鈴木芳子『嘘のように』(花神社、2015年06月05日発行)
鈴木芳子『嘘のように』に母を介護したときのことが書かれている。湯の抜かれた浴槽にムカデがいる。それを水で押し流す。その翌朝、
事実をそのまま書いているのだと思う。思うのだけれど、私は同時に、そこに「詩」を書こうとする「姿勢」を感じる。それが、いやらしい。
鈴木の書こうとしている「詩」というのは「比喩」といえばいいのか、何と言えばいいのか……「現実」ではないからである。
「事実」なのに「現実」ではない。
というのは、とんでもない矛盾だけれど……。
ムカデを追いながら、介護してきた母の姿を思い出す。母と自分の姿を思い出す、というのは「事実」である。思い出すというのも「事実」だろう。でもその思い出を「格闘の場面」と言い直すとき、そこには「現実」はない。「格闘の場面」という「現実」から切り離された「意味」があるだけだ。具体的な肉体のぶつかりあいがなく、辞書の定義があるだけだ。
この「格闘の場面」を「格闘の場面」ということばではなく、格闘した「肉体」そのものとして書かないとほんとうの詩(文学)にはならない。「格闘の場面」という「定型の表現」を「比喩(意味)」としてひいてきてしまうと、そこから「現実」が抜け落ちてきてしまう。単なる「ことば(意味)」だけが残る。
「格闘の場面」のような、簡潔な表現、「定型」化した表現で「事実」を共有することが「詩」である。そういう表現を盛り込むことが「文学」であるは鈴木は考えているのかもしれないが、そうではない。「定型(意味)」を書いたとき、自分が「定型(意味)」に到達したと思うのかもしれないが、そうではなくて、それは「現実」(事実)からすべり落ちた瞬間なのだ。鈴木はきづいていなかもしれないが、そのとき「意味」さえも消えている。
「いやらしさ」が残っている。
この「格闘の場面」と、次の「霧のように」という「比喩」がこの詩を壊している。鈴木は、そのふたつの表現を書くことで「詩を書いた」と思っているのかもしれないが、まったく逆である。
こんな批判をするだけなら、この詩を取り上げない方がいいのかもしれないが、このあと一か所、私は、気に入ったのだ。
最終行「自分の意のおもむく場所にたとりついているのだろう」はムカデのことである。母のことではない。母ということばは、そこには書かれていない。しかし、書かれていないことによって、そこに母が見える。
いろいろあった。母にしてみれば、娘から怒鳴られっぱなし、追いかけられっぱなしの日々だったかもしれない。けれどいまは、自分の意のおもむくままに動いているだろう。だれも怒鳴らない。だれも追いかけてこない。だれも、こうしろ、ああしろとはいわない。
書かないことで逆につたわることがある。
「母も……」とか、「お母さん、元気?」とか、「意味」を書かないから、詩になる。
「きゅうり考」の次の行。
「事実」を書いているだけ、のつもりかもしれないが、こういうことばの動きにこそ、詩がある。きゅうり一本に具体的な調味料の組み合わせ。それを結びつける「肉体」の動き、暮らしのととのえ方、それをしっかりとことばとして定着させている。そこに鈴木の「肉体」が見えるし、その「肉体」を共有する「家族」も見える。そういう「肉体」を育ててきた「文化」も見える。
こういうことばだけを残し、「格闘の場面」というような「定型」を捨てると、詩が動き出す。
*
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鈴木芳子『嘘のように』に母を介護したときのことが書かれている。湯の抜かれた浴槽にムカデがいる。それを水で押し流す。その翌朝、
翌朝 階下の居間に降りていくと ムカデが一匹タタミ
の上にじっとしている 今度は火挟みで外へつまみだそ
うとしたが そいつは素早くコタツ敷きの下に入ってし
まった 火挟みを握り追いかける私……振り切って逃げ
ていくムカデ…… 糞尿を垂れながら蒲団に潜り込もう
とする母……着替えを掴んで追いすがる私……の格闘の
場面が 霧のように湧きあがった
事実をそのまま書いているのだと思う。思うのだけれど、私は同時に、そこに「詩」を書こうとする「姿勢」を感じる。それが、いやらしい。
鈴木の書こうとしている「詩」というのは「比喩」といえばいいのか、何と言えばいいのか……「現実」ではないからである。
「事実」なのに「現実」ではない。
というのは、とんでもない矛盾だけれど……。
ムカデを追いながら、介護してきた母の姿を思い出す。母と自分の姿を思い出す、というのは「事実」である。思い出すというのも「事実」だろう。でもその思い出を「格闘の場面」と言い直すとき、そこには「現実」はない。「格闘の場面」という「現実」から切り離された「意味」があるだけだ。具体的な肉体のぶつかりあいがなく、辞書の定義があるだけだ。
この「格闘の場面」を「格闘の場面」ということばではなく、格闘した「肉体」そのものとして書かないとほんとうの詩(文学)にはならない。「格闘の場面」という「定型の表現」を「比喩(意味)」としてひいてきてしまうと、そこから「現実」が抜け落ちてきてしまう。単なる「ことば(意味)」だけが残る。
「格闘の場面」のような、簡潔な表現、「定型」化した表現で「事実」を共有することが「詩」である。そういう表現を盛り込むことが「文学」であるは鈴木は考えているのかもしれないが、そうではない。「定型(意味)」を書いたとき、自分が「定型(意味)」に到達したと思うのかもしれないが、そうではなくて、それは「現実」(事実)からすべり落ちた瞬間なのだ。鈴木はきづいていなかもしれないが、そのとき「意味」さえも消えている。
「いやらしさ」が残っている。
この「格闘の場面」と、次の「霧のように」という「比喩」がこの詩を壊している。鈴木は、そのふたつの表現を書くことで「詩を書いた」と思っているのかもしれないが、まったく逆である。
こんな批判をするだけなら、この詩を取り上げない方がいいのかもしれないが、このあと一か所、私は、気に入ったのだ。
いま家の中は清々しく片付いている 私は声をたてるこ
ともない コタツをあげてみたがムカデはいなかった
自分の意のおもむく場所にたどりついているのだろう
最終行「自分の意のおもむく場所にたとりついているのだろう」はムカデのことである。母のことではない。母ということばは、そこには書かれていない。しかし、書かれていないことによって、そこに母が見える。
いろいろあった。母にしてみれば、娘から怒鳴られっぱなし、追いかけられっぱなしの日々だったかもしれない。けれどいまは、自分の意のおもむくままに動いているだろう。だれも怒鳴らない。だれも追いかけてこない。だれも、こうしろ、ああしろとはいわない。
書かないことで逆につたわることがある。
「母も……」とか、「お母さん、元気?」とか、「意味」を書かないから、詩になる。
「きゅうり考」の次の行。
朝のとりたてを味噌をつけて食べる
塩でもんで一夜漬けにする
ぬか漬けにする
酢と砂糖できゅうりもみにする
きざんですりごまとあえて食べる
「事実」を書いているだけ、のつもりかもしれないが、こういうことばの動きにこそ、詩がある。きゅうり一本に具体的な調味料の組み合わせ。それを結びつける「肉体」の動き、暮らしのととのえ方、それをしっかりとことばとして定着させている。そこに鈴木の「肉体」が見えるし、その「肉体」を共有する「家族」も見える。そういう「肉体」を育ててきた「文化」も見える。
こういうことばだけを残し、「格闘の場面」というような「定型」を捨てると、詩が動き出す。
*
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