詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョナサン・デミ監督「幸せをつかむ歌」(★★)

2016-04-06 20:20:09 | 映画
監督 ジョナサン・デミ 出演 メリル・ストリープ、ケビン・クライン、メイミー・ガマー

 メリル・ストリープはすごい。売れっ子なのに、落ちぶれたロック歌手を演じていて、その落ちぶれ加減が、とてつもなくリアルなのだ。髪や肌に、いきおいがない。まあ、年相応といえばそうだけれど、スターなのだからきちんと手入れをしているはず。それを荒んだ状態にしている。体型も、あえて自堕落な感じ、ウエストというか、くびれがきえてしまっている感じ、胸のふくらみをたよりに、その下あたりがくびれ(ウエスト)といえばいえる、という感じの体型をさらけだしている。私は、こういう「外形」から入る演技というのは好きではないのだが、うーん、見とれてしまったなあ。特に、アイシャドーの演技(?)に。目で演技する前に、アイシャドーに演技をさせている。目の在りかはここと主張させている。演技派なのに、そのアイシャドーに演技をさせているところが、なんともすごい。
 で、それでは落ちぶれたままの姿で演技しつづけるのかというと、そうでもないのだ。メリル・ストリープには子どもが何人かいる。離婚したため、いっしょには暮らしていない。そのうちのひとり、娘(実際の娘、メイミー・ガマー。これがメリル・ストリープの夫そっくりの顔、特に目をしている)が離婚して自殺未遂したをおこしたために、彼女のケアのために元の夫(ケビン・クライン)に呼ばれて、その家へゆく。しかし、後妻から追い出される。そのあと、バンドにもどり、そこでギターを弾いている男と、離婚して子どもを抱えているものどうしの慰め合いという感じで、愛しあう。ここからの表情が、うわーっ、すごい。落ちぶれていない。いや、あいかわらず落ちぶれたロック歌手なのだが、自分のことを理解してくれる男がいて、好きな歌が歌える喜びで、実にいきいきしてくる。見ていて、静かな幸福を感じてしまう。
 そして、すごいのは、これがきちんとした「伏線」になっていること。メリル・ストリープのこどものひとり(男)が結婚式をする。そこに招待される。「上流階級」の結婚式なので、メリル・ストリープは出席したくない。息子を祝福したいのはやまやまなのだが、ほかの出席者から冷たい目で見られることを恐れているのだ。実際、出席してみるとみんなから冷たい目で見られる。テーブル席も息子の母親なのに、遠ざけられて、冷遇される。その披露宴で、メリル・ストリープはスピーチがわりにロックを歌う。出席者からはいやな目で見られるのだが、息子が花嫁を誘ってダンスを踊りはじめる。ここからにぎやかなクライマックスになるのだが、息子が自分の歌を喜んでいるとわかり、メリル・ストリープの表情がいきいきしてくる。落ちぶれたロック歌手ではなくなる。恋人とステージでキスをしながら歌う。その喜びが、彼女はなつ輝きが、会場全体に広がる。
 映画とはわかっているのだが(つまり、実際にこういうことがあるとは思わないのだが)、映画であることを忘れて(あるいは映画であることのなかにのみこまれて)、楽しくなってくる。映画っていいなあ、こうい映画は、個室でDVDで、つまり小さなモニターで個人で見ていてはおもしろくない。やっぱり劇場で、ぜんぜん知らない人に囲まれて、知らないにもかかわらず、「幸福」を分かち合って見るのがいい。まわりに座っているひとの「幸福感」が伝わってくる、その瞬間がとってもうれしい。
                    (天神東宝ソラリア9、2016年04月06日)




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マーサ・ナカムラ「許須野鯉之餌遣り」

2016-04-06 09:45:01 | 詩(雑誌・同人誌)
マーサ・ナカムラ「許須野鯉之餌遣り」(「現代詩手帖」2016年04月号)

 マーサ・ナカムラ「許須野鯉之餌遣り」は「新人作品」(投稿欄)の一篇。朝吹亮二が選んでいる。
 「美しい男が、立方体状に氷の張った鯉を釣り上げたという池を見物しに行った。」という行を含む作品。その後半。

見ると、池の底には、本物の池が沈んでいたのである。
そこには無数の鯉が棲んでおり、ありとあらゆる罪の形を丸い麸にして食べてしまうと見物客は言っている。
江戸時代の人、いつの時代の人か分からない人、もちろん虫や犬に至るまで、鯉に餌をやりに訪れている。

「許須野鯉之餌遣り(ゆるすのこいのえさやり)」という立て看板がある。

地上では若いころの身体に似せて化粧をする。
水の底では、何もかも終わりがない。
池の近くの公園では、老婆が若い頃の姿のまま、恋人とブランコに乗って永遠に遊んでいた。
鯉は、口元に寄せる麸にひたすら口を動かし続けている。

 朝吹は、こう書いている。

この人の想像力には驚くべきものがある。であるのだが、私が本当に驚くのは細部への注視と細部をすくいとることばづかいだ。この作品でいえば、末尾の麸にむらがる鯉の描写など不気味な魅力がある。

 これ以上の批評はない。この批評を読んだあとでは、もう書くことは何もないのだが、あえて書いてみる。

鯉は、口元に寄せる麸にひたすら口を動かし続けている。

 この行になぜひかれるのか。
 麸を食べている鯉を見たことがあるからである。口をあける。その口の周囲から水が口のなかに入る。その水の流れに乗って、麸も口のなかへ、鯉の胴体の見えない部分へ吸い込まれていく。こういう光景は、近くの公園で何度でも見かけている。その光景があざやかに浮かび、「リアル」に感じる。その「リアル」にひかれるのだ。
 だが、こう書いただけでは「不気味な魅力」を説明したことにはならない。
 たぶん、このとき私は鯉を見ている(思い出している)のではない。
 鯉を思い出しながら、その鯉が「私」だと思ってしまっている。鯉になっている。
 麸を食べる。マーサ・ナカムラは「食べる」という「動詞」をつかわずに「口を動かす」と書いている。この「口を動かす」が「食べる」以上に「肉体」を刺戟する。「食べる」だと「何を」食べるか、その「対象」が気になる。「口を動かす」だと、ただその「口を動かす」という行為にひきずられて、「私の」口(肉体)も動くのである。

鯉は、口元に寄せる麸にひたすら「食べ」続けている。

 こう書き直してみると、マーサ・ナカムラの書いていることがよくわかる。「食べる」ではなく、もっと即物的な(?)「口を動かす」という動きのなかに、人間の肉体を誘っている。誘われて口が動くとき、もう、私は鯉なのだ。

鯉は、「口」元に寄せる麸にひたすら「口」を動かし続けている。

 繰り返される「口」ということばが、「私(読者)」の「口」を刺戟する。「口」に意識が集中して、それに「動かす」という動詞が加わり、ほかの肉体の部位はどうなっているかわからないが、ただ「口」を動かしている自分を感じる。それが「食べる」と同じであるかは、この瞬間はわからない。「食べる」を通り越して、というよりも、もっと「奥深いところ」から鯉そのものになってしまっている。

 さらに、その鯉が食べているのは、ただの麸ではない。「罪」なのだ。

罪の形を丸い麸にして

 このことばの動きは少し奇妙だが。「罪を丸い形の麸にして」ではなく「罪の形を」というのが奇妙なのだが、奇妙だけに、印象に残る。罪に形があるのか。それが「丸い麸」という形になるのか。「罪」を「麸」にするだけではなく、そこに「形」ということばが入るために、何かしら「変形」という意識が紛れ込む。それは「変身」ということばとどこかで入れ違ってしまう。
 もしかすると、その鯉は人間が「変身」させられたもの? 何かの罪で人間の形ではいられなくなり、鯉にさせられてしまった。その鯉は、罪滅ぼしに、他人の罪を食べつづけなければならない。
 そんなことはどこにも書いていないのだが、そんなことを思っしてしまう。
 これは、私に「罪」へのあこがれがあるからかなあ。もう人間でいられない。動物にさせられてしまう。それくらいの「罪」を味わってみたい、という欲望があり、それが叶わないので、鯉に変身させられてしまった「人間」を見に来ている。
 そんなことを感じてしまうのである。
 このとき「罪」とは「鯉の罪」は「恋の罪」である。「人間の罪」は「恋の罪」。だから「若い身体に似せて化粧をする」「老婆が若い頃の姿のまま、恋人とブランコに乗って」というようなことばが書かれるのだろう。
 そうであるなら、なおのこと、「罪」に溺れてみたい。
 そんなことはどこにも書いていない。だからこそ、そう思うのである。書かれていないのは、隠しているからだ。ことばはすべて暗示なのだ。詩は、暗号なのだ。

池の底には、本物の池が沈んでいた

 そこに書かれている「本物」が「ほんとう」ということばを刺戟しているのかも。「ほんとう」は鯉ではない。「ほんとう」は別のもの。

 いま、私が生きている世界は「本物/ほんとう」ではない。「本物/ほんとう」は、「ことば」のなかにある。書かれたことば、語られることばのなかにあって、それは「隠されている」。

「許須野鯉之餌遣り」

 これは、ほんとうに「ゆるすのこいのえさやり」と読むのか。そう読んだとして「ゆるすの」の「の」は何? 「の」をこんなふうにつかう? 「ほんとう」は違う読み方があるかもしれない。「鯉に餌をやることを許す」とは書いていないのかもしれない。けれど、なんとなく、そんなふうに読める。だから、そう読む。
 「ほんとう」は、それをそう読みたいという思いのなかにある。ことばを書いた人ではなく、ことばを読むひとのなかにある。「許須野鯉之餌遣り」を「ゆるすのこいのえさやり」と読むのは、マーサ・ナカムラがそう読み取りたいからである。看板を書いたひとはそう読ませるつもりはなかったかもしれない。読むひとの「ほんとう」がそこにあることばをかえてしまうのである。「意味」を捏造してしまうのである。
 恋の罪を犯して、鯉に変身させられてしまった人間--という「意味」をマーサ・ナカムラのことばは「捏造させる」力を持っている。
 「ほんとう/真実」なんて、詩にとっては、どうでもいい。「ことば」を「誤読」させる力があれば、それが詩なのだ。「誤読」のなかには、その人の「真実の欲望」がある。それを誘い出すのが詩である。

 逆に言うと。
 その読者の隠しておきたい「ほんとう/真実の欲望/欲望の真実」が誘い出されてしまうから、それが「不気味」なのだ。
 朝吹はどんな欲望を刺戟されたのか書いていないけれど、きっと刺戟されたんだよなあ、と私は思うのである。

現代詩手帖 2016年 04 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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