詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実『三度のめしより』

2015-08-17 10:27:08 | 詩集
北川朱実『三度のめしより』(思潮社、2015年08月08日発行)

 北川朱実『三度のめしより』は詩誌「石の詩」に連載されていたエッセイ。評論なのかもしれない。散文である。毎回楽しみに読んでいた。一冊になるとおもしろいだろうなあ、と思っていた。待望の一冊。なのだが、不思議なことに気がついた。「石の詩」で読んでいたときの方がおもしろいのである。一冊にまとまって、おもしろくなくなったというわけではないのだが、詩誌で読んでいたときの方が活気があるように感じられた。なぜなのだろうか。
 読み進んでいる内に、ふと、気づいた。「石の詩」で読んでいたときには、その周辺に他人のことば(詩)があった。それが北川の文章を活気づかせていた。北川の文章だけになると、他人のことばの雑音が消えて、ちょっとおもしろさが消える。北川の散文の特徴は他人の声と響きあって動くのだ。
 それは書かれている文章そのものにも感じるものである。たとえば「四十になったら自分の顔に」というのは平田好輝の「教室」を引用して書きはじめている。学生に講義している「わたし(平田)」を書いた詩である。その感想を、少し書いたと思うと、北川は突然違うことを書きはじめる。

 昔、河津川に鮎釣りに来ていた井伏鱒二が、同じ旅館で、同じく釣りに来ていた亀井勝一郎、新婚旅行の太宰治夫妻と一緒になった時のこと。

 豪雨になり、井伏は二階の亀井の部屋に避難し、太宰も逃げてきた。井伏は泳いで逃げようと言ったが亀井と太宰は動かなかった。亀井、太宰は泳げなかったという、というようなことが書かれている。
 そのエピソードはエピソードとして興味深いが、平田の詩と何の関係がある?
 あ、こんな感想を持ってしまったら、北川のやっていることが、まったくわからなくなる。
 北川はここで、何をしているのか。

 詩を読むことは、私にとっては詩人(詩を書いたひと)の「肉体」の中へ入っていくことである。つまり、セックスである。
 ところが北川は、他人(詩人)の「肉体」の中へは入っていかない。書いたひととは別の人の「肉体」を渡って行く。常に複数の「肉体」のなかで「ひとり」をとらえる。あるいは「ひとり(書いたひと)」を複数の「肉体」のなかへ分散させるといえばいいのか。
 このひとの、ここを押せば(刺戟すれば)、こんな声が出るのか、ということがおもしろくて私は詩を読むが(あるいは文章を読むが)、北川は、このひとのこの声は、あのひとのあのときの声と似ているかもしれない。似たところがある。通い合うところがある、という具合にして、「ひとり」を拡散する。北川のセックス経験(読書経験?)の「図」のなかに位置づけてみせる。いろんなひとがいて、いろんな声がある。その声だけを取り出して、その声の特徴を味わうというよりも、他人の声と比較して、わっ、おもしろいと感じている。「好きな男の腕の中でも、違う男の夢を見る」というような感じかも。
 へえええ。
 だから。(というのは、強引か。)
 だから、たとえば平田の詩を読みながら、平田のことを北川がどれくらい知っているのか(平田と、ことばのうえでどんなセックスをしたのか)ということよりも、わっ、北川は井伏鱒二や亀井勝一郎、太宰治とセックスしてきたのだ(ことばを読んできたのだ)、それも「小説」とかではなく、ゴシップ(?)とセックスしてきたのだ、ということがわかってくる。
 そうか、とりすました作品(自分をかっこよく見せるためのセックス?)ではなく、うまくいかなかったどたばたのセックスの方に、その人間の「本質」のようなものがある、というわけか。そうだねえ。あのときのセックスは最高という思い出よりも、あのとき、あんな失敗をして落ち込んだなあという方が親近感がもてる。

 平田の詩の紹介は、もう一篇ある。ほかの人の前にはマンジュウが二個あるのに、平田の前には一個しかない。どうして? 気になって質問しないではいられない、という「内容」の詩である。
 この詩を読んで、北川は、そこには「四十をすぎて、責任ある顔を忘れた瞬間」の平田が書かれている。そのことが「おかしくて実にせつない」と書く。ここにさりげなく北川の、平田への肉体のよせ方(セックスの仕方)が書かれている。

マンジュウを、もう一つもらっても、質問者にはおさまりがつかないのだろう。一と一を足しても二にならないことがあるのだ。

 「論理」を超えるものがある。「論理」にならないものがある。
 セックス(ひととひとの出会い、交わり方)は、もちろん「論理」にならない。どこへ行くかわからない。だいたいセックスのだいごみはエクスタシー。自分から出てしまうこと。自分ではなくなること。つまり「論理」の「枠」を突き破ってしまうこと。
 「論理」の「枠」を突き破ったものが、詩。
 で、北川は、どんどん「論理」を無視する。それはセックスにおいて「倫理」を無視するのに似ている。こっちの方が好き、こっちの方が気持ちがいいと思えば、瞬時に、いま読んでいたものを捨てて、「浮気」する。
 平田の詩のあとに、相沢正一郎の詩を紹介したかと思うと、次には渥美清のゴシップ(ひとに知られていない秘密)をつなげ、さらに梅田智江の詩を紹介していく。
 そのひとつづきの文章(セックスの渡り歩き)に何が書かれているのか。要約すると、その「意味/主張(訴えたいこと)」は何なのか。
 あ、私にはわからない。いや、何か「結論」を要約を書けといえば書けないこともないが、そんな必要はない。この人間から人間への渡り歩きを見れば、北川は人間が好きなのだということがわかる。それも「結論」としての「人間」ではなく、「結論(意味)」からはみだしてしまう「非論理」の「肉体」が好きだということがわかる。
 こういうのは、またセックスの話に戻っていうと、自慢できるセックスではなくて、「どうしても隠さなければならないこと」、つまりセックスの恥じのようなものである。セックスの醍醐味はエクスタシーだが、それはあくまで「個人的」なのもの。「恥じ」はやはり「個人的」だが、なぜか「共有」できる。だれもが同じような「恥じ」(失敗)をしている。「恥じ」(失敗)で人間はつながっている。「失敗/恥じ」のなかには、「エクスタシー(超人)」に到達できない、「ふつうの人間/肉体」がいるということだろう。
 人間は不思議なもので、「どうしても隠さなければならないこと」は必ず知られてしまう。秘密にしておいてくれ、と言われれば言われるほど、それを言わずにはいられなくなる。
 こういうことばは「個室」でひとりで読むものではなく、ひととまぎれて、「雑談」として読む方が活気がある。「石の詩」で読んだときに感じた楽しさは、同人誌のなかに「雑談」のような声が響いていたからだろう。他人の声が充満していたからだろう。喫茶店で、前の女が見たばかりの映画について話すのを聞いているふりをしながら、全身を耳にして遠くの隅でねちねちと男をいじめている女の愚痴を、お、おもしろい、と感じるようなものである。

三度のめしより
北川 朱実
思潮社
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