詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八木幹夫「樹の名前(長田弘氏に)」

2015-08-23 14:28:36 | 詩(雑誌・同人誌)
八木幹夫「樹の名前(長田弘氏に)」(「交野が原」79、2015年09月01日発行)

 八木幹夫「樹の名前(長田弘氏に)」は長田弘追悼の詩。八木は木の名前を知らない。長田はよく知っている。そういうことから書きはじめられている。

木の名前っていうのが苦手でね
森に行ったら
全部 木だろ
右にも木
左にも木
うしろにも木
これで森という文字の完成

 これが八木の感覚。私も似たようなものである。多くのひとがそうかもしれない。長田は違う。

こなら
おなら
ぶな
こぶな
木五倍子

 「木五倍子」は「生五倍子」とも書く。「きぶし」と読む。

春先 だらーんと黄色い
花がたれる
川岸に生えてる あれさ
あんた よく知ってるねえ
それほどでもないけどさ
木の名前ってすぐに忘れるんだよな
生活に直接関係ないからね
知らなくったって
生きていかれらあ
そんなとこいって
あんた
また
夕涼みに
来たんじゃないの
おおきな
おおきな欅の樹の下に
座椅子なんか
持ってきてさ

 このやりとりがいいねえ。
 八木の「生活」を長田が言い直している部分がいいねえ。
 八木にとって「生活」とは、たぶん金を稼いで、食べて、いのちをつないでゆくこと。「生計」という意味でつかわれている。たしかに「生計」を立てることだけを考えると木の名前は「知らなくったって」大丈夫である。野菜や魚の名前は知っていた方がいい。けれど、木は食べないからね。
 でも長田は「生活」って「生計」とは違う部分もある、と言う。「夕涼み」をするのも「生活」。ひとは、どこかで「生計」を離れて、ぼんやりと自分を解放する。そのとき大きな木があると安心する。
 これは、ひとによって違うかもしれないが、私も大きな欅が好きである。私のふるさとの神社には樹齢二百五十年くらい(と、言われている)の欅がある。こどもの頃、隠れん坊で必ず隠れた木である。その冷たくて、ごつごつした木肌にふれると体がまっすぐに延びる感じがする。その欅の下で夕涼みはしたことがないが、木が与えてくれる安らぎというのは、とてもよくわかる。
 こういう瞬間も、「いきる」ということなのだ。自分じゃないものの存在を知り、自分ではないものと、ことばにならない「交感」をする。すべての「いきる/いのち」が触れあう場所。まじりあう場所。そういうものがどこかにある。「いま/ここ」、あるいは「生計」を一瞬忘れて、「私」というものを忘れて、「いきる/いのち」の根源のようなもと触れあう。
 このときの「私を忘れる」。そのとき「木の名前」を知らなくても忘れられるかもしれないけれど、もしかすると名前を知っている方が忘れられる。何でもいいのだけれど、たとえば「こなら/おなら/ぶな/こぶな/木五倍子」と声に出してみる。その瞬間、「声」が引き寄せるものを思い浮かべ、同時に「私」を忘れる。「私」を離れる。
 何かの名前を呼ぶことは、それを呼び寄せると同時に、「私」を忘れる、「私」を離れることでもある。「私」が「私」ではなくなり、そこにある「こなら/おなら/ぶな/こぶな/木五倍子」になる。「私」の知らない「いのち」になる。「名前」には、そういう力がある。
 長田がそう言っているかどうか、私は、熱心な長田の読者ではないのでわからない。また、八木がそういうことを書いているわけではないが、ふたりのやりとりを再現した詩を読みながら、私はそんなことを思った。
 長田の詩の(ことばの)特徴は、あるいは長田の特徴は、と言った方がいいのかもしれない。長田はたくさんことばを知っている。「木の名前」にかぎらず、いろんな本を読んでいて、いろんなことばを知っている。長田は、そういうことばを詩にたくさん引用している。
 ただ、その引用を読むと、少し不思議な気がする。
 長田はそのことばを知っているということ、あるいはそのことばが指し示している世界を読者に知らせるために書いているという感じがしない。知っていることば、自分にとって大切なことばを、十分に自分のものにした上で、それを「捨てる」ために書いているという感じがする。「捨てて」、その先の、「引用以前」の世界へことばを動かしていこうとしているように見える。「引用」されたことばが動いている、その「動きの現場」へ行くために、知っていることば(引用)を捨てる、という感じがする。
 でも、これは、私の「感覚の意見」。論理的には説明できない。
 で、「木の名前」にもどると……。
 「木の名前」をひとつひとつ正確に告げる。それは木の「いのち」を自分に正確に引き寄せることでもある。「木の名前」を呼ぶとき、その木の節や枝の形が自分の「肉体」のなかで動く。どこへ伸びていこうとしているのか、どこに根を伸ばそうとしているのか、そういうことが「肉体」として感じられる。その「感じ」をつかむために、それぞれの「木の名前」を呼ぶ。そして、その「感じ」がつかめたら、その「感じ」のなかへ入っていくために「木の名前」を捨てる。「木のいのち」、あらゆる「木」を「木」としていかしている「いのち」、「木の普遍のいのち」を別なことばで言い直す。
 大きな欅(おおきな木)には、ひとを安心させる「力」がある。人間をこえてつづいている「木のいのち」。そのおおきな「いのち」の存在が、ひとを「いま/ここ」から解放してくれる。その解放を求めて、たとえば「あんた(八木)」は欅の木の下に夕涼みに来た……。
 そんなふうに言い直す。
 いや、言い直している(そういうことばを思い出している)のは八木なのだから、このとき八木は「長田」にもなっている。「長田」になって、「生活」(いのち)というものを見つめなおしているのだろう。
 長田と八木が、ことばの「いのち」(ことばの「肉体」)として「ひとつ」になって動いている。追悼というのは、こういうことを言うんだね。


八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社
コメント
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