詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅(詩)柏木美奈子(絵)『ひらめきと、ときめきと。』

2015-08-14 11:12:44 | 詩集
秋亜綺羅(詩)柏木美奈子(絵)『ひらめきと、ときめきと。』(あきは書館、2015年08月20日発行)

 秋亜綺羅『ひらめきと、ときめきと。』には「詩の絵本」という「肩書(?)」がついている。詩は秋亜綺羅、絵は柏木美奈子。私は絵には興味がないので、詩についてだけ感想を書く。
 「しみ抜き屋のうそ」の書き出しの三連。

汚れちまった悲しみに
という詩があったけれど
悲しみというしみは
いつから付いているのでしょう

あなたの憎しみ、しみ抜きいたします
あなたの苦しみ、しみ抜きいたします
あなたの悲しみ、しみ抜きいたします

しみ抜き剤はこころをこめた
わたしのやさしいうそです

 秋亜綺羅の特徴がよくあらわれた詩だと思う。「悲しみ」から「しみ」ということばを抜き出す。「悲しみ」は「悲」と「しみ」から成り立っているわけではないが、その「みかけ」を利用する。「ことば」を「語源」から切り離して、そこにある「もの」のようにしてみつめる。そして分解する。そうすると、同じ構造をしている「ことば」がみつかる。「憎しみ」「苦しみ」。
 「ひとつ」なら「偶然」だが、複数あれば、そこに「必然」が生まれる。わけではないが、「必然」のように見えてしまう。「論理」があるように見えてしまう。「偶然」を、そんな具合に「論理」にしてしまう。
 「ことば」と向きあうとき、その「ことば」がつかわれてきた「過去」を気にしない。いや、「ことばの過去」を積極的に捨てる。「過去」を捨てることで身軽になる。そのなかで「論理」をつくってみせる。
 秋亜綺羅の詩はうんざりするくらい「論理的」である。
 でもこの「偶然」を「必然(論理)」にかえるということをしながら、同時に秋亜綺羅は、それを「嘘」と呼ぶ。「嘘」と呼ぶことで「必然」を再び「偶然」に返す。「偶然」が秋亜綺羅にとっての詩なのだ。
 「嘘」の「論理」をつくり、それを「嘘」と呼ぶことで、「真実」を語る。
 どこかに謎々があったなあ。「○○島の住民はみんな嘘つきである、と○○島の住民が言う」。これは嘘かほんとうか。そういう「一瞬」の「論理の罠」。「論理」なんて、いいかげん極まりないものである。その「いいかげんさ」をさっと駆け抜ける。それが秋亜綺羅の詩である。ことばである。
 だから、秋亜綺羅の詩には必ず「繰り返し」がある。「繰り返し」によってことばが加速する。考えることをやめる(論理的になることをやめる)。ただ「繰り返し」が可能であるということは、そこには何らかの「真実」と呼ぶに足るものがある。頼りにできるものがある、と思い込ませるのである。(秋亜綺羅自身が思い込んでいるとは、私には思えない。ほんとうに「真実」と思い込んだのなら、「うそ」とは呼ばない。)

水平線では
泳ぐものと飛ぶものが
半分ずつ溶けあっています

鏡と現実の境界にも水平線があって
ふたりのあなたが
半分ずつ溶けあっています

だから鏡を見ているあなたは
半分だけあなたなのです                (「残り半分のあなた」)

 「半分ずつ溶けあっています」の「繰り返し」。そのあとで「半分」という「論理」を利用して「半分だけあなたなのです」と平気で「嘘」をつく。

 これはしかし逆にとらえたほうがいいのかもしれない。「リズム」にのって、その勢いで「嘘」をつくのではなく、「嘘」をつくために「リズム」を利用している。あるいは「リズム」を探している。
 「嘘」というのは、ある意味では「真実」から「自由」になること。「ことばの自由」。秋亜綺羅は、その「自由」のために「リズム(詩)」を利用している。「リズム」を利用して読者をたぶらかしている。
 読者というのは、いつでも「たぶらかされたい」ものである。たぶらかされて、一瞬、「いま/ここ」から切り離されて、自由になる。そういう瞬間が好きなのである。「嘘」の「ひらめき」に「ときめき」を感じるのである。
 こういう「詐欺」の「手口」の基本は、ことばが「簡単」であること。ことばが「常套句」であること。「ことば」の前で読者が立ち止まってしまっては、「詐欺」は成り立たない。「ひらめき」に「ときめく」前に考えてしまう。
 で。
 ここからがほんとうの「感想」になるのかなあ。
 私はこの詩集を一気に読んだ。つまり「リズム」に乗って、一気に騙された。と、いいたいのだけれど、一か所つまずいてしまった。
 「一+一は!」の書き出し。

空気が踊ると風を感じるよね
空気が眠ると気配を感じる
気配はもうひとりのぼくだとおもう
一緒に歌って笑ってきた、きみのこと

 「空気が踊ると風を感じる」。これは「常套句」だと思う。空気が楽しく踊る。爽やかな風、気持ちいい風を、「空気のダンス」と「比喩」にできると思う。すでに、そういう「比喩」がどこかにあるに違いないと思う。(空気が走ると突風、暴走すると台風とかハリケーンとかの比喩になるかな?)
 でも、そのあとの「空気が眠る」と「気配」の結びつきは? この「比喩」は「常套句」とは言えないと思う。私は「気配」につまずいて、この一行を何回も何回も読み返してしまった。そして何回読み返してみても、書いてあることがわからなかった。
 そして、そうか、ここに秋亜綺羅がいるのか、と思った。
 「眠る」は「動かない」ということかもしれない。この「動かない」は「リズム」とは反対のもの。「リズム」は動くことで生まれる。「リズム」で動かしながら、一方でけっして「動かない」何かを秋亜綺羅は抱えている。
 私はノーテンキで「リズム」にのれば、疲れ果てるまでそのリズムに乗ってどこかへ行ってしまう。どこへ行ってしまうか、まったく気にしない。ことばを書くとき(たとえば、この文章を書くとき)、私は「どこへたどりつくか」ということを考えていない。想定していない。ただ、動けるところまで動いてみよう。ことばを動かしてみようと思うだけである。動いている瞬間が「私」であり、動かなくなったら「私」がいなくなる。つまり、そこで書くのをやめる。
 けれど、秋亜綺羅は「動かないぼく」を秋亜綺羅のなかに抱え込んでいる。そして、その「動かないぼく」を「きみ」と呼んでいる。「一緒に歌って笑ってた」という修飾語がついているが、重要なのは「一緒に」ということばだろう。「ぼく」と「きみ」は「一緒に」いる。
 ふーん、「ぼく」と「きみ」を秋亜綺羅は往復しているのか。その往復が「詩」ということばなのか。
 私は秋亜綺羅の詩を高校時代から読んでいる。(途中何十年間は読んでいないが。)そして、読む度に、これは高校時代に書いていた詩とまったく変わっていないじゃないか、という印象を持つ。「高3コース」の投稿欄(寺山修司選)の作品と同じじゃないかと思う。秋亜綺羅は変わらないのではなく、変われないのだ。「ぼく」と「きみ」という組み合わせから逃げ出せないのだ。

 しかし。
 「気配」か。「気配」って何だろう。私は「空気が読めない」、つまり「気配」を感じ取ることができない。「気配」というのは「気配り」ができるひとだけが感じ取ることのできるものなのだろう。私は「気配り」というような面倒くさく、ややこしいことができない。
 そういえば、秋亜綺羅は「気配り」のひとだなあ、と思う。数回会っただけだけれど、あ、このひといろんなことに気がついて、状況をととのえることができるのだなあと思ったことが何度かある。すべてが終わったあとに。

 「気配」「気配り」に注意しながら詩を読むと、違ったものが見えてくるかもしれないなあ。でも、それは次の機会に。今回は「気配」ということばにつまずいた、ということだけでおしまい。書くことはほかにない。

詩の絵本 ひらめきと、ときめきと。
秋 亜綺羅
あきは書館
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする