新延拳『わが流刑地に』(思潮社、2015年07月10日発行)
新延拳『わが流刑地に』を読みながら、「ことばになりすぎている」と思った。何かをしっかり見ている。見てわかっている。それを全部言おうとしている。そし、実際に言ってしまっているのだと思う。そのため、そこから「ことばが育ってくる」という印象が消える。「ことばが、そこで終わっている」と言い換えることができるかもしれない。
たとえば「異界からのベルカント」の一連目。
人が去ったあとの集落。さびれてしまっている感じを書こうとしていることはわかるし、実際さびれていることが「鬼瓦も崩れ落ちそうな」ということばで書かれているのだが、まわりのことばが「同調」しすぎていて、どこを見ていいのかわからなくなる。焦点がすべてにあたっているために、窮屈なのである。「ソースをかけたような」という即物的な直喩、「悪意のような」という感情的(?)な直喩、「折りたたんでしまった(記憶)」という理知的な暗喩。ことばがぶつかりすぎて、どの方向へ動いて行っていいのか、よくわからない。
「鬼瓦」「薺」「苜蓿」「土筆」という漢字だらけのことばもつらい。「苜蓿」は、私には読めなくて、それでよけいに「漢字」がうるさく思えるのかもしれない。「目」でことばを見て、それをおぼえなければならない、というのがつらい。
この印象は、逆に言えば、「世界」がしっかりとことばに定着しているということになるのかもしれない。ことばが「世界」をつかんではなさない。ことばで「世界」を、意識に刻みこんでいる、という評価になるかもしれない。
私はこういう部分よりも、三連目のようなことばの動きが好きだ。
「心棒のような横一本の線を持つ母という字」というのは漢字の見かけの説明(?)なのだが、「縦に」貫く心棒ではなく「横に」貫く心棒というのがおもしろいし、それがそのまま自転車に乗った母とこどもにつながっていくのが楽しい。こどもは母親のからだのなかの垂直(縦)の線ではなく、横に広がっていく線をつかんでいる。母親というのは横に愛情を広げていくのか。こどもは、その広がってくる愛情をつかむのか、というようなことを思ってしまう。そうだなあ。父親は「垂直(縦)に貫く心棒」で、ひとりひとりの「独立性」を教えるのに対し、母というのは横に広がる愛を教える--というのは「定型イメージ」で安易な連想かもしれないが、そういう余分なこと(父は、ここには出て来ない)を勝手に考えるのが私は好きだ。
そこに書かれていないことばを勝手に動かして、自分で「世界」を広げる。その広がった「世界」に赤いチューリップ畑があらわれる。母と子の「精神的(感情的)」なつながりと広がりが、チューリップ畑と混じりあい、とけあう。母と子がチューリップ畑の比喩なのか、チューリップ畑が母と子の比喩なのか。わからないところがいい。「導火線が一本出ていてもおかしくないような」という直喩は、そこには「導火線」は存在しないし、チューリップ畑は炎上してはいないと言うのだが、その直喩を裏切って、チューリップ畑は私の想像力のなかでは赤く燃えあがっている。つまり、私は新延の書いていることばを勝手に「誤読」して、あ、いいなあ、と思っている。この勝手に思っている感じ、勝手に思うことを許してくれることばを、私は「勝手に育っていくことば」と呼んでいる。この三連目には、そういう「育ってゆくことば」がある。
この三連目のことばは、一連目にくらべると「隙間」があるということになるかもしれない。でも、その「隙間」が詩の重要な要素なのだと思う。「隙間」から何かが見える。その見えたものは必ずしも作者が覗き見たものと同じとはかぎらない。きっと違うだろう。そして、たぶん「違う」ということが楽しいのだ。「違う」から「交流(対話)」がはじまる。
「黙示が露のように」の二連目。
本が売れたあとの、その本のあった場所。「隙間」。そこから何が見える? 新延は壁の漆喰、その剥落を見て、「銀河が始まっている」のを見る。誘われて、私も「銀河」を見る。でも、その「銀河」にどんな星があるか、どんな星座を見ているのか、その具体的なところは、きっと「違う」。「違う」から平気で、ああ、きれない星空、と思うことができる。「ほら、北極星から10時の方向にある、あの緑色の星がいま流れていく」なんて言われたら、それはそれでもいいのだろうけれど、何だか同じものを見ないといけないようで、ちょっとうるさい。「えっ、見えなかったよ」なんていうことになるとがっかりするしね。(あ、これも、勝手にことばを動かして思うこと、ことばが勝手に育っていくことなので、それでもいいんだけれど。--いいかげんだね、私の書いていることは。)
「櫻の精が」の、
「モノの逆襲」の「一九二九年某日」から始まる連と、
の連もおもしろい。「……」に何をいれる? 何かことばが入るはずだけれど、新延は見つけきっていない。「切れたのだ」と韻を踏みたい(?)が、さて、どうしよう。急に、自分自身と女の関係を問われたような感じになる。無意識に、そこに私が参加してしまう。
そのとき、詩は作者(新延)のものではなく読者(私、谷内)のものになる。これは一瞬の「誤読」(誤解)なのだが、これがないと詩はおもしろくない。文学はおもしろくない。どんな作品でも、それが作者の書いたものであること、あるいは虚構であることを忘れ、あ、これは私が言いたかったこと、あるいは、えっ、こんなことを思うのかよ、無意識に反応してしまうことがある。そういう作品が、きっといい作品。読者のなかで、ことばが勝手に育つのがいい作品だと思う。
「しゃぼん玉のなかのふるさと」の、
この一行も楽しい。
新延拳『わが流刑地に』を読みながら、「ことばになりすぎている」と思った。何かをしっかり見ている。見てわかっている。それを全部言おうとしている。そし、実際に言ってしまっているのだと思う。そのため、そこから「ことばが育ってくる」という印象が消える。「ことばが、そこで終わっている」と言い換えることができるかもしれない。
たとえば「異界からのベルカント」の一連目。
薄曇りの空にソースをかけたような黒い雲が広がりだした
鬼瓦も崩れ落ちそうな集落
人も見かけない
薺の花や苜蓿、土筆など
悪意のような春の雷が鳴って
いつか見たようなどこかで折りたたんでしまった記憶
人が去ったあとの集落。さびれてしまっている感じを書こうとしていることはわかるし、実際さびれていることが「鬼瓦も崩れ落ちそうな」ということばで書かれているのだが、まわりのことばが「同調」しすぎていて、どこを見ていいのかわからなくなる。焦点がすべてにあたっているために、窮屈なのである。「ソースをかけたような」という即物的な直喩、「悪意のような」という感情的(?)な直喩、「折りたたんでしまった(記憶)」という理知的な暗喩。ことばがぶつかりすぎて、どの方向へ動いて行っていいのか、よくわからない。
「鬼瓦」「薺」「苜蓿」「土筆」という漢字だらけのことばもつらい。「苜蓿」は、私には読めなくて、それでよけいに「漢字」がうるさく思えるのかもしれない。「目」でことばを見て、それをおぼえなければならない、というのがつらい。
この印象は、逆に言えば、「世界」がしっかりとことばに定着しているということになるのかもしれない。ことばが「世界」をつかんではなさない。ことばで「世界」を、意識に刻みこんでいる、という評価になるかもしれない。
私はこういう部分よりも、三連目のようなことばの動きが好きだ。
心棒のような横一本の線を持つ母という字
自転車の後ろにのった子は
母のベルトをしっかりつかむ
そして導火線が一本出ていてもおかしくないような
赤いチューリップの横を走り抜ける
「心棒のような横一本の線を持つ母という字」というのは漢字の見かけの説明(?)なのだが、「縦に」貫く心棒ではなく「横に」貫く心棒というのがおもしろいし、それがそのまま自転車に乗った母とこどもにつながっていくのが楽しい。こどもは母親のからだのなかの垂直(縦)の線ではなく、横に広がっていく線をつかんでいる。母親というのは横に愛情を広げていくのか。こどもは、その広がってくる愛情をつかむのか、というようなことを思ってしまう。そうだなあ。父親は「垂直(縦)に貫く心棒」で、ひとりひとりの「独立性」を教えるのに対し、母というのは横に広がる愛を教える--というのは「定型イメージ」で安易な連想かもしれないが、そういう余分なこと(父は、ここには出て来ない)を勝手に考えるのが私は好きだ。
そこに書かれていないことばを勝手に動かして、自分で「世界」を広げる。その広がった「世界」に赤いチューリップ畑があらわれる。母と子の「精神的(感情的)」なつながりと広がりが、チューリップ畑と混じりあい、とけあう。母と子がチューリップ畑の比喩なのか、チューリップ畑が母と子の比喩なのか。わからないところがいい。「導火線が一本出ていてもおかしくないような」という直喩は、そこには「導火線」は存在しないし、チューリップ畑は炎上してはいないと言うのだが、その直喩を裏切って、チューリップ畑は私の想像力のなかでは赤く燃えあがっている。つまり、私は新延の書いていることばを勝手に「誤読」して、あ、いいなあ、と思っている。この勝手に思っている感じ、勝手に思うことを許してくれることばを、私は「勝手に育っていくことば」と呼んでいる。この三連目には、そういう「育ってゆくことば」がある。
この三連目のことばは、一連目にくらべると「隙間」があるということになるかもしれない。でも、その「隙間」が詩の重要な要素なのだと思う。「隙間」から何かが見える。その見えたものは必ずしも作者が覗き見たものと同じとはかぎらない。きっと違うだろう。そして、たぶん「違う」ということが楽しいのだ。「違う」から「交流(対話)」がはじまる。
「黙示が露のように」の二連目。
あの書がなくなっている
売れてしまったのだ
古本屋の棚に二十五ミリの隙間を残して
壁の漆喰が剥がれているところから
銀河が始まっている
本が売れたあとの、その本のあった場所。「隙間」。そこから何が見える? 新延は壁の漆喰、その剥落を見て、「銀河が始まっている」のを見る。誘われて、私も「銀河」を見る。でも、その「銀河」にどんな星があるか、どんな星座を見ているのか、その具体的なところは、きっと「違う」。「違う」から平気で、ああ、きれない星空、と思うことができる。「ほら、北極星から10時の方向にある、あの緑色の星がいま流れていく」なんて言われたら、それはそれでもいいのだろうけれど、何だか同じものを見ないといけないようで、ちょっとうるさい。「えっ、見えなかったよ」なんていうことになるとがっかりするしね。(あ、これも、勝手にことばを動かして思うこと、ことばが勝手に育っていくことなので、それでもいいんだけれど。--いいかげんだね、私の書いていることは。)
「櫻の精が」の、
金魚に餌をやるとき水面に映る自分の貌
自分に餌をあたえているよう
金魚は動いているのに水音を立てない
「モノの逆襲」の「一九二九年某日」から始まる連と、
突然ボールペンが書けなくなった
インクが切れたのだ
電気カミソリが動かなくなった
充電が切れたのだ
電灯が消えた
球が切れたのだ
君がいなくなった
……のだ
の連もおもしろい。「……」に何をいれる? 何かことばが入るはずだけれど、新延は見つけきっていない。「切れたのだ」と韻を踏みたい(?)が、さて、どうしよう。急に、自分自身と女の関係を問われたような感じになる。無意識に、そこに私が参加してしまう。
そのとき、詩は作者(新延)のものではなく読者(私、谷内)のものになる。これは一瞬の「誤読」(誤解)なのだが、これがないと詩はおもしろくない。文学はおもしろくない。どんな作品でも、それが作者の書いたものであること、あるいは虚構であることを忘れ、あ、これは私が言いたかったこと、あるいは、えっ、こんなことを思うのかよ、無意識に反応してしまうことがある。そういう作品が、きっといい作品。読者のなかで、ことばが勝手に育つのがいい作品だと思う。
「しゃぼん玉のなかのふるさと」の、
よく乾いたTシャツにある洗濯ばさみの跡
この一行も楽しい。
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