詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リューベン・オストルンド監督「フレンチアルプスで起きたこと」(★★★+★)

2015-08-03 09:25:52 | 映画
リューベン・オストルンド監督「フレンチアルプスで起きたこと」(★★★+★)

監督 リューベン・オストルンド 出演 ヨハネス・バー・クンケ、リサ・ロブン・コングスリ

 この映画はこんなふうに紹介されることが多い。「スウェーデンの一家がフレンチアルプスにスキー旅行にやってくる。昼食をとっていたとき、目の前で雪崩が発生する。大丈夫と言い張っていた父親が、子どもと妻を置いてひとりで逃げ出してしまう。そのことが原因で家族がばらばらになってゆく」。
 そう説明するのがいちばん簡単なのかもしれないが。
 私は子どもの描き方がとてもおもしろいと思った。子どもは父親が自分たちを守ってくれなかった、ということに対してだけ怒っているのではない。そこが妻の態度とは大きく異なる。妻は家族を守るべき父親が自分たちをほうり出して逃げた、ということに対して怒っている。
 子どもたちは、少し違う。
 雪崩のあと、ホテルへ帰ってきてからの態度がまず微妙。母親にも反発している。母親といっしょになって父親を批判するわけではない。母親が子どもたちへの気遣いをみせたとき、子どもたちは「ほっといて」とすねる。子どもは子ども同士で団結する。
 次の日、スキー場へ行く途中、息子が父親に「ママと別れないで」と言う。子どもは父親がとった態度に怒っているのではなく、両親が、子どものことを忘れて、自分たちの関係だけに夢中になっていることに対して不安なのだ。
 雪崩がおさまって、家族が全員無事だったことが確認できた。でも、そのことを両親は喜ばず、いきなりけんかをはじめてしまう。ホテルに帰ってきてもけんかをすることが先に立って、子どものことをかまってくれない。部屋に子どもを閉じ込め、廊下でけんかする。「部屋に知らない男がいる」と訴えても聞いてもらえない。(清掃係が部屋を掃除している。)パパとママが両親ではなく、男と女(夫と妻)になってしまっている。自分たちの問題で忙しくて、ぜんぜんかまってくれない。両親から捨てられた気持ちなのだ。
 両親がどんな人間であれ、いっしょにいること、自分のことを思ってくれることが、子どもにとっては大切なこと。家族が互いを大切に思うことが大事。だから、父親が泣き崩れたとき、妻は「ばかな男」という感じで冷淡に見つめているのに対し、子どもは「パパ、大丈夫だよ」と必死になってなぐさめる。いま、自分が父親を支えることができると本能的に理解して父親を抱きしめる。「ママも来て」と呼びかける。
 子どもは夫婦のかすがいというが、それ以上のものである。「パパ、ママ」と呼ぶ以外の台詞はほとんどないのだが、この呼び声の切実さが映画にリアリティーをあたえている。
 映画の大半は、男女の関係を中心に「夫婦とは」「家族とは」というようなことが、もっぱら妻がリードする形で、ホテルで出会ったカップルとのあいだで、「ことば」で語られる。主人公一家の男と女の関係が、父と母、男と女(恋人)という関係に解体(?)されながら語られるのだが、そのときの「ことば」が問題なくすごしてきた恋人のあいだにも影響をあたえる。かなり冷徹で、ブラックな笑いを誘う。そこがおもしろいのだが、ああ、スウェーデン人というのはこんなふうに何でもことばにしてしまうのかと思うと、笑うより先に奇妙に感心してしまう。「気持ち」というのは「ことば」にしてしまわないと整理がつかないものだけれど、「ことば」にするということと「声」にするということは違うだろうなあ。
 「パパ、ママ」としか言わない子どもの方が「気持ち」を確実に伝えているなあ。

 いろいろなことがあって、最後のバスで帰るシーンがおもしろかった。運転手がへたくそである。いつがけ下に転落するかわからない。不安になる。妻の方がパニックを起こし、「おろしてくれ」と叫ぶ。それにつられて乗客はひとりを残しておりてしまう。おりて歩きはじめる。歩いている途中で映画は終わる。
 映画はこのことについて何も言っていないのだが(登場人物のだれもこの行為について語ろうとはしないのだが)、これは冒頭の雪崩のシーンの逆である。妻の方が自分の本能が知らせる驚怖を抑えきれなかった。今度は妻が家族をおいて逃げたのである。バスのなかだったので、たまたま「逃げ方」が違ったが、彼女が真先に驚怖におそわれ、行動した。ひとは何に驚怖を感じるか、そのときの感じ方の違いは「定型化」できない。
 このとき、あの道を歩いている人たちは、何を思ったのか。とぼとぼと歩いている。そのとぼとぼ感、疲労感のなかにある「和解」のようなものが、とても不思議である。妻が全員を事故から救ったのか。それとも、全員がパニックを起こした女を救っているのか、よくわからない。わからないまま「一家」になって歩いている。このわからなさに★一個を追加した。わからないけれど、人間はそういうわからないことをするのもだということを、ほうり出すように描いている。そこが傑作。
                        (2015年08月02日、中洲大洋1)

 



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みちる『10秒の詩』(絵・上村奈央)

2015-08-03 06:00:00 | 詩集
みちる『10秒の詩』(絵・上村奈央)(ポエムピース株式会社、2015年06月14日発行)

 みちる『10秒の詩』を読みながら、詩が「意味」として読まれていると気づく。たとえば、

思いは涙では滲まない
きれいになるだけ

 現実には「思い」は涙で汚れるということがあると思う。何かが汚れる。それが悲しくて泣く。でも、そのことを順序を入れ換えて考えてみる。「思い」が何かで汚れる。それが悲しくて泣く。そうすると涙は「思い」を汚した何かを流し去りはしない。涙は「思い」をもとのきれいな姿にもどす。
 そして、そのとき「意味」とは何か矛盾したもののぶつかりあいである。矛盾したもののなかから「美しい」につながる「意味」を選り分け、ことばにできたとき、それは詩になる。
 「美しい意味」が読まれている。それは、読んだ人の「こころの中」にだけある。それは見えない。見えないから「ことば」を手がかりに、それを「見る」。
 それがこの詩集では「詩」と呼ばれているのもだと思う。

私は「忘れないで」とは言いませんでした
あなたが忘れてしまうこと知っていたから
あなたも「忘れない」とは言いませんでした
忘れるはずがないと思っていたから

 ここにも「忘れる」「忘れない」という矛盾がある。「知っている」「思っている」という違いもある。この違い(矛盾)が、読者に何かを発見させる。人が二人いれば、その二人の思うことは「同じ」ではない。どこかで違っている。その違いが大きくなって、ひとは別れてしまう。
 知っていること、わかっていることを、それが動いているままの形でことばにするとき、そこに「時間」が「意味」として、姿をみせる。

 でも、「意味」は何かを押しつけられるようで(美しく生きることを押しつけられるようで)、いやだなあ、と感じたら。
 少しことばを変えて遊んでみよう。

カラダは洗えばきれいになる
心だって同じ
熱い湯に長めに浸かり
泡いっぱいにしてゴシゴシこすれば
前よりも きれいになる

 これは「思いは涙では滲まない/きれいになるだけ」という詩に似ている。泣くことで、起きたことを流し去り、前に戻る。ほんとうの自分、美しい自分に戻る、ということが「意味」の、「ほんとうの意味」である。
 で、この作品、「カラダ」を「ラクダ」と言い直してみるとどうだろう。「心だって同じ」というのは、この作品を「抒情詩(こころの詩)」にするのだけれど、「こころ(自分)」を自分と無関係なものに置き換えると、どうだろう。

ラクダは洗えばきれいになる
熱い湯に長めに浸かり
泡いっぱいにしてゴシゴシこすれば
前よりも きれいになる

 なんとなく、おかしいね。さっぱりするね。「ラクダ」は、このとききっと「こころ」の象徴なのだ。比喩なのだ。
 「こころ」「思い出」というようなことばを別な存在に言い換えてみると、別のことばの楽しみ方が広がると思う。



10秒の詩 ─ 心の傷を治す本 ─
みちる
ポエムピース
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