詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則「とおい曠野」

2016-04-20 09:54:44 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「とおい曠野」(「交野が原」80、2016年04月01日発行)

 松岡政則「とおい曠野」は、ことばが激しく動く。

日本資本の黄燐燐寸工場はない
「満蒙開拓青少年義勇軍」の
まだどこかおさない聲もきこえてこない。
粛静の痕跡も
改革開放へのとまどいも
ない。そんなものはどこにもない

 「満州」を尋ねて旅行したときのことを書いているだと思う。知らない土地なのだが、知っていることもある。しかし、そこには「知っていること」が「ない」。「知」の否定。ここから松岡のことばは動きはじめる。

朝から歩きまわっているともうどっちが北なのかもわからない

 「知」の否定。「ない」は「知」を「失う」ことでもある。「わからない」は「知っているものがない」ということ、「知っている」ことを「失う」こと。
 そうすると、人間には何が残るか。

リラの花、リラの花
あしもとで迷っているひかり。

 「知」ではなく、「現実」が残る。「現実」が残るといっても、まあ、そこには「知」もあるのだけれど。花が咲いている。「リラ」とわかる。「リラの花」と言って、もう一度「リラの花」とことばで確かめなおす。「知」の取り戻しと言えるかもしれない。しかし、この「知」は「日本資本の黄燐燐寸工場」と比較すると、少し意味合いが違う。「日本資本の黄燐燐寸工場」は「歴史」。「リラの花」は「歴史」とは無関係の「現実」。「リラの花」は「自然」。
 その「自然/現実」と結びついた「知」が松岡の「肉体」を目覚めさせる。「知」ではなく「肉体」が動きはじめる。
 「あしもと」ということばのなかに「肉体」がある。その「肉体」のそばで「迷っている」のは「ひかり」なのか、それとも松岡自身の「思想」なのか。

ずっと異語の声調ばかり聞いていると
なんでか辛いものが喰いたくなる
その土地のことはその土地のものを喰って
まずは舌で知るのが信条だ
 
 「聞いている」という動詞のなかには「耳」がある。「リラの花」を見たのは「目」。それから「喰う」という動詞がでてきて「口/舌」が加わる。それが「知る」という動詞へと変化していく。「頭」が失った「知(歴史的知識)」はそのまま捨てて、「肉体」が「肉体」でつかみとれることをつかみとる。「舌で知る」というのは慣用句だけれど、ここには、慣用句だけが持っている「強い」ものがある。「肉体」の共有がある。
 それがとても魅力なのだが。
 ここではもうひとつ、別のことをつけくわえておきたい。

なんでか辛いものが喰いたくなる

 この「なる」がとても強い。
 「ない」「ない」「ない」とつづけて読んできて、「わからない」にたどりついた。「わからない」は「わからなくなる」でもあるのだが、その「知」を「失う」という変化のあとで、「喰いたくなる」。この「なる」は「失う」とは逆。何かが「生まれてくる」感じ。
 これが、この詩の、松岡の「思想」だ。「肉体」にしみついた「本能」だ。何もかも失った、それでもそこからなおも動きはじめる「欲望/本能」。それを「なる」ということばでとらえる。

その土地のことはその土地のものを喰って
まず舌で知るのが信条だ

 これは、「その土地のものを喰って」「その土地の肉体(舌)になる」ということである。その土地の「肉体」の動きを自分のものにするということである。まずいか、うまいか。うまい、と喰いつづけることができたとき、松岡の「肉体(舌)」はその土地で暮らすひとの「肉体(舌)」と一つになっている。肉体の共有。

「不辣不革命(唐辛子なくして革命ならず)」だ
やかましいのに静かな午後で
あそぶまねぶもひとつのことで
ひとはみなさみしい犬もさみしい
つけとどけの顔社会
消費に蝕まれた官僚資本主義
いちいち誤訳したくなる

 「肉体」は「やかましさ」と「静かさ」が同居していることを瞬時につかみとる。ものには二面性がある。様々な要素がからみあって「世界」ができている。それを「喰って」人間は生きている。両方喰わないと生きていけない「さみしい」生き物である。と、わかったような「要約」をしたくなるが……。
 そんなことより。
 「いちいち誤訳したくなる」の「なる」。ここにも「なる」が出てくる。この「なる」は「喰いたくなる」とそっくりだが、ちょっと違う。
 「喰いたくなる」は「肉体」が「喰いたくなる」。「誤訳したくなる」は「頭/知識」が「誤訳したくなる」。
 「肉体」が「土地のひと」になってしまったあと、そのあとで「頭/知識」は「その土地で暮らしているひとの頭」になる。「頭/知識」が動かすことばが、やっと聞こえてくる。「黄燐燐寸工場」ではないことばが聞こえてくる。
 「いま」が動きはじめる。

(党のいうことなどだれも信じちゃいない!
(便利になったけどそのぶん生活に金がかかるようになった!
農民工(出稼ぎ労働者)のボヤキも聞こえてきそうだ
あすは北間島の明東村へいく
星星の痛みはどうだろう
路面電車がくる
なんかかんかくる
もう当事者みたいなものだ

 その土地のひと(当事者)になっているから、その土地の「声」が聞こえてくる。これはもちろん「正確」ではないかもしれない。だから「聞こえてきそう」と仮定形で書かれているのだが、想像できるということは、それは存在する証拠でもある。「声」が聞こえている証拠である。
 その「ボヤキ」はただ「聞こえる」のではなく、松岡が「肉体」で「覚えている」から聞こえるのでもある。日本も、そうだった時代がある。そのことを松岡は「肉体」で知っている。そういうことばを周りの人から聞いたことがある。それが、いま「聞こえてくる」。このとき、松岡の「肉体」を通して、その土地の人と、松岡の知っている「日本の肉体/歴史の肉体」が重なる。
 最後も、とってもいいなあ。
 「星星の痛みはどうだろう」という抒情が鮮烈。さっぱりしていて、あ、大陸と感じさせる。
 それ以上に。

路面電車がくる
なんかかんかくる

 この繰り返される「くる」がいい。「ない」から始まって「なる」になって、そのあとは「なる」をつづけるのだろうけれど、それは「受けとめながら」、松岡が変わっていくこと。「土地の人」になって、どんと構えている。なんでも「こい」という感じ。
 「くる」の前に「いく」という動詞があるのだけれど、それは単に「いく」のではなく、「いく」というのは自分一人の行動ではなく、向こう側から誰か(何か)が「くる」ということでもある。ぶつかるのである。
 一方的に「いく」とき、向こう側は衝突をさける。身をかわす。よける。知らない土地では、土地の人が旅行者を避けるでしょ? けれど、土地の人なら、避けはしない。「くる」。来て、衝突する。それは「触れあう」ということなのだが。「ほっといてくれ」と言いたいときも「ほっておかない」。どうしたってやって「くる」のが、その土地で暮らすことなのだ。
 わずか30行ほどの詩のなかで、松岡はここまで変わってしまう。激しくて、強い「肉体/思想」がここにある。

艸の、息
松岡政則
思潮社
コメント
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