詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

記事吉田文憲「滞留」

2016-04-23 12:04:03 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「滞留」(「午前」9、2016年04月15日発行)

 吉田文憲「滞留」の作品にも繰り返しがある。原文は行の末尾が揃えられているもの、行頭が途中からのものが混在している。行と行の間も1行空き、2行あるいは3行空き(どちらか、よくわからない)とふぞろいである。ネットでは正確に再現できないので、引用は行頭を揃え、行間も1行にした。印象が違ってしまうかもしれない。(原文を参照してください。)

「リノリウムの床を動くものがある」

テーブルの上で跳ねかえる雨のばりばりいう音。

「リノリウムの床を動くものがある」

おそらくは、こうして近づいているのだろう。

「呼吸を整えようとして…」

「呼吸を整えようとして…」  「雨を待った」

「目に見えぬ灰の襲来…」「そのくるしい息の音と、暁方になく山鳩の咽を鳴らす声」

「それからその人の唇がゆっくり開いてゆくのを、わたしは、息を詰めて見つめていた」

 ことばにはカッコ「 」がついているものとついていないものがある。どう区別しているのか、わからない。わからないものは、私は無視してしまう。「わかる」、あるいは「わかる」と思い込んでいるものについて、書いてみる。
 まず「リノリウムの床を動くものがある」が繰り返される。ただ繰り返されるのではなく、間に「テーブルの上で跳ねかえる雨のばりばりいう音。」という行がある。間に別の行があることによって、繰り返しがより鮮明になる。もどってきた、という感じ。
 しかし、「もどってきた」は違う。
 そのあとは、すぐに「おそらくは、こうして近づいているのだろう。」ということばがある。
 「近づいている。」
 この動詞は、とても複雑だ。「近づいてくる」なら「主語」は「誰か/私以外のもの/私以外の存在」になる。「近づいてゆく」なら、「主語」は「私/詩のことばを発している話者(吉田)」になるだろう。けれど吉田は「主語」を消して、「近づいている」という「状態」そのものを書いている。「状態」が「主語」。
 「接近している」は「接近」という名詞に似ている。名詞化して考えた方がいいのだろう。
 この「動詞」の「名詞化」というのが、吉田の「繰り返し」の特徴かもしれない。 「動くものがある」は「動いている」。何が動いているのか、ここでは書かれていない。「動く」が「状態」として、そこに提示されるだけである。
 間にはさまった「雨のばりばりいう音」を手がかりにすれば、雨の影がリノリウムの床に動いているのかもしれない。しかし、何がとは吉田は書かず、ただ「動くもの」が「ある」と書く。
 この「ある」は「動詞」だけれど、「名詞」に似ている。「状態」全体を、「状態」として「ひとつ」につかみとっている。「ある」ということばに触れるとき、私たちは「ある」そのものを「見る」のではなく、そこに「ある」何かを見る。この「ものがある」から「ある(存在する)もの」への変化、意識の移行が、同じことばの繰り返しによって促されているように、私には感じられる。
 床の上を何かが動く。動くものがある。その動きを見ていると、動きではなく、何かが見えてくる。あれは、雨の影。いや、これは逆にも考えることができるのだが。つまり、雨の影が動いている。動きがあるだけで、雨の影はその瞬間瞬間にあらわれてくる幻のようなものにすぎない。--しかし、これは、どちらかに特定してはいけない。両方の読み方をしなければいけない、ということなのかもしれないのだが、そういう思い方の揺らぎを引き起こすのが吉田の「繰り返し」の力なのだと思う。
 繰り返すことで「リノリウムの床を動くものがある」ということばそのものが、別のものになってしまうのである。
 この変化には、また「ものがある」と「音」の衝突も影響している。「ものがある」というとき、私は先に「見る」という動詞をつかってしまったが、「動くものがある」ことを「聞く」とも言うことはできる。私が「見る」という動詞をつかってしまったのは、私が「視覚型」の人間だからかもしれない。「聴覚型」の人間なら「動く音を聞く」と言い直すだろう。「触覚型」の人間なら「動きを肌で感じる(振動を感じる)」と言い直すだろうし、「嗅覚型」の人間なら「匂いが動いた」と言い直すだろう。
 吉田は「音」を挟むことで「ある」という「状態」を細分化する。分節化する。「ある」ものが、別なものに「近づいている」。そこに「ある」ものから別なものに「なる(分節する)」という動きをとりはじめていると感じている。変化を呼び込んでいる。
 「音」は「声」であり、「声」は「呼吸」でもある。
 何に近づいているか、何を「分節しよう」として動いているのか。「音」は「呼吸」ということばを、まずつかみ取る。
 床を動く雨の影を見ながら(あるいは床を動く雨の影に、そこにはない雨の音を聞きながら)、誰かが、呼吸を整えようとしている。何かを言おうとしている。言えずに、ただ呼吸を整えている。
 「雨を待った」は、どういうことだろう。雨雲が崩れる。崩壊する。そういうことを「待った」のかもしれない。「状態」が膠着したまま、タイトルに従えば「何かが滞留しているような状態」が、雨でもいいから、とにかく破壊/変化してほしいと思っているのかもしれない。「ばりばりという音」の激しさ。それは、求めていた「破壊/崩壊」かもしれない。
 こういうことは、もちろん、書いていない。書いていないから、私の「誤読/捏造」なのだが。「(雨の)襲来」ということばの印象が、「滞留」という状態の「破壊」を望んでいるように感じさせるのである。
 何かが「近づいて」、だんだん「濃密」になり、「濃密」になりながら、「ビッグバン」の瞬間を待っている感じかなあ。
 で、そのあとの、

そのくるしい息の音と、暁方になく山鳩の咽を鳴らす声

 ここに、私は、「繰り返し」の「凝縮」を見る。
 「なく」は「啼く/鳴く」であり、それは山鳩の「咽を鳴らす声」である。「なく」を「咽を鳴らす」と言い直していることになる。つまり別のことばで「繰り返し」ていることになる。
 そして、それはまた「苦しい息の音」の言い直しでもある。「咽の音」と「苦しい息の音」は「咽」という「肉体」で交錯している。
 このとき「くるしい息の音」を発している「主語」は、しかし、「鳩」ではない。「誰か」である。「鳩」は書かれていない「誰か」の「比喩」なのである。誰かが、この「滞留した状況」のなかで「くるしい息をしている」(あるいは、状況のくるしさに息を殺している)。そのかすかに「動くもの」は「誰かのなく声」であり、それは「山鳩」の「声」のようだ。「誰か」を「山鳩」のような生き物として見ている(把握している/理解している)ということでもある。
 これがさらに、次の行で変化していく。「繰り返し」が「同じことば」ではなく「比喩」によって変化しながら「状況/状態/ある」を、いくつのもの「存在」に「分節」していく。
 「山鳩」と比喩で語られた誰かは「その人」となってあらわれる。「くるしい息/なく/咽を鳴らす声」は「咽」から「唇」へと移動しながら「ゆっくり開いていく」という「動詞」になり、繰り返される。
 行をまたぎこして、「待った」は「息を詰めて見つめていた」と繰り返される。
 このとき、「その人」は唇(さらには咽)は開き、動くが、「わたし」の方は唇も咽も閉ざし「息を詰めている」。「その人」は「声(音)」が発する。一方、「わたし」はそれを「聞く」のではなく(もちろん、聞こえるけれど)、「見つめていた」。視覚の人間として、そこにいる。
 「リノリウムの床を動くものがある」というのは、「視覚」でとらえられた世界であり、そこに「音」が入り込んできた、「視覚」と「聴覚」がぶつかり、「滞留」した世界を動かした、ということが、「繰り返し」の変奏によって描かれている。

 このあと作品は「わなないている」「音もなく破裂する」「崩れ去り」「消えた」「接近不能」というようなことばでさらに「ある/状況」(男女の関係/いさかい?)を浮き彫りにする形で繰り返すのだが、その部分に関する感想は省略する。

生誕
吉田 文憲
思潮社
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