詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本純子「いもむし」ほか

2016-04-19 10:03:07 | 詩(雑誌・同人誌)
山本純子「いもむし」ほか(「息のダンス」12、2016年04月10日発行)

 山本純子「いもむし」は、子供がイモムシの真似をしている詩。イモムシになっている詩。というようなことを書いてもしようがないのだが、ほかに書くことがない。

いま
いもむし

いもむしになって
さなぎのなかにいる

そとはみえない
おとがきこえる

わたしをよぶ
おかあさんの
こえがするけど

わたしはいない
はねがはえるまで
いない
とおくで
なのはなばたけが
よぶまで
いない

カーテンに
てるまっていると
あしだけが さむい

 カーテンにくるまって、さなぎになったつもり。「さなぎのなかにいる」。そのあと、おかあさんに呼ばれるが、

わたしはいない

 と「返事」をしてしまう。
 あ、いいなあ。「さなぎのなか」に「いる」けれど、ここ(おかあさんのいる世界)には「いない」。ここににいる(ある)のは「いもむしのさなぎ」。「わたし」ではない。しかし、わたしではないといわずに、「わたしはいない」という。この「いない」を、どう説明すればいいのだろう。どう感じていると言えばいいのだろう。
 なかなか、思い出せない。こどものとき、こんなふうに「うそ」をついたことがある。けれど、そのとき、どんな気持ちだったのか、うーん、なかなか思い出せない。思い出せないので、思い出すまでの時間稼ぎに、私はこんなことを書いている。私は、何かがわかっていて書くのではなく、書きながら考え、感じながら書くので、それがことばになるまでは、こうやってごまかすのである。
 「それはいもむしであって、わたしではない」と言えば、そのことばは完全な「うそ」になる。「わたし」が分裂してしまう。でも、こどもの「うそ」は「分裂」を含まないのだ、きっと。どんなときでも「わたし」を感じていたい。それがこどもの「うそ」。あるいは「空想」。
 「わたしはいない」というとき、それは「わたしは、ここにはいない」という意味である。「別の世界にいる」という意味である。そしてまた、「人間のわたしはいない」けれど「いもむしのわたしはいる」。「ここ」と「人間」、「別な場所」と「いもむし」が「わたし」を中心にして、瞬間的に入れ替わり、融合し、区別がなくなる。そのとき、ことばでは「わたしはいない」と言っているが、「わたしは、いる」と言いたい。「いる」ということは、「うそ」ではなく「ほんとう」なのだ。「いる」から「いない」と言える。「いる」ことに対する「絶対的な信頼」のようなものが、ここにある。「わたしは存在するのか、存在するといえのはなぜなのか」というようなことは考えない。「いる」は「絶対的な事実」なのだ。こどもにとって。
 この絶対的な自己存在の自身というのは、たぶん、こどもの特権だ。こどもの自己存在を「おかあさん」は全体的に受け入れ、それを守ってくれる。自己は否定されないし、自分で自己を否定することもない。そういう特権ののびやかな「自由」がこどもの「自由」なのだ。

わたしはいない、けれど
いもむしになって、わたしは、「別世界に」いる

 そして、これは、少しことばの順序を変えて、

わたしは「別世界で」、いもむしになっている

 なのである。

はねがはえるまで
いない

 は、

はねがはえたら、
わたしは蝶になっている
蝶になって、わたしは、「別世界に」いる

なのはなばたけが
よぶまで
いない

 は、

なのはなばたけが呼べば
わたしは蝶になっている
蝶になって、わたしは、「別世界に」いる

 このとき「別の世界」は、「わたし」が何かを思うとき、そこに必然的に、自然にあらわれてくる世界。
 「我思う、ゆえに我あり」と似ているようで、まったく違う。「わたしがいる/ある」とき、そこに「わたしの世界(別世界)がある/そこにわたしはいる」。「世界」と「わたし」は完全に一体化している。分裂しない。「ゆえに」という「論理」が入り込む余地はない。
 「わたし」はいつでも何かになって「いる」。そこにかならず「ひとつの世界がある」。これはまた、何かになって、わたしはいつでも「ひとつの世界」に「いる」という具合に言い直すこともできる。そのとき「何か」と「ひとつの世界」は完全に一体化している。
 「いる」という「動詞」のなかで、いくつものことがしっかり結びついている。わたしは「いない」というときさえ、わたしは「いる」。
 だから、

カーテンに
くるまって「いる」と
あしだけが さむい

 と「いる」ということばが出てきてしまう。カーテンにくるまって、いもむしのさなぎになって「いる」と、「わたし」の足が寒い。
 「いる」のは「いもむいし」のつもりだったが、「いる」と言った瞬間から、それは「わたし」をも「主語」にしてしまう。「いる」という動詞が「主語」の区別をなくしてしまう。

 うーん、私の感じていることが書けたのかどうか、よくわからないが、「わたしはいない」は「わたしはいる」をもっと「強く」言い換えたもののように思う。「わたしは、いる」だからこそ「いない」と「うそ/空想」が言える。「うそ」のなかで「わたしは何かになっている」。「なる」がそのまま「なっている」という状態になる。



 「とびばこよりも」は「とびばこ/よりも/馬とびがすき」というこどもの詩。何度も何度も「馬とび」をする。そして、

がっこうじゅうを
ひとあるき
みんな
せなかをかしてくれて
ありがとう
と つぶやけば

がっこうは
いちめん
あおくさのにおいに
みちていて

てのひらは
せなかのきおくで
いっぱいだ

 てのひらが「馬とび」の「馬」になった友達の背中を覚えている。「肉体」で友達を覚えている。そのとき「てのひら」は「わたしのてのひら」であるだけではなく、「ともだちの背中」。区別がない。ここにも独特の「一体感」がある。
 この「区別のなさ」は、きっと「いもむし」の「わたしはいない」が「わたしは、いもむしに、なって、いる」の「なる」「いる」の融合に似ている。「なる」と「いる」がかたく結びついて、区別できないように、てのひらと背中の区別はない。その「区別」のなさを「いっぱい」ということばであらわしているのがいいなあ。「いっぱい」は充実/充満。いや、それ以上。「いっぱい」は「肉体」を突き破って、別なものになる。「てのひら」はそのまま「背中」になる。そして、そのとき「背中」は「友達のてのひら」で「いっぱい」になっている。
 この「いっぱい」が肉体を突き破って、こどもを「馬」にしてしまう。こどもは馬になる。馬になってしまえば、そこは馬が草を食べている草原になる。「別世界」が「わたしの肉体/馬になった肉体」といっしょに、そこにあらわれる。
 「わたし」が「いる」とき、いつでも「世界」は「ある」。「わたし」と「世界」は「一体」であり、それは「思い」のまま。
 あえて言えば、「我思う、ゆえに世界はある」。これがこどもの「思想」だ。世界の見え方だ。こどもはそれぞれが「一つの世界」なのである。おとなは「一つの世界」にそれぞれの「思い」を抱いて生きているが、こどもは違う。こどもは「一人ひとり」が「それぞれの世界」を生きている。
 このこどもの感覚、こどもの呼吸の仕方、息づかいを山本は書いている。

ふふふ ジュニアポエム
山本 純子
銀の鈴社
コメント
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