高塚謙太郎「ねむりあい」ほか(「GANYMEDE」66、2016年04月01日発行)
高塚謙太郎「ねむりあい」は小詩集「みんなのうた」のなかの一篇。
ひらがなが多い詩だ。読むと(音読するわけではないが)音が聞こえてくる。たとえば一行目、
という「かた」「かた」という音がまず聞こえる。それは、私の場合、
という濁音を含むものへとはつながらない。「がた」は耳ではなく目で見る音だ。
私の場合、「かた」「かた」は、
「ら行」を聞き取る。「か・た/と・り/ら」の音が交錯していて、その交錯の仕方がとても気持ちがいい。
ほかの行も、ここがこうだから気持ちがいいとははっきり指摘できないのだけれど、私には気持ちがいい。
は「ほら」の区切り(一呼吸)があって、その直前の「は/は行」が「ひ/は行」へと動いていく。その「ほら」の一呼吸と「ため」という「論理的な一呼吸」が響きあいながら「ゆたか」という意表ついた「意味」を含んだことばを呼び寄せる。(ここにも直前に見た「た」「か」の組み合わせがある。)
音と論理と意味の交錯。
この不思議な変化が、高塚の「ひらがな」を読みやすくさせている。
私は黙読しかしないが、「音楽」が聞こえてくる感じがする。
それも「耳」に、というよりも「耳から」、あるいは「肉体」から、という感じで聞こえてくる。
「耳」ではなく、知らない内に「舌」や「のど」が動いているのかもしれない。
「み空」という作品。
「みせて/みえる」の「み」が「みぎ」「みみ」をひっぱりだし、「ひだり」という「意味」をひっぱりだしたそのあと、「の」のない行、
この行が、とても美しい。「蒲団」は「ふとん」とひらがなにすると「ふ」が余分に重なって、逆に、それまでの「音楽」を消してしまうかもしれない。
意識的かな? 無意識の直観かな?
さらにそのあと、
この三行の「あ」の音を中心にした動きも、とても気持ちがいい。黙読なのに「あ」の音がはっきりと聞こえてくる。「あれは」と「しあわ(せ)」は文字で書くと「は」「わ」ははっきり別なのだが、発音すれば「わ」のなかに違いが消える。その前の行も、日だまり「には」と読むと「わ」の音になる。
そういうことが「耳に」ではなく、「耳から/肉体から」聞こえてくるという印象を強くするのかもしれない。
この部分では、
あたりの「音」が違いに呼びあっているように聞こえる。「ひらめれと「たい」が「さかな」になっていく感じもする。
で。
こうやって、高塚の書いた詩に「 」を補いながら聞こえる音を印しづけてみて気づいたのだが。
高塚のことばから私が聞いている「音」というのは「二音」のことが多い。そして「二音」だからこそ、「ひらがな」だらけなのに「読みやすい」と感じるのかもしれない。「二音」であることによって「音」がきわだつ。漢字は表意文字だが、ひらがなの「二音」もまた「表音楽/表旋律/表リズム」のように、何か「印象的」なのだ。目にも訴え欠けてきて、その刺戟が肉体のなかから耳を揺さぶる。単独の「音」、「素材として中立な音」というよりも、肉体全体を揺さぶる「和音」として響いてくる。
これが独特なんだなあ、と思った。
高塚謙太郎「ねむりあい」は小詩集「みんなのうた」のなかの一篇。
しずかというものがたりかたからかたむいて
まるみをおびたわたしたち
いっついのゆめははてもなく
こころあらわれるほどの春はちかい
そらはほらひとりのためにはゆたかだけれど
みつめあうはなさきにはとてもせまくて
いきがつまりそうとおもう
ひらがなが多い詩だ。読むと(音読するわけではないが)音が聞こえてくる。たとえば一行目、
しずかというものがたり「かた」から「かた」むいて
という「かた」「かた」という音がまず聞こえる。それは、私の場合、
しずかというもの「がた」り「かた」から「かた」むいて
という濁音を含むものへとはつながらない。「がた」は耳ではなく目で見る音だ。
私の場合、「かた」「かた」は、
しず「かと」いうものが「たり」「かた」「から」「かた」むいて
「ら行」を聞き取る。「か・た/と・り/ら」の音が交錯していて、その交錯の仕方がとても気持ちがいい。
ほかの行も、ここがこうだから気持ちがいいとははっきり指摘できないのだけれど、私には気持ちがいい。
そらは「ほら」ひとりのためにはゆたかだけれど
は「ほら」の区切り(一呼吸)があって、その直前の「は/は行」が「ひ/は行」へと動いていく。その「ほら」の一呼吸と「ため」という「論理的な一呼吸」が響きあいながら「ゆたか」という意表ついた「意味」を含んだことばを呼び寄せる。(ここにも直前に見た「た」「か」の組み合わせがある。)
音と論理と意味の交錯。
この不思議な変化が、高塚の「ひらがな」を読みやすくさせている。
私は黙読しかしないが、「音楽」が聞こえてくる感じがする。
それも「耳」に、というよりも「耳から」、あるいは「肉体」から、という感じで聞こえてくる。
「耳」ではなく、知らない内に「舌」や「のど」が動いているのかもしれない。
「み空」という作品。
おぼえたてのものをみせてくれるという
みぎのてのひらですっかりみえなくなったものが
ひだりのてのひらからのびてくるという
てのひらではなく
みぎの耳ひだりのみみ
だったのかもしれない
からふかししてふかふかになった蒲団
いつもの陽だまりにはあああがいて
耳をひっぱったりして過ごしていたがあれは
おぼえたてのしあわせだったのかもしれない
「みせて/みえる」の「み」が「みぎ」「みみ」をひっぱりだし、「ひだり」という「意味」をひっぱりだしたそのあと、「の」のない行、
「から」「ふか」しして「ふか」「ふか」になった蒲団
この行が、とても美しい。「蒲団」は「ふとん」とひらがなにすると「ふ」が余分に重なって、逆に、それまでの「音楽」を消してしまうかもしれない。
意識的かな? 無意識の直観かな?
さらにそのあと、
いつもの陽だまりに「はあ」「ああ」がいて
耳をひっぱったりして過ごしていたが「あれは」
おぼえたての「しあわ」せだったかもしれない
この三行の「あ」の音を中心にした動きも、とても気持ちがいい。黙読なのに「あ」の音がはっきりと聞こえてくる。「あれは」と「しあわ(せ)」は文字で書くと「は」「わ」ははっきり別なのだが、発音すれば「わ」のなかに違いが消える。その前の行も、日だまり「には」と読むと「わ」の音になる。
そういうことが「耳に」ではなく、「耳から/肉体から」聞こえてくるという印象を強くするのかもしれない。
おぼえたてのうたにのせて手あしをうごかす
まるでほとんどわかってたひらめきみたいに
ひらいたさかなのわたのまあたらしいあかりに
ほのみたおまえのはかない耳たぶ
みえなくなったもののありかの
耳たぶ
とべるくらいにひらひらさせて
み空へとすいこまれていった(みえなくなった
この部分では、
まるでほとんどわかってた「ひら」めきみ「たい」に
「ひら」「いた」さかなのわたのま「あた」らしい「あか」りに
あたりの「音」が違いに呼びあっているように聞こえる。「ひらめれと「たい」が「さかな」になっていく感じもする。
で。
こうやって、高塚の書いた詩に「 」を補いながら聞こえる音を印しづけてみて気づいたのだが。
高塚のことばから私が聞いている「音」というのは「二音」のことが多い。そして「二音」だからこそ、「ひらがな」だらけなのに「読みやすい」と感じるのかもしれない。「二音」であることによって「音」がきわだつ。漢字は表意文字だが、ひらがなの「二音」もまた「表音楽/表旋律/表リズム」のように、何か「印象的」なのだ。目にも訴え欠けてきて、その刺戟が肉体のなかから耳を揺さぶる。単独の「音」、「素材として中立な音」というよりも、肉体全体を揺さぶる「和音」として響いてくる。
これが独特なんだなあ、と思った。
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