詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

星隆雄『オブジェクト』

2015-08-20 10:21:41 | 詩集
星隆雄『オブジェクト』(思潮社、2015年07月25日発行)

 星隆雄『オブジェクト』には魅力的な詩行がいくつも出てくる。

目のない絵の代わりに目を開けると「ワタシたちはがらんとしていた
揺れている偶像の横顔は「顔の一致しないわたしたち自身によって生きられる
                                (「千年」)

 ことばの動きの中に矛盾のようなものがあり(「目のない絵の代わりに目を開ける」)、それが一種の「論理」を強要する。「論理」をなんとしてもつくりだそうとして動く。「飛躍」を「論理」にかえてしまう。

揺れている偶像の横顔は「顔の一致しないわたしたち自身によって生きられる

 この行の途中にある(そして前の行にもある)、中途半端なカギカッコ。ふいに挿入される「他者」の「肉体」という感じである。「他者」が強引に「論理」を奪っていく。前半が「事実」、後半が「意見」とするなら、「事実」にとって「意見」とは「他者(異質なもの/事実そのものではない何か)」である。「生きられる」という「動詞」の強さが、そのふたつをひとつにする強引な「論理」を引き受けている。

様々な垂線と交わる高さを残して、夕暮れの現象を指さした風が帰って行く。
出来事や予感は、喪失の空間を組み立てようとした。
                                (「待避」)

 ここでは、まず「残して(残す)」という動詞が強い。「残す」と「行く」は矛盾であり、そこから「喪失」ということばが引き出される。「残されたもの」の感じる「喪失」。それは、ことばの順序が逆になるが「出来事や予感」を言い直したものである。そして、それは「組み立てる」という動詞のなかで一体になる。
 こういう「論理」の交錯(倒錯?)を読むと、抒情は「論理」であると思わざるを得ない。
 感情のままに動いていくものは、音楽で言えば「長調」であり、そこには「抒情」はない。感情を「論理」で洗い、「短調」の響きに乗せるとき抒情が生まれる。
 こういう言い方は「直観の意見」であり、いいかげんなものなのだが……。
 星のことばは、そういう強引な「論理」の操作をことばに強いている。いや、ことばが、かってにそういうととのえ方を好んでいるのかもしれないが。

波のかたちにおいて、固守しようとはしない、死に至った後もはるばると来る
かたちのように、この系統においては、これは静かな低い声の時間になる、
                              (「メソッド」)

 この二行は、波のように区切りがどこにあるのか判断するのはむずかしいが、その難しさがそのまま波になっていると思うと、楽しい。
 最後の「時間になる」の「なる」が、私の「直観の意見」では「論理の飛躍」である。何が「時間になる」のか。「波の形」か。「文法」的にはそうかもしれないが、「波の形」が「時間になる」ということは、何か無理がある。「形」と「時間」は別のものであるから、それが「なる」という動詞のなかで整合性をもって結びつくことはない。
 この「なる」は「する」である。ここには書かれていないが「私(筆者/星)」が「波の形」を「時間」に「する」のである。認識のあり方(形)を変えるのである。強引に「する」から「なる」のである。しかし、もちろん「波の形」は「時間」に「なる」ことはできない。強引な、「する」という暴力が、どうしてもそこに残る。
 この作者の暴力こそ、詩である。
 それまでのことばのつながり(連続)を切断し、別なものに強引に接続する。その暴力が詩である。
 ただ、こういう暴力を持続するのは難しい。星の作品でも、それが持続されているとは感じられない。
 「千年」の「ワタシ」と「わたし」の表記の不一致は、星に言わせれば明確な意図のもとにおこなわれた「書き換え」なのかもしないが、こういう「手法」は「論理」の飛躍(強引さ)を弱めてしまう。ことばは「動詞」を中心に動くのであって、「表記」を中心に動くのではない。「動詞」のなかで、複数の「主語」が融合し、あたらしい「主語」を生み出していくとき、詩が動く。
 「波の形」が「時間」に「なる」のか、「波の形」を「時間」に「する」のか。「波(の形)」と書かれていない「私(星)」が融合し、そこから何かを生み出す。はやりのことばで言い直せば「分節する」。そういう動き(動詞)が、詩なのである。
 そういう力(エネルギー)を「表記」のような部分で分散しては運動が弱くなってしまう、と私は思う。
 また、先に引用した部分と、他の行では「リズム」が違いすぎていて、私には、それも詩の誕生をどこかで阻害しているように感じられる。「動詞」というのは「動き」である。「動き」は様々なリズムによって活気づくこともあるかもしれないが、「リズム」の持続が何かを育てる(生み出す)ということもある。「リズム」の変化で目先を変えるよりも、持続することで違うものになってしまう方がおもしろいと思う。


オブジェクト
星隆雄
思潮社
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