長嶋南子「おにぎり」(「きょうは詩人」33、2016年04月08日発行)
長嶋南子「おにぎり」を読む。
早く目覚める朝
おにぎり食べたらドトールにいく
読んでいる本のなかには
男と女がいて
はじめは手をにぎって
つぎに財布を
さらに首ねっこにぎって
「本のなか」とあるが、どこまでが「本のなか」か。「男と女がいて」までが本のなかで、あとは長嶋の「現実」かもしれない。「本」を読む、ことばを読むとは、結局、自分自身を読むこと。ことばを読んで、そうか、自分のしていたことは、こういうふうにことばにできるのか、ことばにすればこうなるのか、ということを知る。ことばを読みながら自分のしてきたことを思い出す、あ、これをおぼえていると感じるために読むのだろう。
だからね。
はじめは手をにぎって
つぎに財布を
このときの主語は? 「本のなか」には男と女がいる。主語はどちらでもいいはず。しかし、「どちら」を想像するかというと、この場合主語は「男」から「女」にかわっていく。
「女」が、つまり長嶋が、手を握らせておいて、つぎに「男の」財布をにぎる。
主語が書いていないのに、そう思ってしまう。
これは、こういう「光景(男女関係)」が日本ではありふれているからかもしれない。ありふれていること、知り尽くしていることを土台にして、私たちはことばを読む。それは、ことばをとおして私たちの「生き方」を読むということでもあるんだけれど。
そのつぎの「首根っこ」というのは「比喩」であるはず。「財布」を言い直したものだ。「金の出入り」を支配するということは、男の自由を支配すること。男は「首根っこ」をにぎられたみたいに、自由に動けない。
「だれが主語か」ということは、ふつうはいちいち書かない。説明もしない。だけれど、私は、読むとは、そういう「いちいち説明しない」ものをしつこくことばで言い直すことだと思っているので、ごちゃごちゃと書いてしまう。いま書いた「ごちゃごちゃ」、つまりそこで省略されていることこそ、「思想」そのものと思うからである。
「手をにぎらせて、かわりに財布をにぎってしまえばいいのよ」
長嶋がそう思っているかどうかは別にして、そういうことばで語られる「思想」がある。そういうものが、この一連目のことばに深くからみついている。そして、そういう「声」が聞こえてくるから、一連目の後半の「主語」はだれ? なんていうことは、だれも問題にしない。わかりきっているから。わかりきっていて、いちいち問題にしないでやりすごしてしまう「生き方の形式」、これが「思想」だね。
そこから、長嶋のことばは、少しだけ動いていく。二連目。
にぎった首根っこ
ちょっとひねったら
男は骨になった
押し入れのなかに
入れたままにしておく
男の首をひねって、殺してしまう。(「男は骨になった」と書くことで、「ひねった」の主語が女であることが、やっと、ここで説明される。)これは現実か。いや、「本のなか」のことだろう。女がほんとうに男の首をひねったかどうかは問題ではない。「首をひねる」は比喩なのだから。男が先に死んでしまった、女が取り残されたということだけが「事実」だ。「押し入れのなかに/入れたままにしておく」というのも比喩。
比喩なんだけれど、私は、ここでつまずく。立ち止まる、の方が適切かな?
「本のなか」では、女は男を殺しても「押し入れ」なんかには隠さないだろう。「押し入れ」という比喩によって、「本のなか」、男と女の関係が長嶋の「現実」になる。「比喩」だから嘘なんだけれど、その嘘のつき方が「現実」。
こういうところが、私は、好き。
嘘というよりも、嘘をつくとき、人間はかならず「ほんとう/現実」を言ってしまう。そういうことろが、おもしろい。私は長嶋本人を知らないけれど、こういう部分を読むと、長嶋に直接会っているような気分になる。「本」が「外国」の小説であっても、それを「日本」の「現実」(自分の知っている事実)にあわせて読み直し、語りなおす。そのとき長嶋の「現実」がふっとあらわれる。こういうことろが、好き。
昼間はマック
コーヒー二杯飲んで
本を少し読む
うす暗くなったら帰宅
きのうもきょうもあしただって
なんにもおこらない
私のドラマは
終りに近づいている
「本のなか」のドラマと「私のドラマ(現実)」が交錯して、四連目
焼きあがった
わたしの骨のあいだに
おにぎりがひとつ
焼きおにぎりになって
ころがんている
骨の男が食べたそうにしているけど
あれはわたしのもの あげない
あらら、長嶋も死んじゃった。死んじゃったのだけれど、ここ、おかしいねえ。
人間が「焼きあがって」骨になっているなら、食べたおにぎりがおにぎりの形のまま、焼きおにぎりになっているなんてことは「現実」にはありえない。
でも、人間を焼いたら骨になるけど、おにぎりは焼いたら、やっぱり「焼きおにぎり」だよねえ。
で、そういうところに「真実」はあるのかないのか、よくわからないが……。
焼きおにぎりを「男が食べたそうにしている」というのは、あるねえ。男はたいてい女の持っているものをほしがるものである。そういうとき、女はどうするか。長嶋は、どうするか。「はじめは」、つまり男に「手をにぎらせた」ころは、男がほしいといったら長嶋は我慢して男に焼きおにぎりをやったかもしれない。でも「手を握り返す」かわりに「財布」をにぎり、「首根っこ」をにぎるころは、平然と「だめよ、あれはわたしのもの」と言うようになったんだろうなあ。
あ、そんなことは、どこにも書いていない?
うーん、書いていないからこそ、そう読み取ってしまう。
そして、その「いじわる」を、なんだかなつかしい感じで思い出しているのが、いいなあと思う。
「財布」をにぎるのも、「首根っこ」をにぎるのも、「あの焼きおにぎりはわたしのもの」と言い張るのも、それが「愛」なのだ。
骨を「押し入れ」にほったらかしているくせに、その「骨の男」が、骨になった長嶋に出会えば、やっぱり「あの焼きおにぎり食べていい?」なんて甘えてくることを想像している。「あの男、骨になっても甘えん坊なんだから……」愛がなければ、そんなことなど想像しない。「あげない」なんて意地悪をいって反応を確かめるようなことなどしない。