佐々木安美「泳ぐ人」、坂多瑩子「はやわざ」(「生き事」10、2015年夏発行)
佐々木安美「泳ぐ人」は、ことばが「現実」を侵蝕していく。
「私」という「主語」は書かれていないが、一行目の「聞いている」の主語は「私」だろう。二行目の「思って」の主語も「私」、三行目の「読みかけ」「顔をあげる」の主語も「私」。
しかし、そのあと、四行目の「出て」の主語は、五行目の「男」、五行目の「帰っていく」の主語も「男」、六行目の「立っている」も「男」。
では、七行目は? 「抱えたまま」の主語は?
「男」なんだろうなあ。次の行の「本からはみだしてきた」の主語は「男」なのだから、その「男」が「暗い気分を抱えたまま」ということになるのか。
八行目は、どうなるだろう。
あ、ここには「動詞」がない。「流れる」の主語は「川」、「流れる」は「川」を修飾しているのだが……。
で、ここで私は、つまずく。言い換えると、あ、詩がはじまったと思う。
その「川」を認識しているのは誰だろう。
「男」は「川」に気づいているだろうか。
「川(川音)」に最初に気づいたのは、一行目の書かれていない主語「私」。その書かれていない「私」がここで「男」に重なっている。
でも、これが最初の「重なり」かなあ。
もしかすると四行目の「女のアパートを出て」から重なっているのかもしれない。本のなかの男が女のアパートを出て妻のところへ帰っていくのか、書かれていない「私」が女のアパートを出て妻のところへ帰っていくのか。それが「私」だとすれば、「私」は本のなかの男から見つめられていることになる。本のなかから出てきた男は反対側のホームに立って、「女のアパートから出てきて、これから妻のところへ帰るんだな」という目で「私」を見ている。「暗い気分」は、書かれていない「私」の気分でもある。
その「暗い気分」が「川の音」である。
「川」近くにあるのではなく、「男の中を流れている」のだから。あ、これは「近くにあるのではなく」、逆に「近くに(内部に)ある」ために、「近すぎて」そのひとにしか感じ取れないものなのかもしれない。他人には聞こえない、自分にしか聞こえない「川の音」。
そうすると、ますます書かれていない「私」と「男」があいまいになる。その「あいまい」さのなかで、ことばが暴走していく。乱れていく。
これは現実? 本のなかに起きていたこと?
「そんなことを思い出しながら」の主語はだれ? 書かれていない「私」でも「男」でもなくて、その次の「男の中を流れる川」の「川」が主語かもしれない。
「川」が主語?
「川」が「思い出す」ということは、あるだろうか。「川」を何かの「暗喩」、誰かの「象徴」と思えば、「川」が「思い出す」という文は成立する。
では、「誰」の、あるいは「何」の暗喩?
「暗い気分」かなあ。
こういうことは、「答え」を出す必要がないのだと思う。
あれかなあ、これかなあ、と思いめぐらすとき、そのすべては「間違い」なのだろうけれど、この「間違い」をうろうろとさまよっているとき、何となく書かれていない「正解」にどこかで触れている感じがする。
他人のことなど「わかる」はずがないのだけれど、「わかる」と感じる。
誰かが道に倒れて腹を抱えてうめいている。そのひとの腹痛がわかるわけではないのに、「あ、たいへんだ、腹が痛くてうめいている」と「わかる」のに似ている。
こういう「錯覚」(自己と他者の混同/私と筆者の混同/筆者になって自分を忘れる瞬間)を私は詩の始まりと感じている。
どきどき、わくわくする。
補足。
「川」の暗喩の「正解」は、そこに書かれている「川」そのもの。言い換えは不能。「川」でしかないからこそ佐々木は「川」と書いている。これを私が言い換えれば、その言い換えのすべては「間違い」。しかし、そういう「間違い」をしないことには、私はこの詩を読むことができない。
*
坂多瑩子「はやわざ」は鉄道への投身自殺を描いている。
最後の「ヒトがとびこんだ」が一般的な「認識」の表現なのだが、そういう「表現」にあわせて私たちは見たものをととのえているだけで、そういう「整い方」ができあがるまえには奇妙な何かがある。「電車がとびこんで/駅がとびこんで」という、「とびこむ」の主語になりえないものが「主語」であることを主張する。
その「錯乱」のなかに、詩がある。ことばになるまえの、ことばがある。
「日常」をわたしたちは、ことばでととのえているが、そのととのえ方は一種の「定型」である。「定型」にしたがうと、面倒なものを見なくてすむ。そして何かを見落とす。その見落としたものを、坂多はひろいあげて、揺さぶって、立たせている。
最初の書き出しは、最後に言い直されている。
ヒトがほんとうに飛び込んだのか、蹴った石が「ヒト」のように見えたのか。どちらでもいい。(わけではないかもしれないが……)。
「わかる」のは「錯乱」が「えっと思うか思わないか」という瞬間的なものであるということ。「瞬間」なのに、その「瞬間」が「永遠」のように、大きなものとして存在する。この矛盾が、きっと詩なのだ。
佐々木安美「泳ぐ人」は、ことばが「現実」を侵蝕していく。
気がつくと川音を聞いている
そう思って 駅のホームで
読みかけの文庫本から顔をあげると
女のアパートを出て
妻の待つ家に帰っていく男が
反対側のホームに立っている
暗い気分を抱えたまま
本からはみだしてきたのか
男の中を流れる川
「私」という「主語」は書かれていないが、一行目の「聞いている」の主語は「私」だろう。二行目の「思って」の主語も「私」、三行目の「読みかけ」「顔をあげる」の主語も「私」。
しかし、そのあと、四行目の「出て」の主語は、五行目の「男」、五行目の「帰っていく」の主語も「男」、六行目の「立っている」も「男」。
では、七行目は? 「抱えたまま」の主語は?
「男」なんだろうなあ。次の行の「本からはみだしてきた」の主語は「男」なのだから、その「男」が「暗い気分を抱えたまま」ということになるのか。
八行目は、どうなるだろう。
男の中を流れる川
あ、ここには「動詞」がない。「流れる」の主語は「川」、「流れる」は「川」を修飾しているのだが……。
で、ここで私は、つまずく。言い換えると、あ、詩がはじまったと思う。
その「川」を認識しているのは誰だろう。
「男」は「川」に気づいているだろうか。
「川(川音)」に最初に気づいたのは、一行目の書かれていない主語「私」。その書かれていない「私」がここで「男」に重なっている。
でも、これが最初の「重なり」かなあ。
もしかすると四行目の「女のアパートを出て」から重なっているのかもしれない。本のなかの男が女のアパートを出て妻のところへ帰っていくのか、書かれていない「私」が女のアパートを出て妻のところへ帰っていくのか。それが「私」だとすれば、「私」は本のなかの男から見つめられていることになる。本のなかから出てきた男は反対側のホームに立って、「女のアパートから出てきて、これから妻のところへ帰るんだな」という目で「私」を見ている。「暗い気分」は、書かれていない「私」の気分でもある。
その「暗い気分」が「川の音」である。
「川」近くにあるのではなく、「男の中を流れている」のだから。あ、これは「近くにあるのではなく」、逆に「近くに(内部に)ある」ために、「近すぎて」そのひとにしか感じ取れないものなのかもしれない。他人には聞こえない、自分にしか聞こえない「川の音」。
そうすると、ますます書かれていない「私」と「男」があいまいになる。その「あいまい」さのなかで、ことばが暴走していく。乱れていく。
その川音なのか 重い足取りで
アパートの外階段を降りていくときに
包丁の刃が脳裏に浮かぶ
そんなことを思い出しながら
男の中を流れる川
これは現実? 本のなかに起きていたこと?
「そんなことを思い出しながら」の主語はだれ? 書かれていない「私」でも「男」でもなくて、その次の「男の中を流れる川」の「川」が主語かもしれない。
「川」が主語?
「川」が「思い出す」ということは、あるだろうか。「川」を何かの「暗喩」、誰かの「象徴」と思えば、「川」が「思い出す」という文は成立する。
では、「誰」の、あるいは「何」の暗喩?
「暗い気分」かなあ。
こういうことは、「答え」を出す必要がないのだと思う。
あれかなあ、これかなあ、と思いめぐらすとき、そのすべては「間違い」なのだろうけれど、この「間違い」をうろうろとさまよっているとき、何となく書かれていない「正解」にどこかで触れている感じがする。
他人のことなど「わかる」はずがないのだけれど、「わかる」と感じる。
誰かが道に倒れて腹を抱えてうめいている。そのひとの腹痛がわかるわけではないのに、「あ、たいへんだ、腹が痛くてうめいている」と「わかる」のに似ている。
こういう「錯覚」(自己と他者の混同/私と筆者の混同/筆者になって自分を忘れる瞬間)を私は詩の始まりと感じている。
どきどき、わくわくする。
補足。
「川」の暗喩の「正解」は、そこに書かれている「川」そのもの。言い換えは不能。「川」でしかないからこそ佐々木は「川」と書いている。これを私が言い換えれば、その言い換えのすべては「間違い」。しかし、そういう「間違い」をしないことには、私はこの詩を読むことができない。
*
坂多瑩子「はやわざ」は鉄道への投身自殺を描いている。
蹴飛ばした石が
なにかにふありとしたものの中にとびこんだ
電車がとびこんで
駅がとびこんで
ヒトがとびこんだ
最後の「ヒトがとびこんだ」が一般的な「認識」の表現なのだが、そういう「表現」にあわせて私たちは見たものをととのえているだけで、そういう「整い方」ができあがるまえには奇妙な何かがある。「電車がとびこんで/駅がとびこんで」という、「とびこむ」の主語になりえないものが「主語」であることを主張する。
その「錯乱」のなかに、詩がある。ことばになるまえの、ことばがある。
「日常」をわたしたちは、ことばでととのえているが、そのととのえ方は一種の「定型」である。「定型」にしたがうと、面倒なものを見なくてすむ。そして何かを見落とす。その見落としたものを、坂多はひろいあげて、揺さぶって、立たせている。
最初の書き出しは、最後に言い直されている。
朝
駅はちゃんとあった
電車もちゃんときた
とびこんだヒトの確認はできないけど
ヒトもいっぱいいた
駅と電車の色が少し薄くなっていた
あとは何もかわっていなかった
なにしろ
あまりのはやわざで
えっと思うか思わないか
だった
ヒトがほんとうに飛び込んだのか、蹴った石が「ヒト」のように見えたのか。どちらでもいい。(わけではないかもしれないが……)。
「わかる」のは「錯乱」が「えっと思うか思わないか」という瞬間的なものであるということ。「瞬間」なのに、その「瞬間」が「永遠」のように、大きなものとして存在する。この矛盾が、きっと詩なのだ。
ジャム 煮えよ | |
坂多 瑩子 | |
港の人 |