野村喜和夫「第十八番(ドキュマン--料理法)」(「GANYMEDE」66、2016年04月01日発行)
野村喜和夫「第十八番(ドキュマン--料理法)」は「シンラ第一章」のなかの一篇。文字通り「料理法」が書かれている。
このことばを「詩」にしているものは何だろう。
「BGMはグレゴリオ聖歌か何か」ということばは、この全体のなかにあって、異質である。いわゆる「手術台の上のミシンとこうもり傘の出合い」のようなもの。その瞬間、世界が異化される。たしかに、そこに「詩」はあるかもしれないが。
でも、私はもっとほかの部分に「詩」を感じる。
ことばのリズムに、その長さに。言い換えると「饒舌さ」に。「BGMはグレゴリオ聖歌か何か」も「異化」作用を狙っているといえばいえるのだろうけれど、「饒舌」と「余剰」が基本である。言い換えると、「BGM」に「グレゴリオ聖歌」を流そうが「椎名林檎」を流そうが、料理の味が変わるわけではない。「料理法」そのものに「詩」を感じさせるなら、その材料によって「味」がかわらないといけない。こういう「味」そのものに関係のないところに、いくら「気を引く」ことばがあっても、それを私は「詩」と呼びたくはない。
言い直そう。
私はあまり料理をしないが、この「料理法」の書き方は、想像力を刺戟はするが、手順としてはいささかめんどうくさい。なぜ、めんどうくさいかというと、ことばが長いからである。
これは、
の方が「手順」としてわかりやすい。「動詞」は一行ごとに完結するのが「料理」の基本である。なれてくると、いくつもの「動詞」が連続していくが、そのころになると「レシピ」は不要である。頭に入っているからである。
も、
の方が「手順」がすっきりするだろう。
でも、野村は、そういう具合に書かない。「料理」をつくる気がないというか、「料理法」を伝えたいという気持ちよりも、いろいろなことばをたどるという「迂回(寄り道)」の方が詩だと感じているからである。「料理法」は詩を書くための「材料」なのだ。「料理法」を材料に詩を書こうとしているからだ。
豚の頭は、いささかグロテスクである。それを食べることを想像すると、その前に生きている豚の姿が浮かんできてしまう。「外皮に残っている毛」というのは、その生きている姿をさらに呼び戻す。「残っている」は、まるで「生き残っている」という感じだ。この「不必要なもの/余剰」を呼び起こすのが詩である。「生き残っている」から「ばーなー」で「焼く」。このとき「焼く」は「焼き殺す」という感じがする。
こういう「かすかに」残っているものを呼び出しながら、殺しながら、動いていく。一行一行手順を踏んで、行為を捨てていくというよりも、手順の奥から「生き残っている」材料の気配を呼び出し、ひきずりながら動いていくリズムそのものに「詩」がある。
「リズム」は「長さ」と同時に「動き方」のことでもあるのだ。「時間」の動き方に「詩」があるのだ。
二連目と三連目の「切断/接続」には、特にそういう感じがする。
ほんとうの「レシピ」では、こういう書き方をしないだろう。
私なら、
と書くかわりに、
とするだろう。野村のレシピでは、茹であがったあと、あ、味付けがいる、ニンニクを刻まなければ……とあわててしまう。「レシピ」は材料の紹介と同時に「段取り」の紹介でもある。
野村は「手順/段取り」を無視している。
というより、あえて「手順/段取り」をひっくりかえすようにしている。先へ進むときに、いったん過去へもどるのである。
豚の頭を二つ割りにしたあと、「(生き)残っている毛を思い出させる。豚の頭が茹であがったあと、その前に準備しておかないといけないものを思い出させる。ニンニクなどをみじん切りにしている間に頭が冷えてしまうと、まぶそうにもまぶしにくくなるのに。
こういう「手順/段取り」のひっくりかえしの延長に「グレゴリオ聖歌」があるのだが、この「グレゴリオ聖歌」も、いわば「過去」であり、「時間/手順」のひっくりかえしである。そういう意味では、「グレゴリオ聖歌」は「定型」であるここに「椎名林檎」をもってくると「定型」は崩れる。野村のことばの運動を破壊してはいないのである。
最後の二行はとても美しい。そして、それが美しいのは、そこに書かれている「レシピ」が、まさに「レシピ」の「手順」どおりだからである。
あ、レモンを添えると味に変化が出る。レモンですっきりしたたいひとがいるかもしれない。そう思いついてつけくわえたひと手間。そこでは「時間」がストレートに動いている。「いま」のなかへ「過去」をひっぱり出さない。「いま」を「未来」へ動かし行くからである。
「料理する」から「食べる」へと「時間」がぱっと切り替わる。「食べる」を書いていないのに「食べる」喜びがそこから始まる。
野村喜和夫「第十八番(ドキュマン--料理法)」は「シンラ第一章」のなかの一篇。文字通り「料理法」が書かれている。
豚の頭は縦に二つ割りにして
外皮に残っている毛をバーナーで焼く
骨の隙間などの血や汚れは
割り箸や爪楊枝できれいに掃除する
豚の頭が入る大きめの鍋を用意して湯を沸かす
豚の頭と香味野菜のピュレを入れ 柔らかくなるまで
茹でる BGMはグレゴリオ聖歌か何か
茹でた豚の頭にニンニク、セージ、ローズマリー
のみじん切りをまぶし、塩、コショウする
直前にエクストラバージンオリーブ油をふりかけ
180度のオーブンで皮がパリッとするぐらいまで
焼き上げる 焼いた豚の頭は切り分けず
大皿に豪快に持って供する
レモンを添える
このことばを「詩」にしているものは何だろう。
「BGMはグレゴリオ聖歌か何か」ということばは、この全体のなかにあって、異質である。いわゆる「手術台の上のミシンとこうもり傘の出合い」のようなもの。その瞬間、世界が異化される。たしかに、そこに「詩」はあるかもしれないが。
でも、私はもっとほかの部分に「詩」を感じる。
ことばのリズムに、その長さに。言い換えると「饒舌さ」に。「BGMはグレゴリオ聖歌か何か」も「異化」作用を狙っているといえばいえるのだろうけれど、「饒舌」と「余剰」が基本である。言い換えると、「BGM」に「グレゴリオ聖歌」を流そうが「椎名林檎」を流そうが、料理の味が変わるわけではない。「料理法」そのものに「詩」を感じさせるなら、その材料によって「味」がかわらないといけない。こういう「味」そのものに関係のないところに、いくら「気を引く」ことばがあっても、それを私は「詩」と呼びたくはない。
言い直そう。
私はあまり料理をしないが、この「料理法」の書き方は、想像力を刺戟はするが、手順としてはいささかめんどうくさい。なぜ、めんどうくさいかというと、ことばが長いからである。
豚の頭は縦に二つ割りにして
外皮に残っている毛をバーナーで焼く
これは、
豚の頭は二つ割りにする
外皮の毛はバーナーで焼く
の方が「手順」としてわかりやすい。「動詞」は一行ごとに完結するのが「料理」の基本である。なれてくると、いくつもの「動詞」が連続していくが、そのころになると「レシピ」は不要である。頭に入っているからである。
骨の隙間などの血や汚れは
割り箸や爪楊枝できれいに掃除する
も、
骨の隙間の血や汚れは取り除く
(割り箸や爪楊枝をつかうとやりやすい)
の方が「手順」がすっきりするだろう。
でも、野村は、そういう具合に書かない。「料理」をつくる気がないというか、「料理法」を伝えたいという気持ちよりも、いろいろなことばをたどるという「迂回(寄り道)」の方が詩だと感じているからである。「料理法」は詩を書くための「材料」なのだ。「料理法」を材料に詩を書こうとしているからだ。
豚の頭は、いささかグロテスクである。それを食べることを想像すると、その前に生きている豚の姿が浮かんできてしまう。「外皮に残っている毛」というのは、その生きている姿をさらに呼び戻す。「残っている」は、まるで「生き残っている」という感じだ。この「不必要なもの/余剰」を呼び起こすのが詩である。「生き残っている」から「ばーなー」で「焼く」。このとき「焼く」は「焼き殺す」という感じがする。
こういう「かすかに」残っているものを呼び出しながら、殺しながら、動いていく。一行一行手順を踏んで、行為を捨てていくというよりも、手順の奥から「生き残っている」材料の気配を呼び出し、ひきずりながら動いていくリズムそのものに「詩」がある。
「リズム」は「長さ」と同時に「動き方」のことでもあるのだ。「時間」の動き方に「詩」があるのだ。
二連目と三連目の「切断/接続」には、特にそういう感じがする。
ほんとうの「レシピ」では、こういう書き方をしないだろう。
私なら、
茹でた豚の頭にニンニク、セージ、ローズマリー
のみじん切りをまぶし、塩、コショウする
と書くかわりに、
茹でているあいだに、ニンニク、セージ、ローズマリーをみじん切りにする
茹であっがったら、みじん切りにしたものを豚の頭にまぶす
さらに塩コショウで味をととのえる
とするだろう。野村のレシピでは、茹であがったあと、あ、味付けがいる、ニンニクを刻まなければ……とあわててしまう。「レシピ」は材料の紹介と同時に「段取り」の紹介でもある。
野村は「手順/段取り」を無視している。
というより、あえて「手順/段取り」をひっくりかえすようにしている。先へ進むときに、いったん過去へもどるのである。
豚の頭を二つ割りにしたあと、「(生き)残っている毛を思い出させる。豚の頭が茹であがったあと、その前に準備しておかないといけないものを思い出させる。ニンニクなどをみじん切りにしている間に頭が冷えてしまうと、まぶそうにもまぶしにくくなるのに。
こういう「手順/段取り」のひっくりかえしの延長に「グレゴリオ聖歌」があるのだが、この「グレゴリオ聖歌」も、いわば「過去」であり、「時間/手順」のひっくりかえしである。そういう意味では、「グレゴリオ聖歌」は「定型」であるここに「椎名林檎」をもってくると「定型」は崩れる。野村のことばの運動を破壊してはいないのである。
最後の二行はとても美しい。そして、それが美しいのは、そこに書かれている「レシピ」が、まさに「レシピ」の「手順」どおりだからである。
あ、レモンを添えると味に変化が出る。レモンですっきりしたたいひとがいるかもしれない。そう思いついてつけくわえたひと手間。そこでは「時間」がストレートに動いている。「いま」のなかへ「過去」をひっぱり出さない。「いま」を「未来」へ動かし行くからである。
「料理する」から「食べる」へと「時間」がぱっと切り替わる。「食べる」を書いていないのに「食べる」喜びがそこから始まる。
証言と抒情:詩人石原吉郎と私たち | |
野村 喜和夫 | |
白水社 |