詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エルマンノ・オルミ監督「木靴の樹」(★★★★★)

2016-04-21 00:20:52 | 映画
監督 エルマンノ・オルミ 出演 ベルガモの農民たち

 日本の初公開は1979年。もう40年近く前だ。この映画のラストシーンでは、それが映画とわかっていながら、「ミネク、幸せになれよ」と祈ってしまった。あれから約40年、思い出すたびに、やっぱり「ミネク、幸せになれよ」と祈りつづけた。再上映されると聞いて、40年たった今、ミネクは幸せになっているだろうか、と思った。幸せになったミネクを見たいと思った。幸せになったミネクを確かめたい、と思って映画を見に行った。
 「映画なんだから、そのまんまなんじゃない?」とひとは笑うのだが。逆に、映画なんだから、そういう変化が起きていてもいいんじゃないか、と私は思う。40年後のミネクが幸せになってスクリーンにいたらどんなにうれしいだろう。そう願いながら、映画館へ行った。



 映画なんだから、やっぱり昔の映画のまま。そして、見たときの気持ちも昔のまま。ラストシーンでは、ただただ「ミネク、幸せになれよ」と、また祈ってしまう。映画であることを忘れ、力いっぱい、祈ってしまう。私自身が貧農のこどもだからかもしれない。いまは「限界集落」をとおりこして、消滅するのを待っているだけの集落だが、私がこどものころは、それでも同級生が6人いた。ただし、高校へ進学したのは2人。4人は中学を卒業すると就職した。4人の兄、姉も中卒で就職した。私も、実は、進学を半分あきらめていた。父親は高齢で、しかも病弱だった。貧しかった。中学の担任教諭が父親を説得してくれた。しぶしぶ、進学することを認めてくれた。そういう体験があるので、どうしてもミネクに感情移入してしまう。
 過去に一回見ただけだが、映画は、どのシーンも、びっくりするくらい覚えていた。繰り返し繰り返し、思い出していたのだと思う。
 冒頭の、神父がミネクの両親に「ミネクを学校にやるように」勧めるシーンから、胸が痛くなる。中学の担任を思い出してしまう。父親が「学校は遠い」という。神父は「こどもは慣れるものだ」と答える。両親もそうだが、神父もミネクを愛している、そういうことが伝わってくる。それが、うれしくて、かなしい。
 好きなシーンは数えきれない。ミネクが学校へ行く前日、風呂に入っている。(体を洗ってもらっている)。そうすると、弟が「ぼくも、お風呂に入りたい」という。お湯で体を洗うことは、「ぜいたく」なのだ。それが、忘れられない。
 ミネクが学校で「水のなかには生き物がいっぱいいる」というと父が「知ってるよ、魚だろう」「魚じゃなくて、もっと小さい」「見えないよ」「見えなくても、いるんだ。一滴の水のなかにも」という具合にやりとりするところ。あるいは父親がミネクのノートを拡げて「これはLかな」と母親に問いかけるシーン。(今回映画で見たら「L」ではなく「Eかな」だった。)
 さらには、ミネクがはしゃいで学校の帰りに、学校の出口でジャンプしたために木靴が割れるシーン。それをズボンのベルトがわりの縄でまいて修理するところ。うまく修理できず、裸足になって道を歩きはじめるシーン。ミネクが帰ってくるのが遅い。それを心配して父親が「まだミネクはこないのかなあ」と道を眺めるシーンも好きだなあ。一瞬一瞬に、嘘がない。
 内気な青年が、若い女を追いかけるようにして歩く。女は男が追いかけてきているのに気付きながら歩く。やっと、男があいさつする。嘘がない。
 嘘がないのは、そうした美しいシーンだけではない。
 地主に農作物を収めにいくとき、重さをごまかすために馬車に石を隠すという農民のずるさもきちんと描いている。自分の家の薪を取りにでた少女が、だれも見ていないのを確かめて他人の家の薪をくすねる、というシーンもある。貧しい農民の、ずるさもありのままに描いている。この「ずるさ」がいやらしさにならないのは、それが「真剣」だからだ。
 貧しい農民は、まず、自分のことを考える。「みんなの幸福(利益)」を考える前に、自分の幸福(利益)を考える。その「自分のこと」が「真剣」につながる。これはあたりまえのことなのだが、そのあたりまえを描きつくすことで、かなしみが深くなる。
 「真剣」の美しい例は、おじいさんのトマト栽培。いち早く芽が出て、早く実るように肥料に工夫する。種蒔きにも、苗の植え付けにも工夫する。そこに「真剣」が出ている。その方法を他の仲間の農民には教えない。孫娘にだけ、こっそりと教える。いちばん早く熟れたトマトを街へ売りにゆく。高い金で売れる。自分だけの「利益」だ。
 牛が病気になった洗濯女は「聖水」を飲ませ、祈りの力で牛を治してしまう。これは「偶然」なのかもしれないが、その「祈り」と「行動」が「真剣」である。
 おろかな「真剣」もある。街で金貨を拾った男。どこに隠そうか。馬の足裏に隠すことを思いつく。蹄鉄の間の泥。それをはがして、金貨を隠し、また泥で蓋をする。そんなことろに金を隠すひとはいない。だから、盗まれる心配はないと思う。ところが、馬が歩けば、泥は剥がれ落ちる。新しい泥に変わってしまう。ぬかるんだ道を歩いてきたあと、ふっと気づいて足裏調べると、やっぱり、ない。
 生きる「工夫」で、びっくりするのは新婚の夫婦が「里子」をもらいに、修道院へ行くエピソードである。こどもにめぐまれないから「里子」をもらいにいくのではない。「里子」には養育費がついてくる。それを生活費にするために「里親」になる。貧しい若者が新しい家庭を築くためにはそうするしかない。
 このエピソードは、もしかするとミネクもそういう「里子」のひとりなのか、と考えさせる。ただ養育費が修道院から届くのなら、ミネクの一家は「無一文」ということはないだろうから、そうだとラストシーンは違ってきてしまう。また、話し上手の父親を見ていると、ミネクは父親の利発さを引き継いでいるのだという感じがする。「里子」ではなく、本当の息子なのだろう。いや、「里子」であって、ミネクにも養育費のようなものがいくらかでも届くのなら、彼らは生きて行ける。無事に生き抜いてほしいという気持ちが、そんなことを考えさせる。
 「事実」はどうであれ、ともかく、祈ってしまう。なんとか生きて幸せになってほしい、あのミネクの将来の姿がエルマンノ・オルミ自身であってほしい、と思わず願ってしまう。
 それにしても、木靴用に木を一本切っただけで、小作ができなくなる、農場を追い出されるとは過酷である。映画のなかには社会主義者(?)の運動のようなものが少し描かれているが、もう少し遅く生まれてきたらこのミネクの人生はまた違ってきたのだろうなあ、この一家の運命も違っていただろうなあ、と思う。



 79年に見たのは、岩波ホール。今回はKBCシネマ1。スクリーンの大きさ、明るさがまったく違う。大きなスクリーン、鮮明な好きリーンで見られるひとは幸せだと思った。
                      (KBCシネマ1、2016年04月20日)

木靴の樹 Blu-ray
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