詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

グザビエ・ジャノリ監督「偉大なるマルグリット」(★★)

2016-04-04 08:40:29 | 映画
監督 グザビエ・ジャノリ 出演 カトリーヌ・フロマル、アンドレ・マルコン

 美しいシーンが二か所。
 ひとつはハイライトのコンサートのシーン。マルグリットの音痴な歌に観客が笑い出す。その嘲笑の観客の中にあって、夫だけが「真顔」でマルグリットのことを心配してみつめている。その顔をみつけた瞬間に、マルグリットの歌が変わる。いままでの音痴とはまったく別の美しい歌声。
 これは、彼女が夫の愛に飢えていたために歌うことにのめりこんだことを証明している。何度か映画の中で、夫が冷たいということが描かれる。夫はマルグリットの財産目当てに結婚した。そのことはマルグリットもわかっている。わかっているけれど、そうではないと信じたい。夫にもっと関心をもってもらいたい。
 一瞬の美しい歌声は、まるでマルグリットがわざと音痴を装っていたのではないかと感じさせるほどである。夫に「やめろよ」と言ってもらいたかったのかもしれない。「否定」のことばであるにしろ、それが「親身」であれば、マルグリットはうれしかっただろう。そんなことを感じさせる。
 夫は、この瞬間的にあらわれた美しい歌声で何かに気づく。妻が夫の愛を求めていたことを初めて知る。だから、その後は、とても親身になる。ほんとうにマルグリットのことを心配しはじめる。マルグリットにマルグリットの歌(録音)を聴かせ、真実を悟らせるという病院の「治療方針」を聞き、それを止めさせるために故障した車を捨てて走り出したりする。
 周囲をみまわせば、みんながマルグリットの金目当てである。だれも彼女のことを気にかけてはいない。だからほんとうのことを言わない。「音痴だ」と告げて、もらえるはずの金がもらえないと困るからだ。笑わないのは「礼儀」ではなく、むしろ「非礼」ということになる。マルグリットは、そのことに薄々勘づいていただろうと思う。気づいていて、それでも他人との接触が恋しくて、利用されるのを承知で他人に利用されていたのかもしれない。
 もうひとつの美しいシーンは、マルグリットが新聞記者と仲間の詩人・イラストレーターにそそのかされて(利用されて)、下町のバーで国歌を歌うシーン。ここでも音痴に変わりないのだが、そのバーは反体制派(アナキスト)がたむろするバー。ピアノの伴奏も、ピアノをハンマーでたたき壊すという過激なもの。既成のものを破壊するのを楽しんでいる。マルグリットは、ここで「観客」と「一体」になる。「音痴」であることを、だれも非難しない。ただ何かが破壊されることを楽しんでいる。ここでマルグリットは、音楽が演奏者(歌手)のものではなく、観客のものだと知る。実感する。
 その興奮は、自宅のサロンでの音楽会とはまったく違う。サロンではみんなが楽しんでいるかどうか、わからない。バーでは、だれも真剣に耳を傾けてはいないが、楽しんでいる。
 この喜びをマルグリットは夫に語るが、もちろん夫に理解されるはずがない。夫は音楽を楽しむものとは感じていないのだ。これはサロンに出入りする他の貴族も同じだろう。
 うーん。
 この映画は、なかなか「辛辣」なのかもしれない。「音痴のオペラ歌手」を描くふりをして、冷淡な社会(人間)をあぶりだしているのかもしれない。
 キーマンは、黒人の執事だろうなあ。彼は、マルグリットの写真を撮っている。どの写真も、ほんもののオペラの衣装(金の力で買い集めた)を見につけ、オペラのシーンを再現している。そこには、しかし、周囲の貴族は写っていない。ただ彼女だけが架空の世界を表現し、ひとりでその世界を支えている。それはそのまま貴族社会の冷淡さを象徴することになる。その様子を執事は目撃し、それを他人にもわかるようにしているのだといえる。執事は、自分で現像もしている。この「現像」が、同時に、もうひとつのこの映画のキーワードかもしれない。見えなかったものを見えるようにし、さらにそれを定着させる。それが「映画」である、ということを語らせているのかもしれない。
 実際にいた「音痴のオペラ歌手」からヒントを得てつくられている映画らしい。なぜ「音痴のオペラ歌手」が愛されたか。ひとつは、おもしろいから。ひとつは、音痴を気にせずに歌うエネルギーに圧倒されたから。(これに類することは、詩人・イラストレーターがマルグリットを評して言っている。)それ以外に、観客は、その「音痴のオペラ歌手」の声に、愛を求める切実なさびしさを感じ、共感していたのかもしれない。マルグリットの姿を重ねると、そう思えてくる。
 ひとはだれでも愛を求める。そして、それはさびしいことでもある。このさびしさを語ることはむずかしい。映画は淡々と、わざと「章」仕立てにして、これが現実ではなく「物語」なのだと強調している。「物語」からどんな「現実」を引き出すか、を観客にまかせている。フランス映画らしい「意地悪」な作品である。
                      (KBCシネマ2、2016年04月03日)





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