田島安江「揺れる」、陶山エリ「ヤード」(「現代詩講座」@リードカフェ、2016年04月13日)
受講者の感想。
「橋は揺れない」という感想が、私にはとても新鮮だった。一連目の「橋が揺れる」は二連目の「橋の上から川の水をみていると」からつづく行で言い直されていると思う。橋そのものは揺れないが、川の流れ(揺れ)を見ることで、自分が揺れはじめる。それを橋の揺れと錯覚する。自己と対象の「一体化」が引き起こす錯覚。
同じものが、二連目の「杢目の浮き出た天井」。木目が川の流れのように見え、それが「揺れる」感覚を肉体のなかにつくりだすのだろう。
見ている対象(揺れている対象/揺れを感じさせる対象)に自分が重なってしまう。自分が重なり、自分ではなくなる。自分がいなくなる。それが三連目ということになる。これを「心理」と呼ぶか、あるいは「肉体感覚」と呼ぶかは、意見がわかれると思う。
私は「心理」とか「精神」というものがあるとは考えていないので、「肉体感覚」と受けとめた。
揺れるものを見ていて、揺れそのものにのみこまれ、自分が揺れになる。そのあとで、
「揺れ」が「安定」にかわる。ただし、この「安定」は「静止」ではない。「揺れている」。「安定」は「安定した同調」である。「同調」だから、それからすぐに「美しく」に変わる。「同調」が「美しい」というのは、まあ、「和音」だね。「同調/和音」というのは複数が支えあうこと。だから、それはさらに「安心」にかわる。
動きがなく、止まっていたら「同調」は生まれない。「和音(音の振動/ゆらぎ)」は生まれない。
「わたしも相手も揺れなくなったら//わたしはきっともういない」というのは、読んだ瞬間は、たしかに「揺れながら私はいなくなる」と矛盾しているように見えるが、それは矛盾というよりも、揺れといっしょに生きていく過程の「進化」のようなものだろう。ここに書かれていることが「心理というよりも生きていこうとして身につけたもの」という指摘は、とても強い。また、最後の部分に「哀しさ」を感じるという感想も、誰か(相手)といっしょに生きて変化していく人間のあり方を語ろうとした意見だと思う。
私が、これは何だろうなあと感じるのは、
鳥がついてこなくなったら
繰り返される。「鳥」と「ついてくる」という動詞。「鳥」は「揺れる」か。わからない。鳥は、この詩のなかに出てくることばで言えば「落ちる」という動詞が不気味な形で結びつく。鳥は落ちて死ぬ。あるいは、死んで落ちる。
「揺れる/動く」は生きている証。「死ぬ(落ちる)」は「動かない(動かなくなる)」ということか。
「鳥がついてくる」は生きているもの(いのちのあるもの)がいっしょにいる、人生を同行するということか。「鳥」は「わたし」から離れた「肉体」、「相手」のことかもしれない。
*
陶山エリ「ヤード」は、Tokyo No.1 Soul Set の曲のタイトル。「アルバムの10曲目に収録されている」という。「ヤード」の意味がわからない、と書き出されている。その三、四連目。
受講者からも感想が出たが「静電気に出くわしたときの/悲しさ」がとてもおもしろい。静電気に「ビクッとする」反応は「肉体」として「わかる」。しかし、それが「悲しさ」とは感じたことがなかったので、とても新鮮に感じた。
最終連。
この「ヤフー知恵袋」ということばに対して「それまでのことばと違っている。俗っぽい」という批判が出たが、私は、ここはおもしろいと思った。「現実」に存在することば。それが詩になるまでには少し時間がかかる。「ヤフー知恵袋」が詩のことばとしてつかわれるようになったのだ、と私は感じた。
揺れる 田島安江
揺れるものがいつもついてくる
昨日は電線が揺れはじめ
今日は橋が揺れる
鳥がついてくるからか
幼いときから
ただ、揺れるものが怖かった
風鈴、鐘、吊り橋、電球の笠、ハエ取り紙
鴨居からぶらさがっていた蛇、杢目の浮き出た天井
揺れるものはなんでも怖い
橋の上から川の水の流れをみていると
だんだん自分のからだが揺れはじめる
流れていくものすべてが揺れはじめる
一度揺れはじめたら止められない
自分は揺れていないのに
相手が揺れるとわかって
わたしはじわじわと追いつめられていく
どこにでもいたはずのわたしはもうどこにもいなくなる
揺れながらいなくなる
いつになったら、揺れなくなるのだろう
揺れることは止められない
船の上で電車のなかで飛行機や車のなかで
わたしはいつも揺れている
揺れることで安定している
揺れるものは美しく
揺れないと安心できなくなる
水も花も風も雨さえ揺れながら落ちる
いつか揺れることさえ忘れてしまったら
鳥がついてこなくなったら
わたしも相手も揺れなくなったら
わたしはきっともういない
受講者の感想。
<受講者1>「揺れる」は不安定さにつながる。
しかし、四連目で「揺れることで安定している」と出てくる。
そこがおもしろい。
<受講者2>四連目の「揺れることで安定している」からの三行が不思議。
最後の、相手がいた上での「揺れる」が、哀しいような
怖いような気がする。
<受講者3>揺れるものが怖いというのは特異感覚かなあ。
一連目「ついてくる」では怖がっていない。二連目で怖がっている。
三連目には揺れる「もの」が書いていない。
「橋が揺れる」がわからない。「橋」は揺れない。吊橋なら揺れるけど。
だから「揺れる」のは心理だろうか。
「揺れることで安定している」は心臓のことだろうか。
心臓が動いて、体が揺れる。
慧眼だなあ。目を開かされた。
<受講者4>「揺れる」ということを考察している。
巨木が揺れているのを見たことがある。それを思い出した。
三連目だけ、ことばが違う。
「揺れながらいなくなる」が最後で
「揺れなくなったら//わたしはきっともういない」と矛盾する。
この落差がおもしろい。
<受講者5>恐怖が書いてある。
二、三連目で、揺れに巻き込まれて、いなくなる。
そこが印象に残る。
三連目は、心理というより、生きていこうとしている。
生きていく感覚を身につけている。
「橋は揺れない」という感想が、私にはとても新鮮だった。一連目の「橋が揺れる」は二連目の「橋の上から川の水をみていると」からつづく行で言い直されていると思う。橋そのものは揺れないが、川の流れ(揺れ)を見ることで、自分が揺れはじめる。それを橋の揺れと錯覚する。自己と対象の「一体化」が引き起こす錯覚。
同じものが、二連目の「杢目の浮き出た天井」。木目が川の流れのように見え、それが「揺れる」感覚を肉体のなかにつくりだすのだろう。
見ている対象(揺れている対象/揺れを感じさせる対象)に自分が重なってしまう。自分が重なり、自分ではなくなる。自分がいなくなる。それが三連目ということになる。これを「心理」と呼ぶか、あるいは「肉体感覚」と呼ぶかは、意見がわかれると思う。
私は「心理」とか「精神」というものがあるとは考えていないので、「肉体感覚」と受けとめた。
揺れるものを見ていて、揺れそのものにのみこまれ、自分が揺れになる。そのあとで、
揺れることで安定している
揺れるものは美しく
揺れないと安心できなくなる
「揺れ」が「安定」にかわる。ただし、この「安定」は「静止」ではない。「揺れている」。「安定」は「安定した同調」である。「同調」だから、それからすぐに「美しく」に変わる。「同調」が「美しい」というのは、まあ、「和音」だね。「同調/和音」というのは複数が支えあうこと。だから、それはさらに「安心」にかわる。
動きがなく、止まっていたら「同調」は生まれない。「和音(音の振動/ゆらぎ)」は生まれない。
「わたしも相手も揺れなくなったら//わたしはきっともういない」というのは、読んだ瞬間は、たしかに「揺れながら私はいなくなる」と矛盾しているように見えるが、それは矛盾というよりも、揺れといっしょに生きていく過程の「進化」のようなものだろう。ここに書かれていることが「心理というよりも生きていこうとして身につけたもの」という指摘は、とても強い。また、最後の部分に「哀しさ」を感じるという感想も、誰か(相手)といっしょに生きて変化していく人間のあり方を語ろうとした意見だと思う。
私が、これは何だろうなあと感じるのは、
鳥がついてくるからか
鳥がついてこなくなったら
繰り返される。「鳥」と「ついてくる」という動詞。「鳥」は「揺れる」か。わからない。鳥は、この詩のなかに出てくることばで言えば「落ちる」という動詞が不気味な形で結びつく。鳥は落ちて死ぬ。あるいは、死んで落ちる。
「揺れる/動く」は生きている証。「死ぬ(落ちる)」は「動かない(動かなくなる)」ということか。
「鳥がついてくる」は生きているもの(いのちのあるもの)がいっしょにいる、人生を同行するということか。「鳥」は「わたし」から離れた「肉体」、「相手」のことかもしれない。
*
陶山エリ「ヤード」は、Tokyo No.1 Soul Set の曲のタイトル。「アルバムの10曲目に収録されている」という。「ヤード」の意味がわからない、と書き出されている。その三、四連目。
ヤードのイントロは盛大すぎて
いつもビクッとする
9 曲目の
インストゥルメンタルの静けさに
身を委ね
安心していてはいけない
そろそろくるのわかっている
わかっていて必ずビクッとする
トランペットかなにか管楽器の洗礼に
瞳孔も海馬も容赦なくビクッとする
いきなりわかっていて必ず
いきなりビクッとして少し笑う
それは静電気に出くわしたときの
悲しさに似ているのでは?
だから少し笑うのでは?
受講者からも感想が出たが「静電気に出くわしたときの/悲しさ」がとてもおもしろい。静電気に「ビクッとする」反応は「肉体」として「わかる」。しかし、それが「悲しさ」とは感じたことがなかったので、とても新鮮に感じた。
最終連。
ヤードって何のこと
どうしてヤードってタイトルなのか知りたくて
ヤフー知恵袋に質問しても
誰も答えてくれなかった
この「ヤフー知恵袋」ということばに対して「それまでのことばと違っている。俗っぽい」という批判が出たが、私は、ここはおもしろいと思った。「現実」に存在することば。それが詩になるまでには少し時間がかかる。「ヤフー知恵袋」が詩のことばとしてつかわれるようになったのだ、と私は感じた。
詩集 遠いサバンナ | |
田島 安江 | |
書肆侃侃房 |