詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

原田眞人監督「日本のいちばん長い日」(★★★)

2015-08-19 22:57:43 | 映画
監督 原田眞人 出演 役所広司、本木雅弘、松坂桃李、山崎努

 私は「歴史」映画が苦手だ。歴史を知らないから、描かれていることについていけない。軍人が出てくるのも苦手だ。軍服をきているから、ひとの区別がつかない。今回のように出てくるのが「日本軍」だけだと、なおのこと区別がつかない。海軍と陸軍は制服が違うから区別がつくが、登場するのはもっぱら陸軍。役所広司以外は、だれがだれだかわからない。
 昭和天皇というのは、ほんとうにこの映画に描かれているような立派なひとだったのかどうか、よくわからない。天皇に関して、ひとつ感心したのは、「天皇陛下ばんざい」という戦争映画に特有の「声」がなかったこと。ここに、もしかすると原田眞人監督の深い「意図」があるかもしれない。私は原田の作品を熱心に見ているわけではないので、この点ははっきりとはわからないが、見終わって、ほおおおっと思った。途中で「陛下」だったか「天皇」だったかという「ことば」が発せられるたびに軍人たちがすっと背筋をのばす。その時の制服のこすれる音を再現しているくらいだから、きっと「天皇陛下ばんざい」という「声」だけは出すまいと意識しているのだろう。
 そういうことと関係があると思うのだが、この映画は「ことば」にこだわっている。「ことば」にこだわっている部分をていねいに描いている。天皇が「動物学」と「畜産学」の違いを言ったり、「さざえ」の「比喩」を叱ったり、さらには宮内庁の職員が文書館へ「行く」と言うか「戻る」と言うかで工夫するところなど、なかなかおもしろい。こういうこだわりが、ポツダム宣言をどう訳するか、あるいは最後の天皇の終戦宣言(?)の文言を調整するところにしっかり結びついている。また、切腹した役所広司に向かって、妻がせつせつと次男が戦死したときの状況を「ことば」で再現するところにつながっていく。「どんどん行け」という父親の「ことば」を次男が引き継いでいたというところなど、なかなかおもしろい。
 ただし、このおもしろさは、やっぱり「小説」(文学)のものであって、映画そのもののおもしろさとは違うなあ。小説(原作)の方がおもしろいだろうなあ、と感じさせる映画である。
 何が足りないか、何が映画として問題かというと、この映画の隠れた主役(?)であるクーデターをもくろむ陸軍将校たちに「肉体の緊迫感」がなこと。これが映画を壊している。観客を(私を、と言い換えた方がいいのかもしれないが)引き込む「熱狂」がない。どうしてもクーデターを起こし、最後まで戦いたいという狂気のようなものが伝わってこない。「俺はクーデターを起こそうとする人間を演じているんだな」くらいの意識しか見え来ない。これでは、クーデター以前に失敗している。脚本を読んで(歴史を知っていて)、クーデターはどうせ失敗するとわかって演じている。おもしろくないなあ。「歴史」では失敗するのだけれど、映画なのだからもしかしたら成功するのでは、と思わせないと映画とは言えないなあ。
 戦後70年。私たちはほんとうに戦争から遠いところに生きているんだなあ、と将校たちの演技をみながら思った。人を殺すことがどういうことなのか、「肉体」で思い出せる人間(役者)は日本にはいないのだ。(体験したことのある役者はもちろんいないだろうが、「体験」を聞いて「肉体」を反応させたことのある役者がいないのだ。若者がいないのだ。)
 で。
 脱線するのだけれど、映画から離れて、安倍のもくろむ「戦争法案」のことを思う。そんなものを成立させても、若者は戦争で人殺しを簡単にできるわけではない。人を殺すためには、人を殺す訓練をしないといけない。人を殺すというのは、まず自分の中にある「人間への共感」を殺すこと、自分の人間性を殺すことなのだから、これは難しい。戦場から帰ってきた兵士が精神破綻を引き起し、日常社会にもどれないという例をさまざまに聞くが、そういう問題をどう解決するかまで含めて「戦争法案」は考えないといけないのだが、安倍は、どうせ自分は戦場に行くわけではないと思っているからなのだろう、そんなことは考えていないね。戦争がはじまれば軍需産業がもうかり、そうなれば軍事産業から「政治献金」が入ってくる、政治献金が入ってくれば安倍(自民党)政権がつづくという「アベノミクス」効果しか頭にないね。
 テーマを「ことば」にもどすと……。
 人間の「肉体」は「ことば」そのものと一体になって動いている。ことばがしっかりしていないと「肉体」を正しく動かすことはできない。野党の質問に、きちんと向き合い答えられない安倍の「ことば」の先にあるものは、無意味な戦争と無意味な戦死だけである。不正直なことばしか言わない安倍に戦争に行けと言われて、そのとき誰が「安倍、ばんざい」と言って死ぬだろうか。命令されたって、誰一人、そんなことはしないだろう。そんなことも思った。
                        (中洲大洋1、2015年08月19日)



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愛敬浩一『母の魔法』

2015-08-19 11:39:25 | 長田弘「最後の詩集」
愛敬浩一『母の魔法』(「詩的現代叢書7」、2015年06月06日発行)

 愛敬浩一『母の魔法』は散文を行分けしたような作品である。ことばそのものに、おもしろさがあるわけではない。タイトルになっている「母の魔法」。

遥か昔の
そろそろ暑くなり始めた頃のことだ
小学生の私は友だちと
遊びにでも出掛けるということだったのか
汗でもかいたのか
干し竿からシャツを取り
そのまま着ようとした時
母がさっと
私の手からそのシャツを奪い取り
さっさと畳み
「さあ出来上がり」とでもいうように
ぽんと叩いてから
笑顔で私に差し出した
すぐ着る訳だから
特に畳む必要もないと思ったが
母は
まるで魔法でもかけるように
シャツを畳んだのだ
たぶん私はその時
何か、とても大切なことを学んだのだと思う

 書き出しの「遥か昔」は「昔々……」と読み直せば「物語」になる。「遥か」というのは「物語」を「詩」にするための形容詞である。こんなことばを「詞」の書き出しにつかっては興ざめしてしまう。
 そのあとのことばも「描写」というよりは「説明」である。愛敬に「見えている」世界を「見えている」ままではなく、読者にわかるように「説明」している。「遊びにでも出掛けるということだったのか/汗でもかいたのか」なんて、どっちでもいい。そんなことは「説明」しなくてもいい。だいたい「ほんとう」である必要はない。「理由」にほんとうも嘘もない。小学生には似つかわしくないかもしれないが、「女をたぶらかしに行く」でも「人を殺しに行く」でも、読者は気にしない。「理由」よりも「行動」を読む。
 母親がシャツを畳んだときの「「さあ出来上がり」とでもいうように」の「とでもいうように」という「ていねいさ」が、とてもうるさい。「解釈」も「理由」と同じであって、何でもいいのである。「行動」とは違って「事実」というより、そのひとの「思い込み」にすぎない。
 「特に畳む必要もないと思ったが」の「特に」がうるさいし、「思った」ということばも、どうでもいい。愛敬が「思う」かどうか、知ったことではない。
 最後の一行も、ぞっとする。書いてあることは「ほんとう」なのだろうけれど、「思った」ということばは愛敬の「正直」を証明しているが、詩にこういう正直はいらない。こういう「正直」は逆に「不正直」に見える。「思う」というようなところを経由するひまもなく、「肉体」が直接動いてしまうのが「正直」の姿なのだから。
 で、文句をたらたら書きながら、それでもこの詩について書きたいのは……。
 その「正直」(「肉体」が有無をいわさず動いてしまう瞬間)が、この詩に書かれているからである。

母がさっと
私の手からそのシャツを奪い取り
さっさと畳み
「さあ出来上がり」と
ぽんと叩いてから
笑顔で私に差し出した

 「とでもいうように」を省略して引用してみた。実際、母にしてみれば「とでもいうように」ではなく、無言でそう言っているのであり、無言だとしても愛敬の「肉体」には、はっきりそう聞こえるのだから、「とでもいうように」と「説明」してしまうと、せっかく「肉体」に直接聞こえた「声」が「意味」になってしまう。「頭」のなかで整理されてしまって、そこから「肉体」の直接性(正直)が消える。
 この母の、「ことば」を必要としない「肉体」の動き。「肉体」がすばやく動いて、愛敬の「肉体」に直接触れる部分。ここに「母の正直」があるし、それをぱっとつかみとる「愛敬の正直」もある。
 「笑顔で」の「笑顔」も、表情というよりは、顔のなかで動いている「感情(正直)」である。「笑顔」と名詞にせずに、動詞で言い直して書いた方が「肉体」がもっと明確になる。「肉体」の存在感と、「肉体の直接性」が出ると思う。

 で、この「正直」というのは……。
 いままで書いてきたことと矛盾するように見えるかもしれないが、「ことば」にする必要がある。「正直」そのものは「ことば」を介さずに、母から愛敬の「肉体」へ直接響いていくのだが、その「直接性」は「無言」であるがゆえに、「ことば」になることを欲している。「無言」(まだ、ことばになっていないことば、未生のことば)が「ことば」になるとき、そこに詩が生まれる。
 あ、こういう「肉体」の動き、「肉体」のなかで動いている「ことばにならないことば」があった、ということを「肉体」が思い出す。その瞬間が、詩、なのだ。
 シャツを着る。汚れる。洗う。乾いたら、また着る。その動作のあいだに、洗ったシャツを畳んでもとの形にととのえる、という「ひと手間」。そこに「暮らしのととのえ方」(いのちのととのえ方)がある。「余分(余剰)」がある。それが人間の「正直」というものである。他者に対する「感謝」かもしれない。
 こういう、「ことば」にならない「無言のことば」、「ことば」にして引き継いでゆかなければならない。--と書いてしまうと、まるで「倫理」の教科書の言いぐさになるが……。
 それを書こうとしている愛敬の、この部分のことばの動きは、いいなあ。
母の魔法―愛敬浩一詩集 (詩的現代叢書)
愛敬浩一,詩的現代の会
書肆山住
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