寺尾進「告別 みんなのうた」(「アルケー」12、2016年04月01日発行)
寺尾進「告別 みんなのうた」は「告別」に「意味」がこめられているのだろうか。よくわからない。
「告別式」の日に雨が降っている、ということだろうか。でも、「告別式」にラジオから歌が流れるということはないだろうなあ。
そういう「わからない」部分は、わからないままにしておいて。
「わかる」ことは、同じことばが何度もくりかえされること。「ふりはじめ」「ふりはじめ」「ふりつづき」「親しい人たち」「親しかった 人たち」「話しかけるように」「いるように」「いるように」「うた」「うたわれる」。ことばが繰り返されると、ことばが前に進んでいるのか、後ろに引き返しているのかわからない。どちらでもなく、往復している気持ちになってくる。行ったり、来たり。それは、そこにとどまりながら、そこにいない、ということ。
これが「告別式」の「感情」と呼べば呼べるかもしれない。
亡くなったひとは、そこにいて、そこにいない。そこに「肉体」ととどまりながら、そこに「いのち」はない。
これが、さらに次のように言い直される。
ことばの往復が、「淋しい」を「感情」として浮かび上がらせる。「存在(あ)ることは」の繰り返しは「意味」になりすぎていると思うけれど、その「意味」のまえの、
この二行の方が、不思議とこころに残る。
「わかる」ということは、気づくということ。思い出すということなのだろう。「うた」を聞いているだけでは「わからない」。「うた」を「うたう」、つまり自分の「肉体」で繰り返す。そうすると、「肉体」のなかから何かがあらわれてくる。「ことば」になるまえに、何かがあらわれてくる。それがしだいに「淋しさ」という形に結晶してくる。
書き出しに書かれていた「繰り返し」が「肉体」をとおって、「感情」をゆさぶり、動かしている。「感情」が「繰り返し」によって、「肉体」から生み出されているという感じがする。
そのあとの「存在(あ)ること」の繰り返しは、「感情」を「意味」にしている。この「意味化」の動きを「思想」と呼ぶ人もいるけれど、私はその直前の「感情を生み出す力」の方を「思想」と考えている。
で、その「感情を生み出す力」というのは、「意味」を壊すものでもある。
「ものを言わない」、けれど「声」は「出す」。
そこにあるのは「声」。「意味」は「ない」。いや、しかし、告別式に「その人の肉体」はあるけれど、そこにその人は「いない」というのに、似たものがそこにはある。
「ららら」の音には、それを音にする「声」があり、「肉体」がある。「肉体」が「声/音/ららら」を生み出している。ただし、その「音」が「意味」するものは、明確には「わからない」。
一度は「さびしさ」だと「わかる」。「わかった」のだが、やっぱり「わからない」。しかし、「わからない」は「知らない」とは、また違うのだ。どういうことばにしていいか「わからない」だけであり、そこに「感情」があることは「知っている」(わかっている)。
それは次のように言い直される。
「わかっている/知っている」けれど、それをことばにしない。それが「ある」。それは、それこそ「淋しさ」、「淋しい」という「感情」かもしれない。みんな「淋しい」といえば、みんな「淋しい」。けれど、それぞれが違っている。それぞれの「肉体」のなかに、それをとじこめている。
「ぼく」は、そうやって「世界」と触れる。「世界」とは「永遠」のことでもあるだろう。「永遠」とは「普遍」、「普遍」は「不変」、何も変わらない。けれど、その「変わらない」は「動かない」とは違うのだ。「変わらない」は同じことを「繰り返す」ということなのだろう。同じことの「繰り返し」だから「変わらない」。「変わらない」ように見えるが、「繰り返す」ときに何かが「生み出される」、何かが「生まれる」。
「ぼくには 秘密がある」「世界にも 秘密がある」。その「秘密」が、いま、寺尾のことばといっしょに「生み出されている」。
寺尾進「告別 みんなのうた」は「告別」に「意味」がこめられているのだろうか。よくわからない。
そとでは
雨がふりはじめ
ねえ、って話しかけるように 雨がふりはじめ
まるで親しい人たちがいるように
親しかった 人たちがいるように ふりつづき
ラヂヲでは みんなのうた が うたわれる
眠りのまえの みんなのうた のように うたう うた
「告別式」の日に雨が降っている、ということだろうか。でも、「告別式」にラジオから歌が流れるということはないだろうなあ。
そういう「わからない」部分は、わからないままにしておいて。
「わかる」ことは、同じことばが何度もくりかえされること。「ふりはじめ」「ふりはじめ」「ふりつづき」「親しい人たち」「親しかった 人たち」「話しかけるように」「いるように」「いるように」「うた」「うたわれる」。ことばが繰り返されると、ことばが前に進んでいるのか、後ろに引き返しているのかわからない。どちらでもなく、往復している気持ちになってくる。行ったり、来たり。それは、そこにとどまりながら、そこにいない、ということ。
これが「告別式」の「感情」と呼べば呼べるかもしれない。
亡くなったひとは、そこにいて、そこにいない。そこに「肉体」ととどまりながら、そこに「いのち」はない。
これが、さらに次のように言い直される。
うたがうたわれて
はじめて そのうたが「淋しさ」だとわかる うた
存在(あ)ることは 淋しい
存在(あ)ることは しきりと淋しい
みんなが 淋しい みんなのうた
もの みな
もの言わないからこその うたを うたう
ららら らら
ららら あらら らら
ことばの往復が、「淋しい」を「感情」として浮かび上がらせる。「存在(あ)ることは」の繰り返しは「意味」になりすぎていると思うけれど、その「意味」のまえの、
うたがうたわれて
はじめて そのうたが「淋しさ」だとわかる うた
この二行の方が、不思議とこころに残る。
「わかる」ということは、気づくということ。思い出すということなのだろう。「うた」を聞いているだけでは「わからない」。「うた」を「うたう」、つまり自分の「肉体」で繰り返す。そうすると、「肉体」のなかから何かがあらわれてくる。「ことば」になるまえに、何かがあらわれてくる。それがしだいに「淋しさ」という形に結晶してくる。
書き出しに書かれていた「繰り返し」が「肉体」をとおって、「感情」をゆさぶり、動かしている。「感情」が「繰り返し」によって、「肉体」から生み出されているという感じがする。
そのあとの「存在(あ)ること」の繰り返しは、「感情」を「意味」にしている。この「意味化」の動きを「思想」と呼ぶ人もいるけれど、私はその直前の「感情を生み出す力」の方を「思想」と考えている。
で、その「感情を生み出す力」というのは、「意味」を壊すものでもある。
「ものを言わない」、けれど「声」は「出す」。
ららら らら
ららら あらら らら
そこにあるのは「声」。「意味」は「ない」。いや、しかし、告別式に「その人の肉体」はあるけれど、そこにその人は「いない」というのに、似たものがそこにはある。
「ららら」の音には、それを音にする「声」があり、「肉体」がある。「肉体」が「声/音/ららら」を生み出している。ただし、その「音」が「意味」するものは、明確には「わからない」。
一度は「さびしさ」だと「わかる」。「わかった」のだが、やっぱり「わからない」。しかし、「わからない」は「知らない」とは、また違うのだ。どういうことばにしていいか「わからない」だけであり、そこに「感情」があることは「知っている」(わかっている)。
それは次のように言い直される。
ぼくには ひみつが ある
誰にもいわない ひみつが ある
誰にもいえない ひみつが ある
「わかっている/知っている」けれど、それをことばにしない。それが「ある」。それは、それこそ「淋しさ」、「淋しい」という「感情」かもしれない。みんな「淋しい」といえば、みんな「淋しい」。けれど、それぞれが違っている。それぞれの「肉体」のなかに、それをとじこめている。
ららら らら
ひみつだから ずっと 誰にもいえない
きっと きっと世界にも ひみつがある
ひみつだから 誰にもいわない
「ぼく」は、そうやって「世界」と触れる。「世界」とは「永遠」のことでもあるだろう。「永遠」とは「普遍」、「普遍」は「不変」、何も変わらない。けれど、その「変わらない」は「動かない」とは違うのだ。「変わらない」は同じことを「繰り返す」ということなのだろう。同じことの「繰り返し」だから「変わらない」。「変わらない」ように見えるが、「繰り返す」ときに何かが「生み出される」、何かが「生まれる」。
「ぼくには 秘密がある」「世界にも 秘密がある」。その「秘密」が、いま、寺尾のことばといっしょに「生み出されている」。