詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「寸劇」

2016-04-08 09:44:15 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「寸劇」(「現代詩手帖」2016年04月号)

 岩佐なを「寸劇」には、わからないところがたくさんある。わからないところだらけ、と言った方がいいかなあ。

ねむりのあと
まず
自らを半身に分けてから
それを自分ふたりとして
窓も出口もない部屋へもぐる
入口はあったがそこはもう
出口にはならない

 「自らを半身に分けてから/それを自分ふたりとして」。これは「行動する人」「観察する人」なのだろう。後半を先取りして書いてしまうと「机を覗きこんでいたほうの/自らが呟く」ということばが出てくる。「ほうの」と漠然と「対比」の形で書かれている。こういうことは「わかる」部分に入るのか「わからない」部分に入るのか、とても「あいまい」だ。
 私が「わかる」と感じるのは、二行目の「まず」。これは、自分に言い聞かせる「掛け声」みたいなものだな、きっと。「まず」と自分に言い聞かせて、自分を突き動かしている。そうでもしないことには「自らを半身に分けて」というような乱暴(?)なことはできないだろうなあ、と思う。
 私は自分自身に「まず」これをして、次にこれ、という具合に言い聞かせるようなことをしない。めんどうくさがりやだから、「まず」なんて言わない。だから、そうか、岩佐は「まず」と自分に言い聞かせる人間なのだと、「わかる」。
 で、そのあとも「手順」がきちんと書かれている。「自らを半身に分けてから」の「から」。「まず」と同じように、このことばも岩佐が岩佐自身に言い聞かせている。「まず」も「から」も、そのことばがなくても、起きていることに違いがあるわけではない。「まず」も「から」も岩佐が岩佐の行動を認識する、その「認識」の行為として必要なことばである。
 「それを自分ふたりとして」も「それを」という限定の仕方、「……として」という言い方、そこに不思議な窮屈さ(論理へのこだわり)がある。
 その「論理」へのこだわりが「入口はあったがそこはもう/出口にはならない」に凝縮する。「入口」を「出口」としてつかうのは、ふつうの「部屋」のつかい方。入ってきたドアから出て行くというのはありふれた行為。それを、わざわざ「出口にはならない」と否定する。それがほんとうかどうかは問題ではない。岩佐が、そういうふうにことばを動かしているということが、「わかる」。
 ぐいぐい、ぐいぐい、とことばを押して動いていることがわかる。
 「入口」があって「出口」がないと、どうなるか。

つきあたりに机があり

 あ、ここは「うまい」なあ。ことばを自然に「入口」とは反対の方向へ動かしていく。「つきあたり」が「出口にはならない(出口がない)」という感じとぴたっと重なる。「つきあたり」と「つくえ」の「頭韻」の感じも、とても美しい。きっと、こういうことにこだわってことばを動かしているんだなあ、と「わかる」。
 この「わかる」はもちろん「誤読」である。

そこで過去のある正月には
書初めだってしたものだ
きょうは水も墨も硯も筆もない
利き手の人差指で
机の皮膚をこする
「愛情とか記憶とか頼れるものはないんだよ」
もちろん
筆跡は残らない

 机→書く→書き初めという具合にことばは動いているのだろうけれど、そんな思い出よりも「利き手の人差指で/机の皮膚をこする」という皮膚感覚がいいなあ。「こする」というと、「なぞる」よりも力がこもっている感じがする。
 どうでもいいようなことを書いているようで、そのことばひとつひとつに力がこもっている。力をこめている、ということが、そういうところからも「わかる」。
 何のために「力を込めて」ことばを動かしているのか、それはぜんぜんわからないのだけれど、ともかく「力を込めて」ことばを動かしているということだけは「わかる」。
 「もちろん」は二行目の「まず」と同じように、「無意味」なことば。岩佐にとっては書く必要があったのだろうけれど、読む側からすると「もちろん」があろうがなかろうが、指で書いた文字など、机の上に残るはずがないことはわかりきっている。どんなに力をこめて、机の上をこすろうとも。
 読者には不要。もし、ここに書かれていることを要約することがあったとしたら、そのときは省略されることばが「まず」とか「もちろん」である。しかし、岩佐には、その「まず」や「もちろん」が必要なのだ。「まず」とか「もちろん」というのは、ほかのことばで言い直す必要がないくらい誰にでも「わかる」ことばだが、それがなぜそのひとに必要なのかは「わからない」ことばである。だから「要約」のときは省略されるのだが、私はこういうことばに、なぜかつまずく。「手触り」というか「肉体」を感じてしまう。そこに筆者が「いる」と感じてしまう。
 「省略」できない。

この頃だからこそ
大切に感じている
漢字ひとつ
逆さまの書き順で
書いてみる
すると
文字だけでなく
あたりもわが身も
よみがえってくる気がする
いち、にっ、さん、
秒が過ぎれば過ぎるほど
気がした気が薄れていく
もちろん
筆跡は残らない

 「大切に感じている/漢字」が何を指しているのか「わからない」。
 けれど「だからこそ」の「こそ」にこだわりを感じるし、「すると」という「論理」の展開の仕方(あくまで「論理」としてことばを動かそうとしていること)、さらにもういちど「もちんろん」とつけくわえる生き方(ことばの動かし方)が、この詩での岩佐なんだなあと「わかる」。
 いったい、何してる?
 誰かを見て、そう思うことがあるね。やっていることは、「わかる」。だから「何してる?」と思うときの「何」というのは、ほんとうは「行為」そのものではなく「理由」だ。「理由」というのは「その人の論理」でもある。
 岩佐は何かしら、岩佐自身の「肉体」のなかにある「論理」に突き動かされている。それは、結局何なのか、私には「わからない」が、妙に「論理」にこだわっていることだけは「わかる」。「肉体」のなかにある「論理」へのこだわりが、変な形(?)でことばの「論理」に反映している。反映させる必要がないのかもしれないけれど、反映してしまっている。
 「気がする」→(気がした)→「気がした気が薄れていく」というのを「秒が過ぎれば過ぎるほど」という「時間」を挟んで書くところが「入口はあったがそこはもう/出口にはならない」という「論理」の展開と奇妙に重なって感じられる。
 そういう「論理」の一方で、

いち、にっ、さん、

 この一行は、「意味」的には、次の行の「秒」をあらわしているのかもしれないけれど、「わが身」の動きにも見えるねえ。いや、私は「秒」とは読まずに、「わが身」の「よみがえり」(元気な感じ/欲望が充満してくる感じ)と読んだのだけれど。
 「利き手」「人差指」「愛情」「わが身」なんてことばがつづくと、なんとなくセックスを想像しない? 「さかさまの書き順」さえ、まるで下半身(性器)に触れた指がだんだん上半身へと動いてくる(動かしていく)感じが、私にはしてくるんだけれど。
 ただ、そうするとセックスは始まらないで、終わってしまう。

「ああ」
(そんなものさ)と
机を覗きこんでいたほうの
自らが呟く
そのもの言いは
白くもなく赤くも
青ざめてもなく
むりもなく
なにも
(幕)

 「なく」と「幕(まく)」が韻を踏んで終わってしまう。
 いったい何の「寸劇」だったのだろう。「窓も出口もない部屋」を女の肉体と読みたい気持ちが私にはあるのだが、そしてそこからこの詩を読み直すと色っぽいかも、(ただし中上健次の色っぽさではなく、どちらかというと吉行淳之介の弱々しい色っぽさ)、と思うけれど、私の「想像」はこれ以上書いてもしようがないので、省略。
 奇妙に「論理」にこだわってことばを動かしていく、そのことばの奥で「肉体」が拮抗するようにめざめる方向へ動いている。そのぶつかりあいがおもしろいなあと思った。
パンと、
岩佐なを
思潮社
コメント
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