詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党「日本国憲法改正草案」を読む(2)

2016-04-15 12:06:12 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党「日本国憲法改正草案」を読む(2)

 先日、

第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。(現行憲法)
第十九条 思想及び良心の自由は、保証する。(自民党草案)

 この二つの条項を比較した。「保証する」について、問題点を指摘した。私は法律の専門家ではないし、専門用語(法律用語)に詳しいわけでもないから、「うさんくさい」と思ったことを書いたといった方が正確だろう。
 そのとき書けなかったことを書く。(私は目が悪くて40分を過ぎると、目が痛くなり書けない。)
 「保証する」ということばのほかに自民党草案に「保障する」という表現も出てくる。それに触れながら「保証する」と「保障する」の違いについて考えてみる。なぜ、自民党草案が「侵してはならない」という表現をそのまま引き継がずに「保証する」と言い直したのか、また別のところで「保証する」ではなく「保障する」と言い換えているのはなぜなのか、そういうことを考えてみた。
 「保障する」は次のようにつかわれている。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
                                 (現行憲法)
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
                                (自民党草案)

 これを読むと、自民党草案のどこが問題なのか、「あいまい」になるかもしれない。同じことを言っているように見える。「言論、出版その他一切の表現の自由」が「保障」されているなら、何を書いても大丈夫ということにならないか。心配はないのではないか。しかし、ほんとうか。
 うーん。
 私は、なぜ「保証する」と「保障する」を使い分けたのか、それが気になる。
 現行憲法でも「侵してはならない」を「保障する」と言い換えている。なぜ、現行憲法は「侵してはならない」を「保障する」と言い換え、自民党草案は「保証する」を「保障する」と言い換えている。そのの違いが、気になる。
 「法律」の定義を無視して、私は私の知っていることから「保証する」と「保障する」の違いを考えてみる。
 「保証する」の「保証」がいちばん身近な例は「身元保証人」。これはある人物の「身元が確かであるとうけあう」こと。そして、もし「保証しただれか」が問題をおこしたとき、たとえば借金をつくって逃げたとき、「身元保証人」はその借金の肩代わりをしないといけない。責任がともなう。責任を「うけあう」。だから「身元保証人」になるには、覚悟がいる。慎重でなければならない。
 こういう「責任」、

第十九条 思想及び良心の自由は、保証する。(自民党草案)

 これに現実に起きている「事件」にあてはめると、どうなるか。
 たとえば、イスラム教徒のテロリストに心酔する日本人がいるとする。キリスト教徒は撲滅しなければならないという思想を持っているとする。「思想の自由」を「保証する」と、もしその日本人がテロリストになって事件を起こし、賠償請求をされたとき、日本政府は「身元保証人」として、責任を持って賠償に応じないといけないことになる。ほんとうに安倍政権政府はそんなことをするだろうか。しない。安倍にとって不都合な思想までは「保証しない」。つまり、安倍にとって有益な思想だけ「保証する」。いや、安倍政権にとって都合のいい思想だけ、押しつけてくるに違いない。
 安倍にとって「都合のいい思想」とは、たとえば、

第二十四条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。(自民党草案)

 「家族が助け合う」というのはあたりまえのことである。このため「思想」と呼ぶとおおげさな感じがするかもしれないが、人は誰でも日常のなかでいろいろな「思い」を抱きながら生きている。そういう「思い」はすべて「思想」である。ほとんど無意識になってしまっている、「肉体」にしみついている「思想」である。
 そういうことを、わざわざ憲法に書くのは、「家族は助け合わなければならない」という「思想」の押しつけ、「倫理」の押しつけである。
 現実生活では、夫婦が不仲になり、離婚するというようなことはどこの社会でも起きる。そういうとき、この条項が憲法にあると、どうなるのか。憲法は国民にどう働きかけてくるのか。国は憲法を利用して国民をどう動かそうとしてくるのか。
 憲法は、国民のけんかする、別れるという権利を守ってくれるのか。けんかして、別れても、普通の日本人として「身元保証人」になってくれるのか。きっと違う。「家族を大切にしろ、夫婦は別れるな」という「生き方」を押しつけてくる。日本的な(?)夫婦のあり方を守っている国民だけを、日本国民として「保証する=身元保証人になる」ということになる。そうしない国民は「憲法違反」であり、「保証」してもらえなくなる。そうなりかねない。
 「日本的な」と書いたのは……、自民党草案の「前文」に

日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するために、

 ということばがあるからだ。
 「良き伝統」と第二十四条の「家族」を結びつけると、「家長制度」が「家族の理想像」として浮かび上がるかもしれない。(夫婦別姓に自民党が反対しているのも、「家長制度」が「理想」だからだろう。)父親が家族を支配し、統合する。そういう「思想」なら「保証する」。父親の言うことを聞かない、男女平等を言い張る夫婦関係を「保証しない」。日本の伝統と違うから、ということになりかねない。
 人は誰でも、自分の害にならないと判断したものだけを「保証する=身元保証人になる」。害に不安がある時は「保証しない=身元保証人にはならない」。
 一方、それでは現行憲法ではどうなるのか。
 日本人がテロを主張するイスラム教徒の主張に心酔し、同じような行動をとったとする。そのとき、その日本人テロリストを守るのか。「身元保証人」になるか。やっぱり、そんなことはしないだろう。
 ただし、そのときの現行憲法が日本人テロリストを断罪する側にたつのは、その「犯罪行為」を断罪するためである。断罪するにしても、その日本人がどのような思想を持っているかということは、断罪するときの判断材料にはしない、というのが、「思想、良心の自由を、侵さない(侵してはならない)」ということなのである。思想、良心というのは完全に個人のもの、国(国家権力)のものではないから、絶対に「侵さない」。同時に、それが完全に個人のものであるから、それがどんな思想であろうと「保証はしない=身元保証人にはならない」、ということが第十九条に書かれていることなのだ。「侵さない」は「身元保証人にはならない」という意味でもある。

 別な角度から、「保障しない」と「保証しない」との違いについて考えてみる。「保障する」ということばの方から考え直してみる。
 「保障する」について「保証人」と同じようになじみのあることばを探してみよう。
 「日米安全保障条約」。これは、日本がある国から攻撃されたとき、アメリカは日本の安全を守るために戦うという条約。「保障する」とは、誰かからの攻撃があったとき、攻撃された人を「守る」ということ。そのために、アメリカは日本に基地をつくり、兵隊を常駐させている。(「安保条約」にともなう「日米地位協定」はアメリカに様々な特権を与えているから、日本を守るというよりも、アメリカが攻撃されないようにする前線として日本を利用できる、というのが「安保条約」の実体だろうと思う。)
 「保障する」は誰かが攻撃されたとき、その攻撃を防ぐ側に回って、攻撃されている人を守る、ということである。
 だから、現行憲法の

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、「国家権力は」これを保障する。

 は、ある誰かが別の誰かの「出版、言論の自由」を侵害しようとしたとき、国家権力は侵害する人の側ではなく、侵害されたひとの権利を守るのために闘う、侵害された人の権利を守るということなのだ。それがたとえ「国家権力」に不都合であっても。具体的にいえば、その「出版物」が安倍を批判し、攻撃するものであっても、その権利を守る、安倍を批判する権利を侵害しないというのが現行憲法である。
 でも、どんなふうに?
 たとえば国家権力に対し、暴力革命で政権を奪おうという結社の主張したとき、それを誰かが非難、攻撃をする。こういうとき、政権は、クーデターを主張する集団を弁護し、守るか。そんなことはしないだろう。弁護も、守りもしない。つまりクーデター集団の主張を「保障しない」、また「保証もしない=クーデター集団の身元保証人にもならない」。しかし、最低限、その集団がどのような思想を主張するか、その権利は侵害しない。どのような言論も、弾圧しない。現行憲法は「権利を侵害しない」という意味で「保障する」と言っている。「侵害しない=侵害してはならない」を「保障する」という言い方で言い直しているのである。
 第十九条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と密接に関係しているのである。「思想及び良心の自由は、これを保証する。」と現行憲法が言わないのは、「侵してはならない」と「保証する」がまったく違うからである。「保障する」と「保証する」もまったく違うからである。「侵してはならない/侵害してはならない」が「保障する」と同義であり、「保証する」とは別の考え方なのだ。
 もう一度、自民党草案にもどる。現実に起きていることに、もどる。
 誰かが安倍批判をする。安倍政権が不都合だと感じることを言う。その権利を安倍政権は守るか。守りはしない。逆に弾圧しようとしている。

「安倍政権にとって都合のいい」集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。そうでないものは「保障しない」。

 「その他」に「放送(マスコミ)」をつけくわえてみると、現在起きていることが、よくわかる。「保障しない」だけではなく、逆に「保障する必要がない=弾圧してしまえ」が、自民党草案の意図である。
 安倍政権を批判しないかぎりは、「言論の自由」を「保障する」。放送(マスコミ)が活動するときの「身元保証人」になる。放送することを「認可する」。「安倍政権にとって都合の悪い」ことを言うなら「身元保証人にはならない=保障しない」。その権利を剥奪する。つまり「侵害する」。
 「保障する」は、あくまで「身元保証人」として「保障する」のである。「身元保証人」になれない国民の権利など「保障しない」という意味が自民党草案のなかに隠れている。

 この隠しているものを、さらにわかりにくくするために、自民党草案は、「保障する」の「主語」をあいまいにしている。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」というのはテーマなのに、それが「主語」であるかのように装い、「国家権力にとって都合のいい」という「表現」の内容を押しつけている。「国家権力にとって都合のいい」集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する、と言っている。

 「国家権力にとって都合のいい」「国家権力とって都合の悪い」ということばを補ってみると、とてもよくわかる例が「信教の自由」の条項。「思想」「良心」の具体的なあり方としては「宗教」がいちばんわかりやすい。(先にイスラム教徒によるテロを例にあげたのは、そのため。)

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。(現行憲法)
第二十条 信教の自由は、保障する。(自民党草案)

「国家権力とって都合の悪い宗教であっても」信教の自由は、何人に対してもこれを「国家は」保障する。(=どんな宗教を信じていても、その人がその宗教を信じる権利を国家は侵害しない、国家はその権利を侵してはならない。)(現行憲法)
「国家権力にとって都合のいい宗教であるなら」信教の自由は、保障する。(=けれど「国家権力に都合の悪い」宗教を信じるものに対しては、どんな「保障もしない」。=たとえば「靖国」の宗教を信じるひとの「身元」は「保証する」けれど、「靖国」を批判するひとの「身元」は「保証しない」)(自民党草案)

 こう読むことができる。「何人に対しても」を省略した意図はここにある。
 これは、テロリストの例にもどって言うと、自民党草案では、テロリストが、テロ行為を容認する「イスラム教」を信じていた場合、その人の信教の自由は「保障しない」ということ。誰かが、その人はイスラム教を信じているからテロリストかもしれないと批判、攻撃しても、国家はその人を守らないということ。(トランプの「イスラム教徒は出て行け」につながる。)テロという行為を断罪するだけではなく、その延長線上には気に食わない宗教への弾圧がひそんでいる。(いま、実行しなくても、いつか実行するときの「根拠」になる。)
 「日本の伝統」の宗教を信じる(たとえば「靖国神社」の宗教を信じる)ならば、その人の安全を「保障する」けれど、そうでなければ「保障しない」。靖国を参拝するひとの「身元保証人」にはなるが、批判するひとの「身元保証人にはならない」。靖国を批判するひとは、どうなっても国は知らない。権利を「保障しない」ということにつながっていく。

 なぜ、あることばを省略(削除)するのか、あるいはなぜあることばを追加するのか、そういう部分は、新設条項以上に慎重に読まないといけない。
 「何人」ということばを含む条項には、自民党の「意図」が露骨に出たものがある。

第十九条の二 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。(自民党草案)

 現行憲法にはない条項である。新設条項である。「何人も」「してはならない」と禁じているが、これは国民に対する「禁止事項」。「国家権力」が「主語」の場合はどうなのか。
 「国家権力は」と主語を書き換えるならば、

「国家権力」は、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してもいい。(そうすることが、許される。)

 と暗に語っていないだろうか。「何人も」のなかに「国家権力」が含まれているとは、私にはどうしても思えない。
 そして、もし「国家権力」は、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してもいい。(そうすることが、許される。)」ということなのであれば、それはそのまま「マイナンバー制度」そのものの「活用」である。
 「現実」というのはなかなかことばにならない。ことばになって検討され時には、もう「現実」はとりかえしのつかないところまで来ている。そういうことを安倍は狙っている。「自民党草案」は、すでにいたるところで「現実」として動いている。
 高市の「放送認可を取り消す」発言や、マイナンバーの導入は、その動きのひとつである。

 自民党草案には「第九章 緊急事態」の条項がある。その「第九十八条」「第九十九条」については多くの人が語っている。「第九章」は問題点が多すぎる。そのせいか、そこに視点がひっぱられ、それ以外の部分は「ささいな書き換え」に見えてしまう。
 けれど、ここで麻生の発言を思い出そう。「気づかれないように少しずつ、やりやすいところから変えていくナチスの手法に学ぶべきだ」というようなことを言った。それが、「第九章」以外の部分で行われていることだ。「保証する」「保障する」はどう違う? 言論の自由は「保障する」と書かれているなら、それでいいじゃないか、とだまされてはいけない。
 憲法学者(法律学者)の専門的な目も必要だが、日常の感覚で、ことばをひとつひとつ確かめてみる必要がある。ことばが跳ねかえってく「肉体」は私たちひとりひとりの「肉体」である。誰も、かわってはくれない。そこに書かれていることが「現実」になったら、自分の「肉体」は、どう動くのか。どこまで動かせるかの、そういうことを自分が知っている「動詞」として確かめてみる必要があると思う。



日本国憲法改正草案 自由民主党 平成二十四年四月二十七日(決定)は次のURLに掲載されている。
http://editorium.jp/blog/wp-content/uploads/2013/08/kenpo _jimin-souan.pdf#search='kenpo2013+%5B%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%A8%5D+editorium.jp'
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谷川俊太郎「本当の詩集」

2016-04-15 10:26:02 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「本当の詩集」(「午前」9、2016年04月15日発行)

 谷川俊太郎「本当の詩集」に出て来る「本当」とは何だろう。

これまでに本当の詩集に何度か出会った
郵便で届いたものもあるし
路上で金銭と引き換えたものもある
みな控えめな姿をしていた

 「本当」は「控えめ」ということばに言い換えられているのだろうか。この「控えめ」は二連目で別のことばになる。

本当の詩集の中の言葉が
すべて本当の言葉だとは限らない
ただ手書きの文字や活版の活字の群れに
肉声がひそんでいたのは覚えている

 「ひそむ」が「控えめ」に通じる。それが「本当」であるとしたら、その「本当」は読者が(谷川が)見つけ出すことによって、はじめて「あらわれる」もの、姿を「あらわす」ものである。
 見つけられるのを待っている。
 そうであるなら、「本当」は、逆のものにならないか。見つけ出されないかぎり存在しない。存在していてもわからないなら、それは存在しないに等しい。
 見つけ出すその「視力」(鑑賞眼)が「本当」であり、「言葉」「肉声」は「本当の鑑賞眼」によって「生み出される」、「鑑賞眼」が「本当」を「生み出す」ということになる。
 あ、こんなふうに区別をしてもしようがないかもしれない。「鑑賞眼」が「本当」を見つけ出すのか、「本当」だから見出されるのか、--そこに能動/受動の違い(区別)をもちこんでもしようがない。「本当の鑑賞眼」と「本当の言葉」が出会って、その瞬間に詩が生まれるのだろう。
 で、「控えめ(控える)」「ひそむ」は、もう一度変化する。言い直される。

本に似ていたが本ではなかった
値段がついていたが商品ではなかった
人間が生み出したものが
人間からはみ出そうとしていたのかもしれない

 「本当の鑑賞眼」と「本当の言葉」が出会って、詩を「生み出す」。人間が、「生み出す」。この「生み出す」を、谷川は、

人間からはみ出す

 と、言い直す。
 うーん。
 私は「生み出す」は「生まれる」と対応することばだと思っていたが……。
 そうか、「はみ出す」か。
 「控えめ」にしようとしても「はみ出す」、「ひそんで」いようとしても「はみ出す」。
 その「はみ出す」ものが、「本当」ということなのだろう。
 このとき「何から」はみ出すか。「言葉から」ではなく「人間から」と谷川は書く。ここも、おもしろい。谷川は「言葉以外のもの」を読んでいるのかもしれない

 この詩には、もう一連ある。もう四行ある。

本当の詩集が荒れ地で半ば泥に埋もれている
だが中の言葉は朽ちていない
本当の詩集を誰かが月面に忘れていった
深い静けさのうちにそれは無言で呟いている

 この連のなかで、私はこれまで見てきたのと同じ方法で「本当」を探し出すことができない。
 「控えめ(控える)」→「ひそむ」→「はみ出す」という「動き」をひきつぐ「動詞」を見つけ出すことができない。「埋もれている」では「はみ出す」はずのものが逆戻りしてしまう。
 そのかわりに、とても不思議なことばに出会う。
 最終行。
 ただし、「無言で呟いている」という「矛盾」のことではない。私は「矛盾」のなかに詩があると感じているし、この「無言で呟いている」の「呟き」が「深い静けさ」のうちでさらに「無言=沈黙」の音楽になっていくところに、この詩の「本当」があるといいたい気持ちにもなる。また先に書いた「言葉から」ではなく「人間から」という表現を手がかりに、「言葉からではなく」を「言葉ではないものから/無言から」と読み直したい気持になるのだが……。
 そんなふうに言うと、なんとなくかっこいいしね。
 でも、それは「不思議」というより、妙に「論理的」。私が「不思議」と感じるのは、

深い静けさのうちに「それは」無言で呟いている

 で、ある。「それ」。
 「それ」って何?
 「本当の詩(詩)」、「本当の言葉/本当の肉声」と言い換えることができるだろう。「本当の詩」と言ってしまった方が簡単(?)だろう。「結論」として落ち着くだろう。詩なのだから「結論」はいらないといえば、まあ、いらないのだけれど。
 では、なぜ「本当の詩」と書かなかったのか。
 「書かなかった」のではなく、「書けなかった」のだと思う。「それ」としか、言いようがなかったのだと思う。
 言いたいことは具体的な「ことば」、論理的な「ことば」にはならない。「本当に」言いたいことは、「それ」としか言えないのだ。不完全な「指し示し」でしかあらわせい。
 「本当の詩集」って何? 「それ」。あるいは、「あれ」、または「これ」。知っているもの(覚えているもの)を、ただ指し示すことはできる。どこで出会ったか、それを指し示すことはできる。けれど、明確に別なことばで言い直すと、きっと違ってしまう。
 そういうものが「それ」なのだ。
 「無言」で、つまり言い換える「ことば」を拒絶して、ただ指し示し、反復する形で提示することしかできない、「それ」。ことばを必要としないで伝えあう「それ」。

 よく、気心のしれた相手だと「あれ、どうなった」と言うだけで「意味」が通じることがある。その「あれ」に、この最終行の「それ」は似ているかもしれない。
 「本当の詩集」、その「本当」を体験した人なら「それ」でわかるはず、と言われているようで、私はまごついてしまう。「それ」は意味を超えたことばなのである。

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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