詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」

2015-08-08 09:45:14 | その他(音楽、小説etc)
羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」(「文藝春秋」2015年09月号)

 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」は第百五十三回芥川賞受賞作)。その書き出しの一行。

 カーテンと窓枠の間から漏れ入る明かりは白い。( 402ページ、「文藝春秋」)

 「漏れ入る」は「もれいる」か「もれはいる」か。よくわからないが和歌的、新古今的な描写が最近の芥川賞作品ではめずらしく、引き込まれた。
 しかし、

 掛け布団を頭までずり上げた健斗は、暗闇の中で大きなくしゃみをした。今年から、花粉症を発症した。六畳間のドアや通風口も閉めていたのに杉花粉は侵入し、身体に過剰な免疫反応を起こさせている。( 402ページ)

 ここで、私は違和感を感じた。「ずり上げる」という「動詞」が私の肉体としっくりしない。他人(健斗)の肉体の運動なのだから私の肉体としっくりこないのはあたりまえかもしれないが……。そのあとの「侵入し(する)」という動詞や、「身体に過剰な免疫反応を起こさせている。」という文のなかの漢字熟語、「起こさせている」という言い回しにもひっかかった。なぜ健斗を「主語」にしたまま書けないのかな?
 しばらく読み進むと「ロードノイズ」ということばが出てくる( 403ページ)。意味はわかるが、ここでも私はつまずいた。書き出しの新古今のような感覚とロードノイズという表現は異質の次元のものである。さらに「電源をオフにした」が出てくる( 404ページ)。「孝行孫たるポジション」( 408ページ)「フリータイムで入室後」( 409ページ)などの「カタカナ」にも、私は、つまずいた。私の世代と羽田、あるいは主人公の健斗の世代で「言語感覚」が違うだけなのかもしれないが、どうにもなじめない。
 なぜこんな文体なのかなあ、こういう文体でしか書けないことなのかなあと思いながら読み進み、 426ページ、

まっすぐにビルドできていることの快感だ。

 ここにタイトルの「スクラップ・アンド・ビルド」の「ビルド」が出てきて、羽田のやっていることが、やっとわかった。わざと「日本語的(古典的)」な文体とカタカナ語を衝突させているのである。なじまない「文体」を衝突させて、その亀裂から始まる世界を描いている。
 異質なものの衝突は、そのまま「ストーリー」にもなっていく。介護を必要とする肉体(老人)と介護をする肉体(健斗)の対立。精神(感情)関係というよりも「肉体」そのものの出合いと衝突がある。
 異質な肉体(異質な人)の出合いを描くというのが羽田のテーマなのかもしれない。そして、それを明確にするためにわざと異質なことばをつかうのである。奇妙な「文体」をつくるのである。
 「文体」とは「肉体」のことである。「肉体」とは「文体」と同じものなのである。
 とても明瞭な主張である。受賞のことばで、

“世間から求められる言葉を言わなくてもいい自由さ”があることをここで提示したい。

 と羽田は書いている。
 ここに書いている「言葉」を「文体」と言い直せば、羽田がこの小説でやっていることがわかる。いや、これでは、「わかりすぎる」ということになる。「わかりすぎる」は「つまらない」ということでもある。
 別なことばでいいなおすと……。
 「文体」における言語の選択は、筆者の自意識の問題である。羽田がこの小説で書いているのは、健斗の「自意識」であって、他者の意識は描かれていない。「ロードノイズ」というのは「描写」のように見えるが、単なる描写なら「路面の音(路面から聞こえてくる騒音)」でもいいのだが、そういう「日本語」として共有されることばでは「自意識」になりにくい。「自意識」であるまえに、冒頭の「白い」のように「古今的感覚」として日本語に吸収されてしまう。そこから健斗だけの「自意識の風景」を確立するためには「ロードノイズ」という面倒くさいカタカナ語が必要だったのだ。
 この方法論は、とても「わかりやすい」。「わかりやすい」だけに、とても安易でもある。異質なことば(カタカナ語)で「自意識」を浮き彫りにするという方法は、しかし、安易すぎないか。
 主人公は、また自分の肉体を改造(?)しているが、その変化を説明するのに、冒頭の「免疫反応」に類似する「学術用語(専門用語)」をつかっている。特別なことばで、自分だけの「世界」を強調する。安易だなあ。
 この方法が安易であるという証拠(?)として、逆の例をあげれば、それは老人のつかう「九州弁(?)」である。九州弁が老人の「自意識(個性)」である。老人の存在(肉体)そのものである。
 登場人物の書きわけを「ことばの音」だけで表現している。
 いちばん大切な主人公と脇役が、「肉体」ではなく、「ことばの音」で区別される。
 せっかく強靱な若者の肉体と、死んでゆくしかない老人の肉体が出合い、衝突しているのに、肉体のリアルさが描かれず、かわりにそれぞれがどういう「ことば」をつかって自分を語るかということしか表現されていない。
 人間が出会い、出合いをとおして変化していくというのが「小説」だと思うが、そういうものが描かれていない「自意識ごっこ」のように見える。


スクラップ・アンド・ビルド
羽田 圭介
文藝春秋
コメント
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