川口晴美『Tiger is here.』(思潮社、2015年07月31日発行)
川口晴美『Tiger is here.』の巻頭の「幻のボート」は映画「ライフ・オブ・パイ」に着想を得ている。それにつづく「コンパスローズ」にも「トレスパッシング」にも影響を窺うことができる。--というのは、まあ、いいかげんな感想である。詩を読むと映画を思い出す、というだけのことである。ただし思い出すといっても、私と川口はまったく違う映画をみたのだろうなあ、とも思う。どこがどう違うか、言えないくらいに、何かが違っている。「心理(テスト)」ということばが出てくる。「イメージ」ということばも出てくる。この「心理」と「イメージ」の結合に、奇妙な「遠さ」を感じてしまう。私は「心理」というものを信じていない。「こころ」というものの存在をそれほど信じていない。「こころ」に「理」があるとは考えたことがない。「こころ」を理解しようとして、むりやり「理」をねじ込んだものが「心理」だろう、「頭」で考えたものが「心理」であって、それは「こころ」(あると仮定して)が「こころ」を動かすための「工夫(知恵)」ではないだろう、と思う。
書かなくていいような、めんどうくさいことを書いてしまったが……。
詩集を読んで、最初に印をつけたのは「クラッシャーを夢見る」の次の部分。
ここにも、虎といっしょに漂流する「ライフ・オブ・パイ」の残像を見ることができる。「ボート」と「行き着かない」が、映画とつながる。しかし、そのあとの「もぐりこんだ……」からが、「ストーリー」を破って動いていておもしろい。
寝台(古い!)、敷布(古い!)の上で眠れないでいる。その描き方が、とてもしつこい。「まるまって」は「ぎゅっと」に重なる。「ぎゅっと」という副詞自体は「閉じる」という動詞につながるのだが、そういう文法を無視して、私の肉体は「ぎゅっと丸まる」と引き返してしまう。この逆戻りがあるためだと思うのだが「丸まる」(丸い/やわらかい)ものが、次の行で「かたく(硬い)」「こわばる」という「用言」に変わる。さらにこれが「毛羽立つ」「不実な愛撫」と変化し、「丸まる」や「閉じる」の「主語」は「私(川口)の肉体」だったのに、いつのまにか「主語」がずれてしまう。「毛羽立つ感触」はまだ「私(川口)」の「肉体」だが「不実な愛撫」のなかには他人が入ってきている。「離さない」は毛布(あるいは敷布)の感触である。「不実な愛撫」も他者が引き起こす感触である。もちろん「感触」というのは「肉体/肌」に属するものだから、「主語」は一貫しているということも言えるけれど、「私の感触(感覚)が私を離さない」というのは、「私は私の肉体を離れて存在しない」という常識を言い直したものというよりも、何か「感触」を「私」から独立させて動かすことである。
「感触」が「私」から独立して動き、それが「私」をつくっているというのは、何だか面倒くさくて、しかもねじれた言い直しである。世界のとらえ方である。
しかし「面倒くさい言い直し」が詩なのだなあ、と思う。書いているうちに(ことばを動かしているうちに)、ことばが影響し合って、ねじれ、ずれてゆき、またもとにもどり、ことば相互の関係を濃密にする。その濃密さが、そのまま「肉体」の味わっているさまざまな感覚の濃密さにつながる。それは整理しようとしても整理できない。「理」にはならない。この感じがおもしろい。この「肉体感覚」がおもしろい。
肉体は「理」にならない。「理」など気にしなくても、いま/ここに存在している。「理」をはねつけている。だからこそ、「こころ」に「理」を求め、「心理」を明確にすることで「自己」を主張しようとするのか。
眠れないのか、目覚められないのか、よくわからないが、この「不機嫌(な肉体感覚)」と「毛布(寝台?)」の関係は、「Tiger is here.」にも出てくる。その部分も私は好きだ。
「触れる」という動詞、触覚(皮膚感覚)、「ぬけ出す」という動詞。この詩では「ぬけだして」いるが、先に引用した詩では逆であった。先の詩では、「感覚」が「主役」にって「私(川口)」をつかんで離さなかった。
人間は、反対のことができる。
川口は、反対のことを書こうとしている。反対のことを書くことで、世界は完結するのかもしれない。どちらにも動いて行ける運動を内包した世界になるのだろう。
この詩のなかで、私が思わず何度も線を引いてしまったのが、
えっ、どこから? もちろん寝台からなのだけれど、この詩には「寝台(ベッド)」ということばがない。
なぜ、この一行がおもしろいかというと。
「寝台から」ということばがないので、私は無意識に「寝台から」を補ってしまう。その瞬間に、私の無意識は川口の無意識を引き受けてしまう。「肉体」がつながってしまう。毛布をぬけだすまでは、まだ、川口の肉体だったものが「足をおろします」で私の肉体になってしまう。
だから、そのあとにつづく行は川口が感じていることなのに、私の肉体で確かめることになってしまう。(私の肉体がおぼえていることを、思い出してしまう。その思い出し方が、毛布をぬけ出すときよりも「直接的」なのである。)
地面に触れながら、地面の存在と質感を感じるだけでなく、自分のあり方(やわらかくあたたかい)を知るという相互作用としての「肉体」。その相互作用そのものを思い出す。このとき、その相互作用は川口のものなのに、自分のおぼえている相互作用である。川口のことばなのに、自分のことば(おぼえていること)のように感じる。こういう自他の区別のなくなる瞬間が詩(文学/芸術)の醍醐味なのだが、それを引き起こしているのが「足をおろします」という一行なのだ。「寝台から」とことばを補って瞬間から、私は川口のことばを無意識に引き受けてしまうのである。「寝台から」ということばを補わなかったら、こういうことは起きない。
川口の詩に感動しているとき(感情移入しているとき/感情を引き受けているとき)、こういう「無意識のことばの補足」ということが起きているのだと思う。
詩集は二部に分かれていて、私は「ライフ・オブ・パイ」の影響のない(少ない?)二部の方の作品が好きだが、「足をおろします」のようなわかりやすい行と出会わなかったので(私はそれをはっきり見つけ出せなかったので)、一部の作品に感想を書いてみた。
川口晴美『Tiger is here.』の巻頭の「幻のボート」は映画「ライフ・オブ・パイ」に着想を得ている。それにつづく「コンパスローズ」にも「トレスパッシング」にも影響を窺うことができる。--というのは、まあ、いいかげんな感想である。詩を読むと映画を思い出す、というだけのことである。ただし思い出すといっても、私と川口はまったく違う映画をみたのだろうなあ、とも思う。どこがどう違うか、言えないくらいに、何かが違っている。「心理(テスト)」ということばが出てくる。「イメージ」ということばも出てくる。この「心理」と「イメージ」の結合に、奇妙な「遠さ」を感じてしまう。私は「心理」というものを信じていない。「こころ」というものの存在をそれほど信じていない。「こころ」に「理」があるとは考えたことがない。「こころ」を理解しようとして、むりやり「理」をねじ込んだものが「心理」だろう、「頭」で考えたものが「心理」であって、それは「こころ」(あると仮定して)が「こころ」を動かすための「工夫(知恵)」ではないだろう、と思う。
書かなくていいような、めんどうくさいことを書いてしまったが……。
詩集を読んで、最初に印をつけたのは「クラッシャーを夢見る」の次の部分。
夜の
寝台の敷布は壊れたボートのようにわたしのからだを乗せて
うすい暗闇に揺れて漂う
どこへも行き着かない
もぐりこんだ毛布のなかで丸まってぎゅっと瞼を閉じれば
かたくこわばった一日は小さく点になって消えていきそうなのに
肌に毛羽立つ感触が不実な愛撫のように離さない
どこへも行かせてくれない
ここにも、虎といっしょに漂流する「ライフ・オブ・パイ」の残像を見ることができる。「ボート」と「行き着かない」が、映画とつながる。しかし、そのあとの「もぐりこんだ……」からが、「ストーリー」を破って動いていておもしろい。
寝台(古い!)、敷布(古い!)の上で眠れないでいる。その描き方が、とてもしつこい。「まるまって」は「ぎゅっと」に重なる。「ぎゅっと」という副詞自体は「閉じる」という動詞につながるのだが、そういう文法を無視して、私の肉体は「ぎゅっと丸まる」と引き返してしまう。この逆戻りがあるためだと思うのだが「丸まる」(丸い/やわらかい)ものが、次の行で「かたく(硬い)」「こわばる」という「用言」に変わる。さらにこれが「毛羽立つ」「不実な愛撫」と変化し、「丸まる」や「閉じる」の「主語」は「私(川口)の肉体」だったのに、いつのまにか「主語」がずれてしまう。「毛羽立つ感触」はまだ「私(川口)」の「肉体」だが「不実な愛撫」のなかには他人が入ってきている。「離さない」は毛布(あるいは敷布)の感触である。「不実な愛撫」も他者が引き起こす感触である。もちろん「感触」というのは「肉体/肌」に属するものだから、「主語」は一貫しているということも言えるけれど、「私の感触(感覚)が私を離さない」というのは、「私は私の肉体を離れて存在しない」という常識を言い直したものというよりも、何か「感触」を「私」から独立させて動かすことである。
「感触」が「私」から独立して動き、それが「私」をつくっているというのは、何だか面倒くさくて、しかもねじれた言い直しである。世界のとらえ方である。
しかし「面倒くさい言い直し」が詩なのだなあ、と思う。書いているうちに(ことばを動かしているうちに)、ことばが影響し合って、ねじれ、ずれてゆき、またもとにもどり、ことば相互の関係を濃密にする。その濃密さが、そのまま「肉体」の味わっているさまざまな感覚の濃密さにつながる。それは整理しようとしても整理できない。「理」にはならない。この感じがおもしろい。この「肉体感覚」がおもしろい。
肉体は「理」にならない。「理」など気にしなくても、いま/ここに存在している。「理」をはねつけている。だからこそ、「こころ」に「理」を求め、「心理」を明確にすることで「自己」を主張しようとするのか。
眠れないのか、目覚められないのか、よくわからないが、この「不機嫌(な肉体感覚)」と「毛布(寝台?)」の関係は、「Tiger is here.」にも出てくる。その部分も私は好きだ。
あさ起きました
目をあけました
わたしはここにいて
どこかから
何かから逃れてきたような気がします
さっきまで触れていたはずの夢はあとかたもなく消えました
まだくるくるとまわっているような壁とてんじょう
呼気にあたたく湿った毛布は獣の皮膚のよう
脱皮するみたいにもぞもぞぬけだして
足をおろします
「触れる」という動詞、触覚(皮膚感覚)、「ぬけ出す」という動詞。この詩では「ぬけだして」いるが、先に引用した詩では逆であった。先の詩では、「感覚」が「主役」にって「私(川口)」をつかんで離さなかった。
人間は、反対のことができる。
川口は、反対のことを書こうとしている。反対のことを書くことで、世界は完結するのかもしれない。どちらにも動いて行ける運動を内包した世界になるのだろう。
この詩のなかで、私が思わず何度も線を引いてしまったのが、
足をおろします
えっ、どこから? もちろん寝台からなのだけれど、この詩には「寝台(ベッド)」ということばがない。
なぜ、この一行がおもしろいかというと。
「寝台から」ということばがないので、私は無意識に「寝台から」を補ってしまう。その瞬間に、私の無意識は川口の無意識を引き受けてしまう。「肉体」がつながってしまう。毛布をぬけだすまでは、まだ、川口の肉体だったものが「足をおろします」で私の肉体になってしまう。
だから、そのあとにつづく行は川口が感じていることなのに、私の肉体で確かめることになってしまう。(私の肉体がおぼえていることを、思い出してしまう。その思い出し方が、毛布をぬけ出すときよりも「直接的」なのである。)
床は空中にあるのですがたぶん地面につながっています
つながっているということにしています
地面というのは地上のことです
それは世界のことでしょうか
わかりません
さいしょの一歩は何度くりかえしてもむずかしい
みえない高いところから跳躍するみたい
だけどやってみればあっけなく
ひんやりしたかたいところにからだの一部分が触れます
わからない何かに触れながら
わたしはわたしがやわらかくあたたかいということを知ります
地面に触れながら、地面の存在と質感を感じるだけでなく、自分のあり方(やわらかくあたたかい)を知るという相互作用としての「肉体」。その相互作用そのものを思い出す。このとき、その相互作用は川口のものなのに、自分のおぼえている相互作用である。川口のことばなのに、自分のことば(おぼえていること)のように感じる。こういう自他の区別のなくなる瞬間が詩(文学/芸術)の醍醐味なのだが、それを引き起こしているのが「足をおろします」という一行なのだ。「寝台から」とことばを補って瞬間から、私は川口のことばを無意識に引き受けてしまうのである。「寝台から」ということばを補わなかったら、こういうことは起きない。
川口の詩に感動しているとき(感情移入しているとき/感情を引き受けているとき)、こういう「無意識のことばの補足」ということが起きているのだと思う。
詩集は二部に分かれていて、私は「ライフ・オブ・パイ」の影響のない(少ない?)二部の方の作品が好きだが、「足をおろします」のようなわかりやすい行と出会わなかったので(私はそれをはっきり見つけ出せなかったので)、一部の作品に感想を書いてみた。
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