詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』

2016-04-28 08:55:20 | 詩集
野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』(水声社、2016年04月15日発行)

 野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』も縦書きと横書きの詩で構成されている。縦書きの方は「AM:」、横書きの方は「PM:」でまとめられている。
 縦書きの方は30ページまで、横書きの方は40ページまで読んだところ。
 途中だが、思いついた感想を書いておく。
 私は目が悪いので、最後まで読むかどうかわからない。
 一度、ある人の詩集について、こんなふうに途中まで呼んで感想を書いたところ、「途中で読むのをやめて感想を書くのは許せない」と叱られたことがある。そのひとからは、別の短い詩について感想を書いたところ「読むのは勝手だが、感想は書くな」とさらに叱られた。
 ふーん。
 「論文」や何か「結論」のあるものならば、最後まで読まないと「感想」がとんちんかんになるかもしれない。前半の部分は否定するための「材料」ということがあるかもしれない。しかし、詩は、(あるいは他の文学、小説なども)、最初から最後まで読まないといけないということはないだろう。途中途中を読んで、あれこれ思えば、それで充分だろう。だいたい最後まで読んだときの「感想」が正しくて、途中までの「感想」が間違っているというのも、奇妙な考え方だ。途中まで読んで書いた感想がいちばんいきいきしている。最後まで読んでしまうと、読み疲れで「感想」がいいかげんになるということだってある。
 
 余分なことを書いてしまったが。
 
 「AM:」を30ページまで読んで思ったことは、前の詩集『久美泥日記』(書肆山田)について書いた「あるいは」ということばをつかった多様性がここでもおこなわれているということ。(23ページから24ページにかけて。)
 同じことを書いてもしようがないと思うが、また書く。書いているうちに、少しは違ったことが書けるかもしれないと思う。なるべく、前回書かなかったことを書きたい。
 「第一パート(彼あるいは私)」の最後の部分。

シセツに静かに無脊椎が降る、

あるいはこうだ、

シセツに静かに無脊椎が降る、
シセツに無脊椎に静かが降る、
静かに無脊椎にシセツが降る、
静かにシセツに無脊椎が降る、
無脊椎に静かにシセツが降る、
無脊椎にシセツに静かが降る、

 「あるいは」は各行のあいだに省略された形で存在する。「あるいは」によって、それが増殖していく。でも、ここには何が書いてある? 「意味」を特定できることが書いてあるだろうか。そもそも、「シセツ」「静かに」「無脊椎」ということばが「降る」という動詞の前で入れ替わることで、「意味」や「内容」が「変わる」ということはあるのか。
 この「問い」の立て方は、「正しい」とは言えないなあ。何が「正しい」ということが問題かもしれないけれど。「多々示唆」を求めることが間違いということもあるかもしれないし。
 だいたい「あるいは」ということばをつかったときから、「正しい」ということは、もう存在しない。「あるいは」は「どっちでもいい」といういいかげんを含む同時に、「どっちでもなければならない」という必然をも要求してくるものなのである。入れ替えが可能なのではなく、入れ替えを必然として読み直さなければならないのが「あるいは」なのである。
 「あるいは」を「あるいは」をつかわずに書くとどうなるか。
 8ページから9ページにかけての部分。

巌がみえた、巌がみえた、

その話をたどたどしくととのえ、訂正し、省略し、つけ加え、その結果いくぶんかは否められ、またいくぶんかはなまなましさを失ったものとして彼に送り返していった私と、それを聞いてあるときは頷き、あるときは拒み、またあるときは笑いやあくびや無表情でそれをつつみ隠そうとした彼とが、いわば物語ることを共犯性を軸に際限もなく渡りあい、かさなりあい、転化しあい、帰還しあい、あとずさりしあい、場合によっては軸に沿ってのぼりつめ、突きたち捩れ、絡みあいつつスパイラルを成しさえしたのだった、
 
 「ととのえ、訂正し、省略し、つけ加え、」は「ととのえ、あるいは訂正し、あるいは省略し、あるいはつけ加え、」であるし、「渡りあい、かさなりあい、転化しあい、帰還しあい、あとずさりしあい、」は「渡りあい、あるいはかさなりあい、あるいは転化しあい、あるいは帰還しあい、あるいはあとずさりしあい、」である。ここには「あるいは」は省略されている。
 別のことばというのは「あるときは頷き、あるときは拒み、またあるときは笑い」の「あるとき」のことであり、その「あるとき」は「あるいは頷き、あるいは拒み、あるいは笑い」であると言い換えが可能である。言い換えると「あるとき」が「あるいは」であることが明確になる。
 と、いいたいのではない。
 こういう「目先」の「多様性」は、どうでもいい。

いわば物語ることを共犯性を軸に際限もなく渡りあい、

 ここに出てくる「共犯性」、あるいは「共犯」ということばこそが、「あるいは」なのである。
 ひとつの視点でとらえた「世界」へ、そのまま入っていくのではなく、さまざまな言い直しで語られる「世界」へ、読者は入っていく。そのときどのことばを通って入っていくかは読者に任されている。どのことばを通ろうが、そのことばを「通る」ということが「共犯」なのである。
 「世界」を分け持ってしまう。
 「あるいは」と言い換えるときから「共犯」が始まる。「あるいは」を通って「一つ」が「複数」になり、この「複数」が「他者」を要求する。「ひとり」が同時に「複数」のことをできない。「複数」のことを同時にするには「複数の人間(他者)」が必要である。その「複数」が「ことば」を通して「共犯関係」をもつ。言い換えると、野村のことばは「共犯者」になることを要求してくる。その要求が「あるいは」に含まれている。
 「シセツに静かに無脊椎が降る、」のさまざまな言い換えは、単なる言い換えではなく、言い換えることで「共犯」を広げているのである。「どっちでもいい」のではなく「どっちか」を選ぶことで、そのままことばの犯罪(詩)に組み込まれ、加担してしまうことになる。
 「論文」ではないから、そこには「結論」はない。「結論」はないかわりに、「共犯」(犯罪への加担)がある。犯罪者になりたくなかったら、ことばを読まないという方法をとるしかない。ことばを書かないという方法をとるしかない。
 30ページ以降「共犯」ということばが出てくるかどうかわからないが、たぶん出て来ないだろう。「キーワード」というのは筆者の「肉体」のなかに深く組み込まれていて、ほんとうは表に出て来ない。何かの拍子に、あることがうまくいえないときに、しかたなしに出てくるのが「キーワード」である。
 で、共犯であるから、

シセツに静かに無脊椎が降る、
シセツに無脊椎に静かが降る、
静かに無脊椎にシセツが降る、
静かにシセツに無脊椎が降る、
無脊椎に静かにシセツが降る、
無脊椎にシセツに静かが降る、

 誰が(何が)主語、誰が(何が)述語であるかは、関係なくなる。「静かに」という「形容動詞」さえ「主語」の位置にくることもある。
 ここで私の「欲」を言えば「静かに」は「形容動詞」なのだから「静か」という「名詞」に変化するのではなく、「動詞」に変化する方がもっと「共犯」関係が複雑になって楽しくなる。
 だから、私はひそかに「静かに」を動詞にしながら別のバージョンも考えるのである。さらに「シセツ」や「無脊椎」を「動詞」に言い換えるとどうなるかを含めて、「共犯」を楽しむ。具体的にどうなるか……というのは、これは、まあ、私の秘密。「共犯」のふりをして、夢想のなかで「主犯」になって楽しむ。

 「PM:」の方では

「午後の/脳/の/蝋の」が「「午後の/脳/の/牢の」「午後の/脳/の/聾の」「午後の/脳/の/雹の」「午後の/脳/の/塔の」という具合に「韻」を踏んで共犯関係をつくっている。
 「あるいは」は、どちらかというと「論理的」。「韻」の方は「論理」を無視した「飛躍/切断」。「切断/飛躍」が鮮明という点では「韻」の方法の方が詩なのだろう。しかし、私は「あるいは」の方が野村のエネルギーが充満しているようで好きである。
 それに、私は「韻」というものが、とても苦手で、あることばがあることばと「韻」を踏んでいると考えることが嫌いなのである。「韻」が好きなひとは、「PM:」がおもしろいかもしれない。






よろこべ午後も脳だ
野村 喜和夫
水声社
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