監督 ダン・ギルロイ 出演 ジェイク・ギレンホール、レネ・ルッソ
この映画の不思議さはふたつある。
ひとつは映像がきれいなこと。犯罪(事件)パパラッチというのだろうか、現場の動画をテレビ局に売り込む男が主人公。犯罪現場など美しいはずはないのだが、奇妙に美しい。夜なのに鮮明である。
主人公が交通事故の現場で映像の構図にこだわり、被害者をかってに動かす。そしてカメラを高く掲げて撮影する。肉眼で見ているものとは違うものをカメラがとらえている。そうか、映像とはつくりものであり、現実ではないのか。
どんな事件のときも同じである。主人公は自分が見たものをカメラでとらえているのではない。テレビを見たひとが「見たい」と思うものをつくり出している。
ある一家が強盗に襲われる。その家に入り込む。冷蔵庫の扉に家族写真がある。そのまま映したのでは「絵」にならない。写真の位置を入れ換え、「温かい家庭」にふさわしい冷蔵庫の扉にする。そうすることで、そこで起きた悲劇が強調される。
テレビの視聴者は、ふつうの(温かい)家族が悲劇に襲われるのを見たい。ふつうと悲劇のドラマチックな結びつきに興奮する。主人公は、そのことを知っており、そのために行動する。金のためというより、そういう映像を撮ることに興奮している。自分には、人の求める映像を理解し、さらにそれをあおる能力があると自覚している。
と、書いていると、それは主人公のことなのか、監督のことなのか、わからなくなる。「映像」へのこだわりは、主人公のものであると同時に監督のものでもあるだろう。
主人公の「日常」の描き方がおもしろい。彼は毎日自分でシャツにアイロンをかけている。水滴を散らし、アイロンがききやすくするという工夫もしている。部屋には植物があり、毎日、コップ一杯の水をやっている。きちんとした「暮らし」、「ふつうの暮らし」をしている。その一方で、異様な執念で「犯罪現場」の「刺戟的映像」を追いかけている。「ふつうの暮らしの映像」と「刺戟的な映像」を結びつけることで「刺戟」がより鮮明になる。この対比を鮮明にするには、それぞれの映像が美しくないといけない。雑然としていては、「対比」がまわりに侵入してくる「情報」に撹拌されて、あいまいになる。
どんな「情報」もただそのままカメラのフレームのなかにおさめているわけではない。カメラに納まり切れるものをきちんと整理している。「情報量」を整理している。
これがよくわかるのは、クライマックスの、二人組の男と警官の銃撃戦と、その後のカーチェイスである。ふつうの犯罪者と警察のカーチェイスならパトカーはもっとたくさん出てくる。激しいカーチェイスになる。この映画では、最初に追いかけているパトカー、最後に犯人の車と衝突するパトカーと、きちんと整理されている。あ、ほかのパトカーも来た。どこへ逃げるんだ、というような「興奮」を排除し、逃走する犯人の車、追いかけるパトカー、さらにそれを追う主人公の乗った車と、常に観客の視線が3台の車に集中するように「整理」されて描かれている。
「映像」と「情報(量)」の関係に、非常にこだわった映画なのである。そのために、どの映像も非常に美しい。
もうひとつの不思議は、「ことば」である。
変質者を主人公にした、「刺戟的映像」パパラッチの映画なのに、映像だけで映画を動かしていない。「ことば」にこだわっている。主人公はただしゃべりまくるわけではない。他の登場人物も余分なことを言わない。それぞれが「必要最小限」のことばしか発しない。最小限のことばのなかに隠されている「意味」を考える。主人公はしゃべりながら考えるのではなく、考えて、自分の考えを整理してから、最小限のことばを選んでいる。それが映像に緊張感を与える。
人間は、ふつう、主人公のようにはしゃべれない。新しい状況のなかでは、ことばをさがし、右往左往する。その右往左往のなかに「人間性」のようなものが出てくるのだが、それがないから「非情さ」が強烈に響いてくる。
映像と同じように、主人公は「フレーム」のなかで「ことば」を把握している。それが相手にどう聞こえるか、それを意識しながら話している。
だからといえばいいのか……。主人公が助手とやりとりする最後のシーンがおもしろい。助手は状況が理解できない。助手の頭の中には状況のフレームがない。だから副社長にしてやる。給料はいくらがいいか、と問われたとき、即座に答えられず「70ドル」とばかみたいなことをいう。フレームがわかってくるにつれて、助手のことば(要求)も変わってくる。
もっと主人公の、「ことばのフレーム感覚」がわかるのは、彼が警察に訊問されるときのシーンだろうか。彼は警察が何を問うてくるかを知っている。訊問室で起きる「ストーリー」を知っている。知っているから、あらかじめ準備しておいた「答え」をいう。訊問している刑事には、それが「うそ」であることはわかる。直感でわかる。けれど、主人公の「答え」はきちんと「質問-答え」の「フレーム」のなかでおさまっている。言い換えると「美しい答え」になっている。だから刑事は問いつめることができない。問いつめるためには別の「フレーム」(証拠の枠組み)が必要だが、それは急にはつくれない。
「フレーム」におさまったものが、「フレーム」を支配する。つまり、勝つ。
この「フレームのなかの美しさ(強さ)」にあわせるように、ジェイク・ギレンホールが異様にやせて、「肉体」から「余剰」を排除し、観客がついつい彼の目を見てしまうように仕向ける「肉体のフレーム」にも、何か、ぞくっとするものがある。目に吸いよせられて、彼は、ほんとうは何を見ているのか、と怖くなる。
「映像」も「ことば」も(そして「人間」も)、「フレーム」のなかで「美しくなる(明確になる/強靱になる)」というのは、考えてみれば恐ろしいことかもしれない。「美しいもの(明確なもの)」は、乱れたもの、雑然としたものよりも説得力がある。強靱である。そこに「嘘」を感じても、突き破れない。
ということは、この映画のテーマではないかもしれないが、そう感じた。
この映画が「美しさ」にこだわり、それを実現しているというところに、また奇妙ないらだちを感じた。
もっと雑然とした、あたかかい映画が見たい。ルノワールの映画のような、と思うのだった。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ7、2015年08月23日)
*
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この映画の不思議さはふたつある。
ひとつは映像がきれいなこと。犯罪(事件)パパラッチというのだろうか、現場の動画をテレビ局に売り込む男が主人公。犯罪現場など美しいはずはないのだが、奇妙に美しい。夜なのに鮮明である。
主人公が交通事故の現場で映像の構図にこだわり、被害者をかってに動かす。そしてカメラを高く掲げて撮影する。肉眼で見ているものとは違うものをカメラがとらえている。そうか、映像とはつくりものであり、現実ではないのか。
どんな事件のときも同じである。主人公は自分が見たものをカメラでとらえているのではない。テレビを見たひとが「見たい」と思うものをつくり出している。
ある一家が強盗に襲われる。その家に入り込む。冷蔵庫の扉に家族写真がある。そのまま映したのでは「絵」にならない。写真の位置を入れ換え、「温かい家庭」にふさわしい冷蔵庫の扉にする。そうすることで、そこで起きた悲劇が強調される。
テレビの視聴者は、ふつうの(温かい)家族が悲劇に襲われるのを見たい。ふつうと悲劇のドラマチックな結びつきに興奮する。主人公は、そのことを知っており、そのために行動する。金のためというより、そういう映像を撮ることに興奮している。自分には、人の求める映像を理解し、さらにそれをあおる能力があると自覚している。
と、書いていると、それは主人公のことなのか、監督のことなのか、わからなくなる。「映像」へのこだわりは、主人公のものであると同時に監督のものでもあるだろう。
主人公の「日常」の描き方がおもしろい。彼は毎日自分でシャツにアイロンをかけている。水滴を散らし、アイロンがききやすくするという工夫もしている。部屋には植物があり、毎日、コップ一杯の水をやっている。きちんとした「暮らし」、「ふつうの暮らし」をしている。その一方で、異様な執念で「犯罪現場」の「刺戟的映像」を追いかけている。「ふつうの暮らしの映像」と「刺戟的な映像」を結びつけることで「刺戟」がより鮮明になる。この対比を鮮明にするには、それぞれの映像が美しくないといけない。雑然としていては、「対比」がまわりに侵入してくる「情報」に撹拌されて、あいまいになる。
どんな「情報」もただそのままカメラのフレームのなかにおさめているわけではない。カメラに納まり切れるものをきちんと整理している。「情報量」を整理している。
これがよくわかるのは、クライマックスの、二人組の男と警官の銃撃戦と、その後のカーチェイスである。ふつうの犯罪者と警察のカーチェイスならパトカーはもっとたくさん出てくる。激しいカーチェイスになる。この映画では、最初に追いかけているパトカー、最後に犯人の車と衝突するパトカーと、きちんと整理されている。あ、ほかのパトカーも来た。どこへ逃げるんだ、というような「興奮」を排除し、逃走する犯人の車、追いかけるパトカー、さらにそれを追う主人公の乗った車と、常に観客の視線が3台の車に集中するように「整理」されて描かれている。
「映像」と「情報(量)」の関係に、非常にこだわった映画なのである。そのために、どの映像も非常に美しい。
もうひとつの不思議は、「ことば」である。
変質者を主人公にした、「刺戟的映像」パパラッチの映画なのに、映像だけで映画を動かしていない。「ことば」にこだわっている。主人公はただしゃべりまくるわけではない。他の登場人物も余分なことを言わない。それぞれが「必要最小限」のことばしか発しない。最小限のことばのなかに隠されている「意味」を考える。主人公はしゃべりながら考えるのではなく、考えて、自分の考えを整理してから、最小限のことばを選んでいる。それが映像に緊張感を与える。
人間は、ふつう、主人公のようにはしゃべれない。新しい状況のなかでは、ことばをさがし、右往左往する。その右往左往のなかに「人間性」のようなものが出てくるのだが、それがないから「非情さ」が強烈に響いてくる。
映像と同じように、主人公は「フレーム」のなかで「ことば」を把握している。それが相手にどう聞こえるか、それを意識しながら話している。
だからといえばいいのか……。主人公が助手とやりとりする最後のシーンがおもしろい。助手は状況が理解できない。助手の頭の中には状況のフレームがない。だから副社長にしてやる。給料はいくらがいいか、と問われたとき、即座に答えられず「70ドル」とばかみたいなことをいう。フレームがわかってくるにつれて、助手のことば(要求)も変わってくる。
もっと主人公の、「ことばのフレーム感覚」がわかるのは、彼が警察に訊問されるときのシーンだろうか。彼は警察が何を問うてくるかを知っている。訊問室で起きる「ストーリー」を知っている。知っているから、あらかじめ準備しておいた「答え」をいう。訊問している刑事には、それが「うそ」であることはわかる。直感でわかる。けれど、主人公の「答え」はきちんと「質問-答え」の「フレーム」のなかでおさまっている。言い換えると「美しい答え」になっている。だから刑事は問いつめることができない。問いつめるためには別の「フレーム」(証拠の枠組み)が必要だが、それは急にはつくれない。
「フレーム」におさまったものが、「フレーム」を支配する。つまり、勝つ。
この「フレームのなかの美しさ(強さ)」にあわせるように、ジェイク・ギレンホールが異様にやせて、「肉体」から「余剰」を排除し、観客がついつい彼の目を見てしまうように仕向ける「肉体のフレーム」にも、何か、ぞくっとするものがある。目に吸いよせられて、彼は、ほんとうは何を見ているのか、と怖くなる。
「映像」も「ことば」も(そして「人間」も)、「フレーム」のなかで「美しくなる(明確になる/強靱になる)」というのは、考えてみれば恐ろしいことかもしれない。「美しいもの(明確なもの)」は、乱れたもの、雑然としたものよりも説得力がある。強靱である。そこに「嘘」を感じても、突き破れない。
ということは、この映画のテーマではないかもしれないが、そう感じた。
この映画が「美しさ」にこだわり、それを実現しているというところに、また奇妙ないらだちを感じた。
もっと雑然とした、あたかかい映画が見たい。ルノワールの映画のような、と思うのだった。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ7、2015年08月23日)
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