詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岬多可子『飛びたたせなかったほうの蝶々』

2015-08-21 10:23:38 | 詩集
岬多可子『飛びたたせなかったほうの蝶々』(書肆山田、2015年08月15日発行)

 岬多可子『飛びたたせなかったほうの蝶々』のなかでいちばん印象に残ったのは、

そして あんなに 汚れていても
吐物 あれが
ひとの内側にあったもの

 という三行である。「駅前広場」の(冬)に出てくる。このあと詩は、

じきに 乾いて
飛び散ってしまう そのなかに
すこし
赤いものも 混じって 見えた

 とつづく。この四行も、私は気に入っている。
 ただし、この二連のことばが岬の詩を代表しているかどうか、よくわからない。岬の詩のなかでは異質な部分かもしれない。

 最初の三行。これが印象的なのは「吐物」をもういちど「肉体」の「内側」にもどしているからである。「吐物」は、すでに外にある。それを、時間を逆転させて、「肉体」の「内側」にもどしている。そうすると「汚れ」が逆転して「汚れ」ではなくなるように感じられる。ほんとうは美しい。けれど「肉体」の外に出てしまったために「汚れ」になっている。同じものが「肉体」の「内側」と「外側」では違ったものになっている。そのことが印象に残る。
 そういう「意味」と同時に、そうした「意味」にたどりつくための「径路」もおもしろい。「汚れていても」の「……しても」のなかには、「汚れ」を否定する何かが含まれている。「……していても、……ではない」という「構文」がある。その「構文」をそのままつかうのではなく、「吐物」という主語を「あれが」と言い直すことによって「……」の部分を微妙にずらしている。言い直しによって、「吐物」を「吐物」ではないものにしている。「吐物」と「あれ」は同じものをさすのだけれど、強引に「吐物」から意識を引き剥がしている。その引き剥がしのなかに「否定」があって、その「否定」が絶妙に働いている。

 最終連にも、対象への「接近」と「引き剥がし」が微妙に絡んでいる。
 「じきに 乾いて/飛び散ってしまう」というのは空想である。その空想には「時間」が絡んでいる。前の三行では「時間」は「吐物」から「肉体の内側」へと逆に動いた。ここでは「いま」から「未来」へとふつうに動いている。
 時間の動きの方向は反対なのだが、おもしろいのは、対象への接近の仕方に「時間」が関係していることである。岬の詩には何か物語めいた要素があるが、それは岬が対象に近づいていくとき(あるいは見つめなおすとき)、その「過程」を「時間軸」の移動そのものとしてとらえるからだろう。
 岬にとって「対象の変化」とは「時間の変化」としてとらえられるもの、ということになる。
 また、その「時間の変化」は、必ずしも一直線状を動くわけではない。
 「吐物」から「肉体の内側」へは「いま」から「過去」への動き、「乾いて/飛び散ってしまう」は「いま」から「未来」への動き。そして、そのあとの「赤いものも 混じって 見えた」は「見えた」という動詞の時制が明確にしているように「過去」である。「いま」から「未来」へと動いたはずの時間は、ここで突然、逆転する。
 そして、この「時間の動き」の「逆転」の「起点」に「そのなかに」の「その」が重要な働きをしている。「吐物 あれが」の「あれ」と同じように、「吐物 そ(れ)のなかに」という構造である。対象を指示代名詞で、いったん切り離す。宙ぶらりんにする。そのあとで「時間」の向きを変える。

 こうした「指示代名詞」のつかい方が、ふつうのことであるかどうか。私は、少し変わったつかい方だと思う。散文では、「指示代名詞」は前にでてきたことばを引き受けながら、先へ先へとことばを動かしていく。けれども岬は「指示代名詞」でいったん立ち止まり、逆戻りする。ことばの動きの向きを変えさせる。この「向きの変更」から、岬の詩ははじまる、といえるかもしれない。
 詩集のタイトルになっている作品「飛びたたせなかったほうの蝶々」の前半。

途中 投函するつもりで
葉書は二枚 持って出た。
ポストの口で 突然の思いが湧き
一枚はそのまま持ち帰った。
血の豆のようなものが あらわになって
それを かたくにぎりしめてきた掌だったが
こうなっては。
その日の午後
わたしたちの世界は
大きく狂おしく 破壊された。
切手は 可憐に飛びたつ 春の蝶々。

 七行目の「それを」ということばを起点にして、「事件」が動く。「世界」がそれまでのものとは違ったものになる。「向き」がかわる。「出た」「帰った」という逆方向の肉体の動きの中心に「それ」があり、そこからいままで存在しなかった「時間」が動きはじめる。「その日の午後/わたしたちの世界は/大きく狂おしく 破壊された。」は、それまで思い描いていた「過去-いま-未来」という「時間」のなかの「世界」が違ったものになったということだろう。

 このことを逆な言い方で言い直してみると……。
 岬の詩のことば、場面の転換点に「指示代名詞」を補うと、岬のことばの動きがより整然と見えてくる。
 たとえば「島」。 (括弧内は、私が補った指示代名詞)

巨きな水槽に浮遊しているものは
黒さだろうか愚かさだろうか
あなたわたしの ときどき白い玉もあるが
魚と同じように熱せられ捨てられた眼球だろう
骨の破片や衣類の切れ端なども混じっているだろう
「その」満たされた液体はとても粘性を帯びていて
なにもかも浮沈はひじょうにゆるやかだ

 「浮遊しているもの」から「浮遊」をささえる「液体」への転換。それにあわせて「浮遊」が「浮沈」へと「向き」を変える。そうして世界が充実していく。詩が濃厚になっていく。
 この引用の少し後に「その水槽に巻き込まれてしまったあなたわたし」という形で指示代名詞は繰り返され、「液体」からさらに「あなたわたし」へと主題の向きがかわる。

 岬のことばには、見かけは飛躍が多いが、どこか粘着質の部分がある。ねっとりとまとわりついてくる感じがある。風が通りぬけるようなさっぱり感じがない。それは「指示代名詞」(書かれないこともある)を中心にして、ことばが動いているからである。「指示代名詞」を中心にして、ことばの向き(時間の動きの向き)が対立し、そこに何かをひきずるような感じの重さが生まれるからだと思う。

 こんな書き方では岬の詩の魅力を紹介することにはならないかもしれないが、私は、人間とことばの関係(どんなことばを中心にして、その詩人が詩を書いているかということ)に関心があるので、こういう文章になってしまった。

飛びたたせなかったほうの蝶々
岬多可子
書肆山田
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