詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

コリン・トレボロウ監督「ジュラシック・ワールド」(★★)

2015-08-12 19:36:14 | 映画
監督 コリン・トレボロウ出演 クリス・プラット、ブライス・ダラス・ハワード

 何が新しくなったのだろう。恐竜に詳しくない私にはわからない。
 海中の恐竜(?)のイルカショーみたいなことかなあ。ヒチコックの「鳥」みたいにとぶ恐竜が人間を襲うところかなあ。それとも、手なづけられた恐竜が人間のために戦うところかなあ。あるいは、最後の恐竜同士の戦いかなあ。
 登場人物、じゃなかった、登場恐竜は「個性的」(人間的)になったのかもしれないけれど、映像としておもしろい部分はなかったなあ。群衆シーンなんか、目がちかちかしてみていられなかった。CGの細部が粗いんだろうなあ。建物やヘリコプターも、おもちゃのCGだねえ。
 スピルバーグの「ジュラシック・パーク」では、なんといっても恐竜が走ってくるシーンに度肝を抜かれた。大地が波うっている。ていねいだねえ、映像のつくりが。そうか、巨体が走ってくれば、大地は震動するのか。あたりまえのことなのかもしれないが、はっと驚き、夢中になった。
 今回は、そういうシーンはあったかな? 私は目が悪いので見落としたのかな?
 しいてあげれば、手なづけた恐竜四頭をつかって、恐竜狩りに行くジャングルのシーンかなあ。しかし、これだって「スターウォーズ」の森の中のシーンの応用にすぎないなあ。
 最後の恐竜二頭の戦いなんて、私にはどっちがどっちか区別がつかなかった。「八甲田山」の高倉健と北大路欣也の区別がつかないようなものだ。これでは恐竜に感情移入できない。
 それにね。
 こういう映画の大切な要素は子どもが活躍すること。子どもの視点(知恵)が発揮されて恐竜から逃げる。そのとき観客は子どもに帰る。童心に帰る。それがないと、わくわくしない。大人のまま、こんな空想を楽しめない。「あの恐竜には、歯が何本」なんて、「オタク」の知識じゃ、大人は童心になれない。
 ほら、「ジュラシックパーク」では、子どもが逃げている途中、ステンレスを利用して自分の姿を映し、恐竜に襲わせるシーンがあったでしょ? 鏡のなかの少年を実物と思って襲ったら、ステンレスにぶつかる、というシーン。ああいう子どもの知恵が、映画のなかに大人を引き込む。
 くだらない大人の恋愛、離婚するかもしれない夫婦関係なんかではなくて。
 あ、これはこの映画だけのことではないのだけれど、私はアメリカ映画の緑の色が嫌いだ。私は緑色がだんだん見えにくくなってきているので、もしかしたら間違っているかもしれないが、南米のジャングルの緑が、どうも汚い。みずみずしくない。ほんもののジャングルを見たことがないので、勘違いしているのかもしれないが、緑に濃厚さがない。
 これもつまらない原因のひとつ。「ジュラシック・ワールド」にいる感じがしない。どこかそのへんの(?)アメリカの森。臨場感がないなあ。


 
 夏休みの三大作品(?)では「ターミネーター」がいちばんおもしろかった。なんといっても、CGの処理が古典的なスピード。速さでごまかしていない。ゆっくりみせることで、臨場感を誘っている。昔の感じがして、それがなつかしくもある。老人になったシュワちゃんの肉体のスピードにあわせているのかもしれないが、スピードが売り物の映画の逆を行っているのが新鮮だった。
                        (天神東宝1、2015年08月12日)
 
 



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小縞山いう「絵画」

2015-08-12 10:51:25 | 詩(雑誌・同人誌)
小縞山いう「絵画」(「現代詩手帖」2015年08月号)

 小縞山いう「絵画」は「新人作品」欄の入選作。朝吹亮二が選んでいる。

「うすむらさきに濡れた
 花なびらのなかに
 広大な草さむらがあり
 草さむらのあちらがわ
 佇む少女の指びが風ぜに揺れている

 書き出しの五行。奇妙な「送り仮名」がある。「花」「草」「指」「風」という基本的なというか、子どもでも知っている名詞のあとに、名詞の最後の音がひらがなで書かれている。
 どう読むのだろう。
 私は「花な」を「はな」と読んだ。「はなな」とは読まなかった。そして、「花な」を「はな」と読んだときに、私のことばのなかに何か知らないものが入ってくるのを感じた。知らないものとは、何か。そう考えたとき、目に止まったのが、

あちらがわ

 小縞山は目の前にある存在「花」だけを見ているのではない。「花」の「あちらがわ」にあるものを見ている。その「あちらがわ」が「な」になって「花」の背後から「こちらがわ」へはみだしてきている。
 タイトルに「絵画」とある。そして、詩の全体が(書き出ししか引用していないので、それだけではわからないが)カギカッコ「 」でくくられている。対象がそこにあり、それをたとえば色と形でとらえ直したものが「絵画」、それをことばで再現したものが「詩(文学)」だとすれば、「絵画」の「あちらがわ」には存在があり、「詩」の「あちらがわ」にもまた存在がある。「絵画」も「詩」も存在のすべてをとらえきれない。とらえきれないものが、「絵画」や「詩」を突き破ってあふれてくる。
 これは、しかし私の言い方が悪い。逆なのかもしれない。
 優れた「絵画」や「詩」を読むと、そこに描かれている「色/形」を超えるものを感じる。「詩」もそこに書かれている「ことば」以上のことをかってに感じてしまう。「絵画」や「詩」を突き破って、「絵画」「詩」以外のものを感じる。描かれている対象の「いのち」のようなものを感じることがある。「あちらがわ」から何かが「こちらがわ」へはみだしてくるのを感じる。
 こういう瞬間のことを小縞山は「花な」というような表記で表わそうとしているのかもしれない。
 これは「絵画」に限って言えば、たとえば「輪郭」をはみだす「色彩」のようなものかもしれない。私の好きな画家、ピカソに「女の顔」という絵がある。白を主体とした女の顔が描かれている。背景はブルー。女の顔には黒い線の輪郭があり、頬の白はその輪郭をはみだしている輪郭が頬の内側に入り込んでいるといえばいいのか。この、一種の「乱れ」が、女の「いのち/肉体」の強さを感じさせる。「輪郭」をはみだしていく「色」として、「輪郭」ではとらえきれない存在の力を感じさせる。
 そんなことも思った。
 その不思議な「はみだし」とどう向き合うか。

嫋やかに喩の花なびら
毟られて色彩(ペールトーン) 滲みはじめる
虚ろさの透明の縫跡へ
少女は爪めをたて
降るはずのない雨めを望み
届かない空らを裂こうとした

 小縞山は「はみだし」とは言わずに「滲みはじめる」と「滲む」という動詞をつかっている。「あちらがわ」から「ことらがわ」へ「滲む」。その「越境」。
 その「越境」とどう向き合うか。
 「喩」とか「色彩(ペールトーン)」とか、あるいは「虚ろ」とか「透明」という具体的ではないことばと対比させることで、小縞山は向きあおうとしているように見える。
 これは、私には、残念な感じがする。後半は引用しないが、「はみだし/滲み」がもっている力が、徐々に、「存在」そのものの力ではなく、「観念」あるいは「概念」に変質していくような感じがする。言い換えると、小縞山が「肉体」で感じたものではなく、「頭」でとらえたもの、さらに言い換えるなら「頭」でおぼえたことばによって全体をととのえようとしているように感じられる。「越境」が取り締まられている感じがする。
 「境」を超えてやってくるものは、「こちら」を犯すのか、あるいは「こちら」を豊かにするのか。「取り締まる」ときは「犯す」ものを許さないという規制が働いているのだが、何か、そういう「頭の権力」のようなものが感じられる。
 「色彩(ペールトーン)」というのは、私の印象では、とても「いやらしい」ことばだ。ふつうのひとは、そんな具合には言わないだろう。「色ろ」となぜ書かなかったのだろうと思ってしまう。
 「透明」ということばが、また「いやらしい」。「滲む」というのは「透明」とは違う動き(動詞)だろう。「不透明」あるいは「あいまい」が「滲む」という「動詞」には似合うと思う。
 「花な」「草さ」というような表記は表記であるかぎりにおいて「透明」(明晰)である。「漢字+ひらがな」として識別されてしまう。その「輪郭(境界)」を越境する力、それを「滲む」という力で乗り越え、「境界(輪郭)」をなくすところまでゆけたらとてもおもしろいのになあ、と思った。そうしたことをやってもらいたいなあ、と期待している。

現代詩手帖 2015年 08 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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