陶山エリ「ときどき詩人は」(「現代詩講座」@リードカフェ、2015年08月26日発行)
この詩はどんなふうに受講者に、読まれるだろうか。
という感想のあと、こんな意見が出た。
このことについてみんなで考えてみた。
私が注目したのは三連目。「嫌がる」「怖がる」の「主語」は何だろうか。
「わたし」と「詩」と、ふたつの見方がある。そこで、もう一度「わたし」を主語にしたとき「嫌がる」「怖がる」という動詞をつかうかどか聞いてみた。「わたしは嫌がる」「わたしは怖がる」と日常的につかうかどうか。
全員がつかわないと答えた。
ここには「日常」とは違うことばのつかい方がある。「キロン」も日常的にはつかわなことばであり、そこにも詩はあるが、耳慣れたことばで、「日常」とは違ったつかい方をすることばのなかにこそ詩があると思う。
作者は何かを言おうとして、「日常」を踏み外している。踏み外さざるをえなかった。そこに、そのひとの「言いたいこと」があるように思える。
さらに四連目。「逃げ出したいだろう」「みはりつづけていたいだろう」の主語は何になるだろうか、と聞いてみた。
ここでは「わたし」という「答え」は出て来なかったが、これは、ある意味で「奇妙」でもある。詩は人間ではない。それが何かを「逃げ出したい」とか「みはりつづけていたい」と欲することはない。
私の質問は少しあいまいで、ずるいものを含んでいるのだが、そのために受講者は「だろう」を見落としたかもしれない。
「だろう」は推測のことば。講座では言いそびれたが、ここでもう一度「だろう」の主語は? と聞いたら、どうなるだろう。
「わたし」という「答え」が返って来ると思う。
「主語」は、どうも交錯している。
陶山は書くときに「主語」を明確に意識しているかどうかわからない。意識しているかもしれないが、その意識には「無意識」も反映していて、それが作用して、主語をあいまいにするのかもしれない。
この不思議なぶれに気づいたとき、
という感想が、直感的に生まれてくるのだと思う。「わたし」と「詩」が交錯して動いている。そこに「詩人」と「先生」がさらに加わって、ことばの「意味」(ストーリー)を論理的にたどれない。まごついてしまう。
こういう反応は、とても大事なことだと思う。
この瞬間に、詩は、読者のなかで生まれている。
私は、こういう瞬間に立ち合うのがとても好きである。詩は(文学は)ひとりで味わうものかもしれない。個人的な体験なのかもしれないが、他人と一緒に読んでいると、あ、いま、このひとのなかでことばが動いている。新しい何かをつかもうとして、ことばがとまどっていると「わかる」瞬間がある。
それは書かれてしまった詩よりも、何かとてもおもしろい。ことば以前のことばが動いて、それがまわりにいるひとにも影響していくのがわかる。
詩を、詩が好きなひとが集まって読むのは、とてもおもしろい。
「主語」が「わたし」になったり「詩」になったりする。それは
で、この「わたし」と「詩」の「一体感」から、さらに進んでみよう。
この一連目の最後の三行は、六連目の最終の三行で次のように言い直されている。
「だまされる」は「同化」によって見分けがつかなくなるということにつながるかもしれない。
詩は、厳密に考えすぎると面倒くさくなっておもしろくなくなる。わからないことはわからないままにしておいて、わかることをぱっと結びつけて、わかった気持ちになってしまえばいいのだと思う。
陶山は詩について書いている。それは詩人について書くことでもあり、「わたし(自分自身)」について書くことでもある。書くというのは自分を「客観化」することでもある。そういう「意識」が入り交じってことばが動いている。入り交じっているので、「主語」と「動詞」の関係も「学校文法」のようにはいかない。乱れる。
けれど、その「乱れ」が詩なのだ。その「乱れ」に対して、「あれっ」と思う瞬間、その「思う」が詩と呼応している。響きあっている。
で。
そういうことを踏まえて、私は「飛躍」する。
講座の最後で「わたし」と「小鳥」も同化しているというところに私たちはたどりついたが(それが唯一の「答え」というのではないが……)、これって「小鳥」が「わたし」の比喩ということでもあるね。「閉じたくちびるから声のかけらが漏れてくる」というのは、いわば自画像だね。
で。(と、また「飛躍」する。)
私はときどき意地悪な質問をする。読み進んでいく途中に差し挟んだ質問なので、もしかしたら受講生の多くはおぼえていないかもしれないが……。
「キロン」の理由(?)は答えになっていないけれど、そのあとがおもしろいねえ。エグイ動物(爬虫類とか?)の方がおもしろいかもしれない。けれど、「自画像」なので爬虫類にしてしまうことには抵抗があったんだろうなあ、と私は、ちょっと思った。
書くのは、たしかに怖いね。ことばがどこへ動いていくかわからない。それは詩だけにかぎらず、この文章もそうなのだけれど。
次回は9月30日午後6時からの予定。
ときどき詩人は 陶山エリ
青の表紙のノートの音も沈黙をはじめる
西陽に飲み込まれそうな角部屋で
ときどき詩人は
せんせいと呼ばれることを拒む
詩人はせんせいから遠ざかりたくて
小鳥に詩のかけらでもやろうとするけれど
ときどき小鳥は軽やかに拒む
詩人は疲れを隠し小鳥は表情を変えない
キロン
下の目蓋から目を閉じる小鳥に
詩人は気づいているだろうか
ときどきわたしは詩を書いたりするけれど
詩人と呼ばれると少し嫌がる
閉じたくちびるから声のかけらが漏れてくると
わたしは詩を知ることを怖がる
ほんとうは詩を書いたりしているけれど
とつぜん逃げ出したいだろう
詩人とせんせいとわたしを
旋回しながら
みはりつづけていたいだろう
西陽の終わりに詩人に出くわすことがあればそのときは
はじめましてせんせい
詩人は虚ろな瞳でやり過ごすけれど
理由を問い詰めてはいけない
ときどき詩人は虚ろな瞳のまま
呼ばれた気がしてせんせい
ふりむいてしまうけれど
理由は問い詰めてはいけない
虚ろな瞳ををのぞきこもうとしてわたしは
キロン
ときどきしたのまぶたから目をとじる
この詩はどんなふうに受講者に、読まれるだろうか。
<受講者1>「キロン」がおもしろい。
<受講者2>「キロン」ははじめてみる表記。音がおもしろい。静かできれい。詩人、詩に対して、拒絶する設定。詩を重くとらえることをこばむということなのだ ろうけれど、自然で、わかる。好きな詩。
<受講者3>「はじめましてせんせい」「呼ばれた気がしてせんせい」という行にリズムがある。リズムが出てきている。
という感想のあと、こんな意見が出た。
<受講生4>おもしろい。ただ、「詩人」と「先生」の両方が必要かなあ。
このことについてみんなで考えてみた。
私が注目したのは三連目。「嫌がる」「怖がる」の「主語」は何だろうか。
<受講者3>わたし
<受講者4>詩。わたしと一体になっている。
<受講者1>わたし
<受講者2>詩
「わたし」と「詩」と、ふたつの見方がある。そこで、もう一度「わたし」を主語にしたとき「嫌がる」「怖がる」という動詞をつかうかどか聞いてみた。「わたしは嫌がる」「わたしは怖がる」と日常的につかうかどうか。
全員がつかわないと答えた。
ここには「日常」とは違うことばのつかい方がある。「キロン」も日常的にはつかわなことばであり、そこにも詩はあるが、耳慣れたことばで、「日常」とは違ったつかい方をすることばのなかにこそ詩があると思う。
作者は何かを言おうとして、「日常」を踏み外している。踏み外さざるをえなかった。そこに、そのひとの「言いたいこと」があるように思える。
<受講者2>「嫌がる」「怖がる」と言うと、「客観的」な感じがする。「わたし」を客観的に見ている。
さらに四連目。「逃げ出したいだろう」「みはりつづけていたいだろう」の主語は何になるだろうか、と聞いてみた。
<受講者1>詩
<受講者3>詩
ここでは「わたし」という「答え」は出て来なかったが、これは、ある意味で「奇妙」でもある。詩は人間ではない。それが何かを「逃げ出したい」とか「みはりつづけていたい」と欲することはない。
私の質問は少しあいまいで、ずるいものを含んでいるのだが、そのために受講者は「だろう」を見落としたかもしれない。
「だろう」は推測のことば。講座では言いそびれたが、ここでもう一度「だろう」の主語は? と聞いたら、どうなるだろう。
「わたし」という「答え」が返って来ると思う。
「詩は」逃げだしたいだろう(と「わたしは」思っている、推測している)
「主語」は、どうも交錯している。
陶山は書くときに「主語」を明確に意識しているかどうかわからない。意識しているかもしれないが、その意識には「無意識」も反映していて、それが作用して、主語をあいまいにするのかもしれない。
この不思議なぶれに気づいたとき、
<受講生4>「詩人」と「先生」の両方が必要かなあ。
という感想が、直感的に生まれてくるのだと思う。「わたし」と「詩」が交錯して動いている。そこに「詩人」と「先生」がさらに加わって、ことばの「意味」(ストーリー)を論理的にたどれない。まごついてしまう。
こういう反応は、とても大事なことだと思う。
この瞬間に、詩は、読者のなかで生まれている。
私は、こういう瞬間に立ち合うのがとても好きである。詩は(文学は)ひとりで味わうものかもしれない。個人的な体験なのかもしれないが、他人と一緒に読んでいると、あ、いま、このひとのなかでことばが動いている。新しい何かをつかもうとして、ことばがとまどっていると「わかる」瞬間がある。
それは書かれてしまった詩よりも、何かとてもおもしろい。ことば以前のことばが動いて、それがまわりにいるひとにも影響していくのがわかる。
詩を、詩が好きなひとが集まって読むのは、とてもおもしろい。
「主語」が「わたし」になったり「詩」になったりする。それは
という言い方で、言い直すことができると思う。
<受講者4>詩。わたしと一体になっている。
で、この「わたし」と「詩」の「一体感」から、さらに進んでみよう。
キロン
下の目蓋から目を閉じる小鳥に
詩人は気づいているだろうか
この一連目の最後の三行は、六連目の最終の三行で次のように言い直されている。
虚ろな瞳ををのぞきこもうとしてわたしは
キロン
ときどきしたのまぶたから目をとじる
<質 問>この言い替えはどう思う? 漢字からひらがなへの書き換えもあるけれど、どう思う?
<受講者2>「わたし」が「鳥」に同化している。
<受講者4>表記を変えていく手法のひとつ。読む度にだまされる感じがする。
「だまされる」は「同化」によって見分けがつかなくなるということにつながるかもしれない。
詩は、厳密に考えすぎると面倒くさくなっておもしろくなくなる。わからないことはわからないままにしておいて、わかることをぱっと結びつけて、わかった気持ちになってしまえばいいのだと思う。
陶山は詩について書いている。それは詩人について書くことでもあり、「わたし(自分自身)」について書くことでもある。書くというのは自分を「客観化」することでもある。そういう「意識」が入り交じってことばが動いている。入り交じっているので、「主語」と「動詞」の関係も「学校文法」のようにはいかない。乱れる。
けれど、その「乱れ」が詩なのだ。その「乱れ」に対して、「あれっ」と思う瞬間、その「思う」が詩と呼応している。響きあっている。
で。
そういうことを踏まえて、私は「飛躍」する。
講座の最後で「わたし」と「小鳥」も同化しているというところに私たちはたどりついたが(それが唯一の「答え」というのではないが……)、これって「小鳥」が「わたし」の比喩ということでもあるね。「閉じたくちびるから声のかけらが漏れてくる」というのは、いわば自画像だね。
で。(と、また「飛躍」する。)
私はときどき意地悪な質問をする。読み進んでいく途中に差し挟んだ質問なので、もしかしたら受講生の多くはおぼえていないかもしれないが……。
<質 問>鳥って何? 「キロン」ということばはどこから出てきた?
<陶 山>鳥の目って、キロンとするじゃないですか。小鳥ではなくて、もっとエグイ動物の方がいいかとも思ったけれど……。書きながらどうなるかわからない。 怖いと思って書いている。
「キロン」の理由(?)は答えになっていないけれど、そのあとがおもしろいねえ。エグイ動物(爬虫類とか?)の方がおもしろいかもしれない。けれど、「自画像」なので爬虫類にしてしまうことには抵抗があったんだろうなあ、と私は、ちょっと思った。
書くのは、たしかに怖いね。ことばがどこへ動いていくかわからない。それは詩だけにかぎらず、この文章もそうなのだけれど。
次回は9月30日午後6時からの予定。