和田まさ子「まちがい」(「生き事」10、2015年夏発行)
和田まさ子「まちがい」は、他人との「ずれ」を書いている。
こんな「まちがい」が現実にあるかどうか、あやしい。しかし、あってもかまわない。そういうぎりぎりのところを和田はことばですくってみせる。「これって、もしかしたら、寓話?」と考えさせる。
なぜこんな奇妙な「ずれ」ばかりを和田は好んで書くのか。
後半で、めずらしく「種明かし」をしている。
ちょっとしたいいまちがい。それを訂正せずに、そのまま押し通す。それに相手があわせてくれる。そして、あわせてくれた瞬間に、まちがえていたことに気づく。会話をあわせてくれていることにも気がつく。でも、どっちを「訂正」すればいいのだろう。どうすれば、ほんとうに戻れるのだろう。もともと「ほんとう」ってあったのかなあ。
このやりとりでわかるように、和田がテーマとしているのは「会話」なのだ。「会話」というのは「日常語」でやりとりされるが、「日常語」というのは「意味」に幅がある。厳密ではない。ひとそれぞれに少しずつ、そのことばが含んでいる「内容」が違う。少しずつ違うのだけれど、「会話」が「会話」として成り立つのは、「日常の肉体」が「違い」を吸収してしまうからだろうなあ。多少の違いを無視して、「肉体」としてつながっている部分を大切にして、それで「全体」を把握してしまう。おおざっぱに掴み取ってしまう。
この詩で言えば「食べる」ということが、「ずれ」を消してしまう力になっている。アップルパイもおでんも「食べる」ことができる。「食べる」は「味わう」でもある。名前が違っても「食べ物」は「食べ物」。アップルパイもおでんも「食べる」ということばのなかで「ひとつ」になる。そうは言っても、「味」は違うのだから「食べる」ということばで「ひとつ」にしてしまうのは、どこか無理がある。無理があるのだけれど、そんな具合にまとめることもできる。
そのときの「具合」。
これが、実は和田のほんとうのテーマ。
和田は「会話具合(ことばの具合)」の違いを書いている。ひととひとは「会話」する。「会話」には私たちが知っている「日常」のことばがつかわれる。それは「同じことば」のようにみえても、どこかで「具合」が違う。その「具合」を「論理的」に説明することは難しいが、あ、何となく、それ違うのだけれど……という感じで「肉体」のなかに残るものである。「肉体の具合」に影響してくる。会話の具合はことばの具合であり、同時に肉体の具合でもある。
そのことを、その妙な「具合」の融合(結合)を和田は、
にしっかりと言語化している。「サクサク」と「もわっ」という「触覚」の違いによって書いている。
「アップルパイ」を「おでん」と言い換えることは簡単である。「パイ生地」を「はんぺん」と言い換えることも簡単である。つまり、「アップルパイ」と言おうとして「おでん」と言ってしまうことは、まあ、簡単である。
けれども「サクサク」を「もわっ」と言い換えることは難しい。「触覚(食感)」は肉体にしっかり組み込まれている。嘘がつけない。はんぺんを噛むと、どうしても「もわっ」ということばがが出てきてしまう。だから、この「もわっ」を自分なりに別なことばでいいなおそうとすると、とても難しい。「もわっ」はわかるが、説明はできない。それは「肉体」そのものなのである。
それは逆に言えば、「わたし(和田)」がはんぺんを噛みながら、「サクサクね」ということばを聞いた瞬間、「そよ子さん」は「あ、それ違う」と「肉体」で感じてしまうということである。「そよ子さん」は「そよ子さんの肉体」で、「サクサク」が嘘であるとわかり、同時にそれが「パイ生地」ではないと「わかる」ということである。このしゅんかんに「おでん=アップルパイ」という「嘘」は完全にくずれる。
「おでん=アップルパイ」が「嘘」であることは、「頭」ではは最初からわかっていたけれど、「肉体」ではわからなかった。そのまま「嘘」を押し通せると思っていた。和田が「会話」をあわせてくれているから「嘘」はそのまま完成するはずだった。
けれど「肉体」は「嘘」をつけない。
だから「肉体」そのものが反応する。
「目を伏せる」という「肉体」の具体的な動きがあり、それは「照れる」という別な動詞で言い直される。
「会話」の「具合」から、「ことば」と「肉体」の関係を具体的に描き出しているところが、とてもおもしろい。哲学的だ。
これは、傑作。
和田まさ子「まちがい」は、他人との「ずれ」を書いている。
そよ子さんから
アップルパイをつくったから
持っていくと電話があった
待っていると
午後
おでん鍋を抱えたそよ子さんがあらわれた
そうだった
この人は料理の名前をまちがえるのだ
かに玉をコロッケに
コロッケをすき焼きに
すき焼きを五目寿司に
だから
おいしそう
こんな「まちがい」が現実にあるかどうか、あやしい。しかし、あってもかまわない。そういうぎりぎりのところを和田はことばですくってみせる。「これって、もしかしたら、寓話?」と考えさせる。
なぜこんな奇妙な「ずれ」ばかりを和田は好んで書くのか。
後半で、めずらしく「種明かし」をしている。
そよ子さんが
きょうのアップルパイは上出来だわ
といいながら
おでんを箸でつついている
ほんとうにこのりんごは甘い
といいながら
大根をつまんでいる
ひとの会話は
そんなところがいい具合
パイ生地がサクサクね
と答えながら
わたしは、はんぺんをもわっと噛んでいる
そよ子さんが目を伏せながら照れている
ちょっとしたいいまちがい。それを訂正せずに、そのまま押し通す。それに相手があわせてくれる。そして、あわせてくれた瞬間に、まちがえていたことに気づく。会話をあわせてくれていることにも気がつく。でも、どっちを「訂正」すればいいのだろう。どうすれば、ほんとうに戻れるのだろう。もともと「ほんとう」ってあったのかなあ。
このやりとりでわかるように、和田がテーマとしているのは「会話」なのだ。「会話」というのは「日常語」でやりとりされるが、「日常語」というのは「意味」に幅がある。厳密ではない。ひとそれぞれに少しずつ、そのことばが含んでいる「内容」が違う。少しずつ違うのだけれど、「会話」が「会話」として成り立つのは、「日常の肉体」が「違い」を吸収してしまうからだろうなあ。多少の違いを無視して、「肉体」としてつながっている部分を大切にして、それで「全体」を把握してしまう。おおざっぱに掴み取ってしまう。
この詩で言えば「食べる」ということが、「ずれ」を消してしまう力になっている。アップルパイもおでんも「食べる」ことができる。「食べる」は「味わう」でもある。名前が違っても「食べ物」は「食べ物」。アップルパイもおでんも「食べる」ということばのなかで「ひとつ」になる。そうは言っても、「味」は違うのだから「食べる」ということばで「ひとつ」にしてしまうのは、どこか無理がある。無理があるのだけれど、そんな具合にまとめることもできる。
そのときの「具合」。
これが、実は和田のほんとうのテーマ。
和田は「会話具合(ことばの具合)」の違いを書いている。ひととひとは「会話」する。「会話」には私たちが知っている「日常」のことばがつかわれる。それは「同じことば」のようにみえても、どこかで「具合」が違う。その「具合」を「論理的」に説明することは難しいが、あ、何となく、それ違うのだけれど……という感じで「肉体」のなかに残るものである。「肉体の具合」に影響してくる。会話の具合はことばの具合であり、同時に肉体の具合でもある。
そのことを、その妙な「具合」の融合(結合)を和田は、
パイ生地がサクサクね
と答えながら
わたしは、はんぺんをもわっと噛んでいる
にしっかりと言語化している。「サクサク」と「もわっ」という「触覚」の違いによって書いている。
「アップルパイ」を「おでん」と言い換えることは簡単である。「パイ生地」を「はんぺん」と言い換えることも簡単である。つまり、「アップルパイ」と言おうとして「おでん」と言ってしまうことは、まあ、簡単である。
けれども「サクサク」を「もわっ」と言い換えることは難しい。「触覚(食感)」は肉体にしっかり組み込まれている。嘘がつけない。はんぺんを噛むと、どうしても「もわっ」ということばがが出てきてしまう。だから、この「もわっ」を自分なりに別なことばでいいなおそうとすると、とても難しい。「もわっ」はわかるが、説明はできない。それは「肉体」そのものなのである。
それは逆に言えば、「わたし(和田)」がはんぺんを噛みながら、「サクサクね」ということばを聞いた瞬間、「そよ子さん」は「あ、それ違う」と「肉体」で感じてしまうということである。「そよ子さん」は「そよ子さんの肉体」で、「サクサク」が嘘であるとわかり、同時にそれが「パイ生地」ではないと「わかる」ということである。このしゅんかんに「おでん=アップルパイ」という「嘘」は完全にくずれる。
「おでん=アップルパイ」が「嘘」であることは、「頭」ではは最初からわかっていたけれど、「肉体」ではわからなかった。そのまま「嘘」を押し通せると思っていた。和田が「会話」をあわせてくれているから「嘘」はそのまま完成するはずだった。
けれど「肉体」は「嘘」をつけない。
だから「肉体」そのものが反応する。
そよ子さんが目を伏せながら照れている
「目を伏せる」という「肉体」の具体的な動きがあり、それは「照れる」という別な動詞で言い直される。
「会話」の「具合」から、「ことば」と「肉体」の関係を具体的に描き出しているところが、とてもおもしろい。哲学的だ。
これは、傑作。
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