、その変化も、むりやりというのではなく「なめらかな」主客の入れ代わりである。
表面的には激しいことばが動いていないので、「現代詩」っぽくないのだが、そのことばを貫いている知性は強い。この強さを、「現代詩」は学ばないといけない。
岩堀純子『水の旋律』は三部に分かれている。三冊の詩集が一冊にまとめられているという感じだ。そのうちの第一部、表題作の「水の旋律」。
白い貝のなめらかな内面で
存在を増す
水
「なめらかな」が「くせもの」というか、おもしろい。修飾語(?)を取り去って、「貝の内面で存在を増す水」と考えると、貝が水(海)を思い出し、恋しがっていることがわかる。海を恋しがる貝に岩堀は自分を託している。つまり、このとき貝は岩堀であり、岩堀が貝である。海を恋しく思う気持ちが、内部で高まってくる。それを「存在を増す水」と言っているのだが……。
なぜ「白い」と「なめらかな」ということばをつかったのか。貝の内側は、外側に比べると「白い(銀色?)」。また「なめらか」である。それは眼に見える姿であり、そのさらに内面にある「気持ち」とは無関係である。海を恋しがる気持ちが高まってくるというだけなら「白い」も「なめらかな」もいらないはずである。貝の内側はたしかに白くてなめらかだろうが、岩堀の内側(内面)は貝の内側の「形(姿)」と一体になっているのではなく、「貝の気持ち」と一体になっている。その一体感を強調するなら、「白い」と「なめらか」はむしろ邪魔かもしれない。思考を余分なところへ引っ張るから--というのは「散文の論理」だね。
遠い海が恋しい、その気持ちが募ってくる(増してくる)。そのとき「気持ち」は「海」にある「姿」を与えている。どんな海でもいいのではない。海が恋しいと思うとき、そこには「海の形」がある。その「海の形」を先取りしているのが「なめらか」なのである。「なめらかな/海」を一行目は呼び寄せるのである。
遠い海からの微風に
澄みきった
水滴が揺れる
それらは
あちらこちらの
曲面から
辷り寄っては
ひとつになり
この数行には一行目の「なめらかな/なめらかに」が見えない形で含まれている。書き直してみよう。
遠い「なめらかな」海からの「なめらかな」微風に
「なめらかに」澄みきった
水滴が「なめらかに」揺れる
それらは
あちらこちらの
「なめらかな」曲面から
「なめらかな」辷り寄っては
「なめらかに」ひとつになり
こんなふうに書いてしまうとうるさくなるが、「なめらかな/なめらかに」という形容動詞がことばを、奥深くでつないでいることがわかる。「なめらかな」という形容動詞を中心に詩が動いていることがわかる。
さらに後半を読んでみる。括弧内の「なめらかな/なめらかに」は原文にはない。
「なめらかに」ひとつになり
大きく「なめらかに」像(かた)どられ
やがて
泉へ
「なめらかに」ひびきあう
無音の「なめらかな」旋律へ
「なめらかに」浸されてゆく
ときに
淡い光が射しこむと
水滴は
ひとりでに「なめらかに」動き
「なめらかに」融合し
そして 「なめらかに」離れる
「なめらかな」音 「なめらかな」音 「なめらかな」音
深い「なめらかな」静寂のなかで
水は
貝を「なめらかに」奏でる
あまりにうるさくなるので「白い」(あるいは銀色の)ということばは補わなかったが、それもさまざまなところに補うことができる。たとえば「水滴は」という一行は「白く(銀色に)輝く水滴は」ということになる。
で、何が言いたいかというと……。
岩堀のことばは何気なく書かれているようで、その奥にはことばの無意識の連携があるということ。ことばを無意識に制御している力がある。それが岩堀の、一見平凡なことば、よくみかける「抒情的」なことばを厳しく統一し、その力で「甘さ」を排除している。そのために、とても清潔に見える。「乱れがない」を通り越して、美しさを直接感じさせる。
この詩は、貝が遠い海の水を恋しく思うから始まり、思い起こされた水が貝の気持ちとなって深い静寂の音楽を奏でるという形で完結するのだが、その変化も、むりやりというのではなく「なめらかな」主客の入れ代わりである。
表面的には激しいことばが動いていないので、「現代詩」っぽくないのだが、そのことばを貫いている知性は強い。この強さを、「現代詩」は学ばないといけない。
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