鈴木悦男「雪夜のサラリーマンの蝶蝶」(「銀曜日」45、2016年04月30日発行)
鈴木悦男「雪夜のサラリーマンの蝶蝶」は「Ⅰ 通勤と昼休み」「Ⅱ 出張」から構成されている。その「Ⅰ 通勤と昼休み」。
出勤の電車の中、昼休みのカフェでのことが書かれている。そのなかに、「会ったはずなのに彼女を思い出せない」と「目蓋の裏に湿原が拡がり 小雨がぱらつき」ということばがカッコ「 」に括られて出てくる。なぜだろう。「胡蝶の夢」も「 」に括られているから、先にあげた「 」のなかは本(あるいはスポーツ新聞)からの「引用」かもしれない。「どこに隠れて/いたのか」「指示」も「引用」なのかなあ。
よくわからない。
そして、その「よくわからない」の「理由」を考えたとき、文体に差がないからだということに気づく。ただし、この「文体に差がない」というときの「差」とか、そう感じる根拠を説明しようとすると、なんとも難しい。ただ、私がそう感じるだけと言ってしまうと、もう何も言ったことにはならない。
あえて言えば……。
「ことばの古くささ」というか、何かしら「いま」というか、「現在」とは少し違う感じがする。「いま/ここ」ではない感じ。「胡蝶の夢」はもちろん「いま/ここ」ではないが、たとえば
これは会社のビルに入るとき、改札機のようなところにIDカードを通さないと入れないシステムのことを言っているのだと思うが、こういうとき普通は「身分証明書カード」とか「機械に照らし」という表現はきっとしないなあ。何かしら、わざと「いま」つかわれていることばを避けている、言い直しているという感じがする。
「本を携帯する」の「携帯する」というのも、意味はわかるが、そんなふうには「いま」は言わないだろう。「眠気が頂上に達する」や「軽音楽が流れている」「定刻には」も、何となく、「いま」とはずれている。そう思うと「二行ほど読む」の「二行ほど」という言い方さえ、何とはなしに「いま」とはずれている感じがする。
この「ずれ」は、ことばの「体温」の欠如というのか、「肌触り」がない感覚。
それが「会ったはずなのに……」「目蓋の裏に……」のことばの「肌触り/体温」の欠如の感じと似ている。「いま」を「本の中の世界」のように、「ことば」そのもので見ている感じがする。「目」や「肉体」で「いま」と触れているというよりも、「ことば」を通して触れている感じがする。
こんな言い方は「感覚の意見」「直観の断言」のようなもので、ぜんぜん、あてにはならないし、説明にもならないのだが。
で、飛躍して書いてしまうが、私は「肉体」が感じられる「文体」が好きだし、「肉体」こそが「思想」だとも思うのだが、こういう「無機質(?)」っぽいことば、ことばしかないという感じのことばの運動も、実はとても好きなのである。
「会ったはずの……」「目蓋の裏に……」は、スポーツ新聞(の小説?)か本のなかの一行なのだろうけれど、それが「いま/ここ」にあらわれてきても、差がない。あるいは、その一行がそのまま「いま」をつくり出してしまう。その区別のなさが、とても好きなのだ。ことばによって、現実の余分なもの(?)がそがれていく。すでに存在していることばの、清潔さによって「いま」が焼きつくされ、透明になっていく感じがする。
あ、これもまた「感覚の意見」だねえ。
「Ⅱ 出張」の書き出し。
ここに出てくる「と言うことはない」。この「否定」が、とてもおもしろい。「携帯は寒さに震え 雪のすすき野テレビ塔を眺めながら泣いている」というのは、「会ったはずなのに彼女を思い出せない」に比べると「詩的」である。「泣いている」が特徴的だが、抒情である。「比喩」が「詩/抒情」をつくりだしていると言える。
しかし、その「詩的/抒情的」であるところが「詩」から遠い、とも言える。「詩を装っている」だけ、と言えばいいのか。むしろ「詩を装わない」ことが、現代ではむしろ詩になる。「詩」を剥ぎ取ることが、詩になる、と言えばいいのか。
「地」の部分から「詩を剥ぎ取る」。そうすると、そこに詩が現れてくる。
あるいは、これは「詩」はすべて、もう書かれてしまったことばにまかせてしまうということかもしれない。
いいあんばいに現実と「書かれてしまっていることば」が交錯し、詩を装ったり、剥ぎ取ったりしている。さらに、わざと飾ったりもする。ただ、ことばだけが交錯する。
「歌詞」のない「音楽」を聞いている感じ。
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。
鈴木悦男「雪夜のサラリーマンの蝶蝶」は「Ⅰ 通勤と昼休み」「Ⅱ 出張」から構成されている。その「Ⅰ 通勤と昼休み」。
新宿まで眠らないように スポーツ新聞の競馬欄を読んでいる
「会ったはずなのに彼女を思い出せない」
車中も「胡蝶の夢」の夢の裡か
身分証明書カードを機械に照らし入る
本を携帯するがページが進まない 食後のカフェーで二行ほど読むと
コーヒーのやすらぎの眠気が頂上に達する
いつ どこにいるのか所在不明の三十分間
「目蓋の裏に湿原が拡がり 小雨がぱらつき」
ふっと 店内に軽音楽が流れているのに気付き 脳の「どこに隠れて
いたのか」あたりまえであるが
定刻には必ず机を前にするように「指示」が来る
出勤の電車の中、昼休みのカフェでのことが書かれている。そのなかに、「会ったはずなのに彼女を思い出せない」と「目蓋の裏に湿原が拡がり 小雨がぱらつき」ということばがカッコ「 」に括られて出てくる。なぜだろう。「胡蝶の夢」も「 」に括られているから、先にあげた「 」のなかは本(あるいはスポーツ新聞)からの「引用」かもしれない。「どこに隠れて/いたのか」「指示」も「引用」なのかなあ。
よくわからない。
そして、その「よくわからない」の「理由」を考えたとき、文体に差がないからだということに気づく。ただし、この「文体に差がない」というときの「差」とか、そう感じる根拠を説明しようとすると、なんとも難しい。ただ、私がそう感じるだけと言ってしまうと、もう何も言ったことにはならない。
あえて言えば……。
「ことばの古くささ」というか、何かしら「いま」というか、「現在」とは少し違う感じがする。「いま/ここ」ではない感じ。「胡蝶の夢」はもちろん「いま/ここ」ではないが、たとえば
身分証明書カードを機械に照らし入る
これは会社のビルに入るとき、改札機のようなところにIDカードを通さないと入れないシステムのことを言っているのだと思うが、こういうとき普通は「身分証明書カード」とか「機械に照らし」という表現はきっとしないなあ。何かしら、わざと「いま」つかわれていることばを避けている、言い直しているという感じがする。
「本を携帯する」の「携帯する」というのも、意味はわかるが、そんなふうには「いま」は言わないだろう。「眠気が頂上に達する」や「軽音楽が流れている」「定刻には」も、何となく、「いま」とはずれている。そう思うと「二行ほど読む」の「二行ほど」という言い方さえ、何とはなしに「いま」とはずれている感じがする。
この「ずれ」は、ことばの「体温」の欠如というのか、「肌触り」がない感覚。
それが「会ったはずなのに……」「目蓋の裏に……」のことばの「肌触り/体温」の欠如の感じと似ている。「いま」を「本の中の世界」のように、「ことば」そのもので見ている感じがする。「目」や「肉体」で「いま」と触れているというよりも、「ことば」を通して触れている感じがする。
こんな言い方は「感覚の意見」「直観の断言」のようなもので、ぜんぜん、あてにはならないし、説明にもならないのだが。
で、飛躍して書いてしまうが、私は「肉体」が感じられる「文体」が好きだし、「肉体」こそが「思想」だとも思うのだが、こういう「無機質(?)」っぽいことば、ことばしかないという感じのことばの運動も、実はとても好きなのである。
「会ったはずの……」「目蓋の裏に……」は、スポーツ新聞(の小説?)か本のなかの一行なのだろうけれど、それが「いま/ここ」にあらわれてきても、差がない。あるいは、その一行がそのまま「いま」をつくり出してしまう。その区別のなさが、とても好きなのだ。ことばによって、現実の余分なもの(?)がそがれていく。すでに存在していることばの、清潔さによって「いま」が焼きつくされ、透明になっていく感じがする。
あ、これもまた「感覚の意見」だねえ。
「Ⅱ 出張」の書き出し。
携帯電話の普及台数が日本人の人口を跳び越え 会社から渡された携
帯は寒さに震え 雪のすすき野テレビ塔を眺めながら泣いている
と言うことはない 「会議 会席 宴会後の二次会予定---」
スナックのママさんからのメールだ
ここに出てくる「と言うことはない」。この「否定」が、とてもおもしろい。「携帯は寒さに震え 雪のすすき野テレビ塔を眺めながら泣いている」というのは、「会ったはずなのに彼女を思い出せない」に比べると「詩的」である。「泣いている」が特徴的だが、抒情である。「比喩」が「詩/抒情」をつくりだしていると言える。
しかし、その「詩的/抒情的」であるところが「詩」から遠い、とも言える。「詩を装っている」だけ、と言えばいいのか。むしろ「詩を装わない」ことが、現代ではむしろ詩になる。「詩」を剥ぎ取ることが、詩になる、と言えばいいのか。
「地」の部分から「詩を剥ぎ取る」。そうすると、そこに詩が現れてくる。
あるいは、これは「詩」はすべて、もう書かれてしまったことばにまかせてしまうということかもしれない。
三岸好太郎「標本箱」から飛び起つ「蝶」
(札幌・三岸道立美術館の「絵の蝶」)
ほんのり積もった雪は除雪されているが すべらないで目的の店へ
「蝶よ 案内してくれるかい?」迷いタクシーを手配する
いいあんばいに現実と「書かれてしまっていることば」が交錯し、詩を装ったり、剥ぎ取ったりしている。さらに、わざと飾ったりもする。ただ、ことばだけが交錯する。
「歌詞」のない「音楽」を聞いている感じ。
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。