詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐伯多美子「美(うる)わしの日々」

2016-04-09 08:37:17 | 詩(雑誌・同人誌)
佐伯多美子「美(うる)わしの日々」(「ガニメデ」66、2016年04月01日発行)

 花見の季節は終わったが、花見の詩を読んでみる。佐伯多美子「美(うる)わしの日々」。「婆」が主人公(?)のようだ。

一ちゃんはどうしているだろうか
一ちゃんの住む公園のある東の方をみる
寝袋ひとつ持って桜の木の下で終日過ごしているが
桜の季節には暗黙のルールのように花見客に明け渡し
公園のはずれのベンチに移動する

満開の桜を遠くに見ながら花見をしたことがあったなあ
婆の相棒の八ちゃんと 八ちゃんの友達の一ちゃんと
よく晴れて日差しがまぶしかった
弁当を持って 缶チューハイを持って ビニールシートを持って

 「東の方をみる」と「遠くに見ながら」が、通い合っている。「距離」がある。その「距離」を見ている感じがする。この「距離」は「あったなあ」という回想のことばと結びつき、「時間」の「隔たり(距離)」ともなる。
 「花見」というのは一般的に桜の花に近づいて見るのだが、「婆」の仲間は「離れて」見ている。その「距離」のとり方が、うまくいえないのだが、「婆」の仲間たちの「距離」のとり方に似ているように、感じる。
 どこから?
 あ、説明がむずかしい。ことばの「リズム」のなかに、そういうものを感じてしまう。「暗黙のルール」ということばが出てくるが、その「暗黙のルール」はホームレスではない人へ向けた「暗黙のルール」というよりも、仲間うちの「暗黙のルール」のように感じられる。そういう「ルール」を生きることで、ホームレスではない人と共存する。そうしないとホームレスは締め出されてしまう。締め出されないための、ホームレスがつくりだした「暗黙のルール(自主規制)」なのだ。
 「衝突」を、どこかで避けている。「直接」を避けている。これも「距離」につながる。

よく晴れて日差しがまぶしかった

 この行が象徴的だ。「花見」なのに桜のことは書いていない。日差しのことを書いている。そういう「距離」のとり方がある。「間接」を見ているの。「間接」のなかにあるものを見ている。

 「距離」は後半にも出てくる。

ねぇ 一ちゃん
八ちゃんが最期まで会いたがっていたのよ
八ちゃんはあっけなく死んだのだけれど
あんまりあっけなくて悲しいとか思う間もなく
涙も一滴もでなかった
病床で
-一ちゃんに会いに行ってこようかな-
って ぽつりと言ったの
その時 哀しかった 今でも胸がしめつけられるように哀しい

一ちゃんに会うには東のその公園まで行かなければならない
広大な公園のどこにいるかも分からない
八ちゃんの今の体では無理

 「距離」は「行ってこようかな」「行かなければならない」の「行く」という「動詞」といっしょに「ある」。空間の一点と別の一点が「距離」なのではなく、「行く」という動きが「距離」をつくる。
 「行く」ことができないとき、「動く」ことができないとき、「距離」は、そこにはない。
 何か違ったものがある。それを感じさせる。
 このあと、もうひとつの「距離」と「行く」が登場する。

その時 八ちゃんは体からすうーっと抜け出る
八ちゃんは自転車に乗って広大な公園を疾走する
桜の山はもう五周した 屋根のあるたまり場も行った
公園の外れはもちろん行く

 「距離」はしかし、「距離」にならない。「永遠」になる。なぜなら、

一ちゃんは見つけられなかった

 とても切ない。
果て
佐伯 多美子
思潮社
コメント
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